引抜不要(Aパート)
スワガーの機嫌は悪かった。
彼は深く落ち窪んだような隈を目に湛えた男であり、どことなく他人に不気味なものを感じさせる男である。それは、彼が遷都後のイヴァンの劇場を引っ張ってきた苦労人である事を裏付けるものであった。彼の店は南地区の劇場である。南地区はメイン・ストリートであるアケガワストリートと、貧乏スラム街が隣り合わせとなっている極めて不安定な土地である。それは様々な人々が済む証左であり、スワガーの店もまた、様々な人種、経済地盤を持つ人々が訪れるという裏付けでもあった。
スワガー・ザ・シアター。それが彼の店の名前である。アケガワストリートという大通りの地下にあり、酒やつまみを出しながら、様々な芸人をステージに立たせる。彼自身は、伝統ある劇場と自負している立派な店だ。
「しかしね。どうも最近、客の出入りが悪いですね」
オーナー兼支配人であるスワガーは、客席とステージを見下ろしながら言った。スワガーの執務室は、ちょうどそれらが見渡せる中二階にあるのだ。ステージでは、スタンダップ・コメディを得意とするコメディアンが客席にまばらな笑いを提供していた。以前ならば、彼の笑いで劇場が揺れたものだが、今やブームは去って久しい。
「しかし、スワガーの旦那。あんたの経営努力にだって限界はありゃしねえかい」
細身のモノクロストライプのスーツをスラリと着こなした、目つきの悪い黒人男が、応接セットのソファーに座りながら言った。手元では、しきりに爪やすりで自分の爪を研いでいる。彼の名はピューマ。行政府のお膝元と呼ばれるアケガワストリートのエンタテインメント界の裏を牛耳る、大元締めである。
「エンタテインメントってのは、常に新鮮な体験を提供しなきゃならねえ。俺に言わせりゃ、ヤツのお笑いもそろそろお払い箱ってもんさ……」
「ピューマさん。じゃ、あんたはウチのステージに立つにふさわしい演者を用意できるってのかい。このスワガー・ザ・シアターにゃ、歴史と伝統、それを守ってきた自負ってもんがあるんだ」
ピューマはぎろり、と鋭い視線をスワガーに送った。その次に、ステージの下で孤軍奮闘しているコメディアンへと視線を向ける。そうしてから、爪やすりで再び自分の爪を研ぎ始めた。
「伝統ねえ。あんたのやり口で自慢できる『伝統』なもんかねえ。……ともかく、エンタテインメントの基本をあんたが知らないはずがねえな、スワガーの旦那。新しさってのを提供するなら、簡単だ」
そう言うと、ピューマはふうと息を吹きかけ、ヤスリをスーツのポケットにしまう。
「基本は、物珍しさだ。観客に提供するのはそれだぜ、旦那」
「あのね、ピューマさん。わたしがこの稼業を何年やってると思ってるんです。んなこたとっくのとうに知ってますよ。それができないから困っているんじゃないですか。こっちはね、ウチのもんをイヴァンは愚か、国中に散らばらせて情報を集めてるんです。ですがね、スターってのは、単なる物珍しさを超えた存在なんですよ。いまこの帝国に、そんなスターが何人いることやら」
スワガーは忌々しげに言った。ピューマの言うことはもっともなことだ。ぐうの音も出ない。ここを流行らせるような──それこそ、イヴァンを震撼させるようなスターがいれば──常に考えていることだ。今は単なる夢想でしかない。
「ま、俺はただの後見人だ。きっちり上がりがもらえりゃそれでいい。スワガーの旦那、今月分のアガリはきちんと頂いた。来月もこうあってほしいもんだぜ、なあ?」
ピューマは口端に笑みを浮かべながら紙に包まれた金を取り、事務所を出て行った。その場には、スワガーただ一人が残された。このままではよくない。そんなことは、スワガー自身がよく分かっていた。今回の上がりとて、演者の給料を削って捻出したものだ。こんなことが何度も続けば、スワガー・ザ・シアター自体の沽券に関わる。それより先に、演者が逃げ出すかもしれない。
スワガーは不機嫌だった。彼の取る道は、どんどん狭まり始めていたからだった。
一方その頃。
アケガワストリートを歩く二人がいた。中年男と少女が、連れ立って歩く。一人は、アクセサリー屋のフィリュネ。そしてもう一人の中年男はアクセサリー職人のソニアだ。男の方の手にはアクセサリーの満載された木箱。外回りの営業帰りに、繁華街でも抜けていこうと、この通りへとやってきたのだった。
いつも様々な人々が行き交い、様々な見せ物がゲリラめいて行われている事もあるアケガワストリートであるが、フィリュネは一際賑わっている人だかりを見つけ、立ち止まった。こうした寄り道も、営業の帰り道の醍醐味と言うものだ。
「ちょっと覗いてきてもいいですか?」
「長くは待たねえぞ。……俺は、タバコをやってる」
ソニアは携帯火種とストックしてある紙巻たばこを取り出すと、フィリュネの返事も待たずに、通りの影で一服し始めた。さっきまでいた店の主人がタバコ嫌いで、ソニアは一時間もタバコを吸えなかったのだ。フィリュネはそれに笑顔で返すと、人だかりへと突入していく!
「すいません、通してくださーい」
ぐいぐいと人混みの中を押し入っていく。眉を潜める人々もなんのその。こうした見せ物は、押し入ってでも見た物勝ちである。フィリュネが強引に人混みを通り抜けたその先には、三人の人物が立っていた。ハンチングを被った男に、小柄な少年。そして、フードにマントを目深に被った人物。
「さあさ、皆様お立ち会い。こちらにおわす歌姫は、世も珍しき亜人の歌姫。それも世界にまたとない、北の大山脈出身の『天使の歌姫』だ!」
二十代というには疲れた表情の、無精髭を生やした男がよく通る声で口上を述べる。帝国の北には凶悪犯を収容する『大監獄』があり、それより北には国境を隔てる、要塞の如き大山脈がある。フィリュネがいたのは、北東あたりにあった亜人の国であり、北にある雪で覆われるばかりの大山脈に亜人が住んでいるなど初耳であった。どうやらそれは、ここで人だかりを作っている人々も同じらしかった。
目深に被ったフードを、その『歌姫』が取る。青くまっすぐと伸びた長い髪がこぼれ、まるで雪の如く白い肌がちらりと間から覗く。青い髪と対照的に赤い瞳は、眩しそうに目を細めたまぶたの下からこちらを見つめていた。
続いて、女のとなりに立っていた、ブカブカの白いコートに赤いマフラーの少年──こちらも青い髪だが、肌は女ほど白くは無かった──が、抱えきれないほど大きな荷物を解き、鍵盤やらめちゃくちゃに伸びたラッパめいたパイプが絡まった、楽器らしきものを取り出すと、それを持ち上げ、大きく息を吸い込んだ。一気に吹き込み口から息を吹き込み、鍵盤を叩くと、軽快で楽しげな音楽が鳴り始める。
その歌には、歌詞が無かった。
だが、女が様々な音階で歌を紡ぐ度に、人々の心を少しずつ──まるでゆりかごを指で押して揺らすように僅かに──揺らした。揺れは大きくなり、女が歌い終え、少年の楽器が奏でるメロディが止まった瞬間、水を打ったようにしん、とストリート全体が静まり返ると、爆発するような人々の万雷の拍手がストリートを揺らした!
「感動したぜ」
「初めて聞いたねえ」
「亜人の歌がこんなに凄いとは」
人々は口々にそう呟く。疲れた顔の男がすかさず、自分が被っていたハンチング帽を取ると、人々に向かってよく通る声で言った。
「さあさ、みんな。この歌を聞けるなんて、ラッキーだよ。この歌をもっと聞きたいってんなら、明日もあさっても歌えるように、ほんの少し心づけを!」
男の言葉に呼応するように、人々は少年の楽器が入っていた袋に思い思いの金額を放り込む。銀貨や銅貨が宙を舞い、袋の中で金属同士楽しげな音が鳴る。
やがて、人々がまばらになった時、フィリュネもまた銀貨を一枚持って三人の前に立ち、話しかけた。亜人ということもあり、親近感が湧いたというのも理由だ。ここイヴァンでも、内戦以後、フィリュネの知り合い以外の亜人に出会うことは少ないのだ。
「私、感動しちゃいました! あの、これ心づけです。袋にいれておきますね」
「ありがとうございます。……アナタも、亜人なの?」
女はやわらかな笑みを見せながら、問うた。フィリュネは首を縦に振ると、フードを下ろし耳元の髪を持ち上げた。痛々しく変形した耳が、ちらりと空気に触れる。エルフ族の耳は尖っており、逆に言えばそれ以外外見上大した違いはない。フィリュネはかつて追手から逃れるため、強引に耳の一部を切り取ったのだ。
「よく分かりましたね」
「雰囲気で分かるわ。……彼もそうなの」
女は、少年の方を手で示した。
「私はクアトロ。彼は……」
「僕はノオ。僕達、『天使の村』から来たんです」
少年は荷物を仕舞い終え、自分の身体ほどある楽器の入った荷を、かるがると背負った。なかなか力持ちらしい。
「私はフィリュネです。とっても素敵な歌ですね。ホントに天使さまみたいですよ!」
クアトロははかなげに口元を押さえながら笑った。
「高いところに住んでいただけですよ。天に一番近い村に住むから、天使だなんて」
「でも、もう村には僕らしかいなくなっちゃったんです。だから、他に住めるところを探して旅してるんですよ。でも旅にこんなにお金がかかるなんてしりませんでしたよ」
亜人の集落の中には、村人同士の相互扶助のみで暮らすコミュニティも多い。通貨制度があまり浸透していないことさえある。平和に暮らす証拠でもあるが、ともすれば些細な事でコミュニティはあっという間に崩壊に至ることがある──フィリュネはかつて父親から聞かされた知識を思い出していた。彼らもまた、生きるために里を後にする他無かったのだろう。
「あの、私西地区のヘイヴンって市場で店を出してるんです。何かあったら、教えてください。どーんと力になっちゃいますから!」
フィリュネは自身の大きな胸を張ってそう言った。同族というわけではないが、亜人というくくりで見れば同じようなものだ。その時、ハンチング帽の男が金を数え終わり、袋に詰め終わったのか、立ち上がって三人に話しかけた。
「クアトロ、ノオ。今日はそろそろ宿を探そう。……すいませんね、お客さん。明日ここでやると思うので、またその時……」
ハンチング帽を被った疲れた顔の男の瞳が、大きく見開かれる。驚愕の色だ。フィリュネは、男が何故驚いているのか、皆目見当がつかぬ。その時、タバコを吸い終わったソニアが寄ってきて、フィリュネの肩を叩いた。
「フィリュネ。そろそろ行くぞ。まだ日が高いから、店を開いたほうがいいだろう」
男は後ずさりし、更に驚愕する。とこが何故驚いているのか、ソニアにもまた皆目見当がつかぬ。男は、恐る恐るハンチング帽を取り──二人に俄に騎士めいて片膝をついた!
「お、お、お久しゅうございます! フィリュネ殿、『英霊』殿!」
突然の出来事に時が止まるアケガワストリート! 行き交う商人が、貴族が、大衆が、一斉にその光景に目を丸くした! フィリュネは慌ててしゃがみ、事の次第を問い詰める!
「え、な、何なんですか、急に!」
「じ、自分は……自分は不忠者であります! 主人に申し訳が……」
ソニアはなにかを察したのか、男の首根っこを引っ掴むと、強引に路地裏へと引きずり、誰もいない裏路地の壁へ投げつける! 息が肺から抜け、苦しげにうめく男の今度は胸ぐらをつかんだ!
「人の目がある。芝居に巻き込むなら、相手と時間と場所を選ぶんだな」
「お、覚えていないのも無理は無いでしょう」
男は改めてソニアと、伴って路地裏へと足を踏み込んだフィリュネ、そしてクアトロとノオに向かって立膝をつく! これは、国に忠誠を誓う兵士が行う礼儀作法に他ならぬ!
「自分は、ソニア卿麾下のマイルマンと言う者です。フィリュネ殿、英霊殿。お父上と、ソニア卿の事は……無念でありました」
南地区は帝国成立時に、皇帝を讃えんとアケガワストリートが通った時代から急速に発展した地区である。よって、ストリートを少し離れれば経済的に貧しい区域とそうでない急速に発展を迎えた区が入り混じる。こうしたマーブル模様めいた地区は、イヴァンの中に度々点在するのだ。
「自分はソニア卿の近衛兵を務めておりましたが、あの日の異常は良く分かりました」
マイルマンは、まるで昨日のことのように言う。ここは、小さなホテルの部屋。ソニアとフィリュネは、クアトロとノオ、そしてこのマイルマンが泊まっている部屋に来てほしいと懇願され、結局渋々ついてきたのだった。クアトロとノオには、金を持たせて外で食事を取らせている。何しろ、彼がするであろう話は、間違いなく危ない話になるだろうからだ。
「何しろ、南の空が真っ黒に染まったかと思うと、ありったけの爆弾が降り注いだんですからね……後で聞いたら、爆発火炎術式を採用した最新兵器だったとか。案の定、領土には何も残りませんでした。俺は、たまたま瓦礫の下に埋もれてたところを助かったんです」
焼け落ちた国にはただただ、何もない焼け野原であった。失われた生命と、焼きつくされた瓦礫の山だけがあった。マイルマンには政治は分からない。戦略も、戦争も。だが、これから起こるであろう事は分かる。攻め落とされた都市には、当然のごとく略奪者が来る。ソニア卿はそれを好まなかったが、他の貴族の私兵共が、同じとは限らぬ。
英霊殿はどうなっただろうか。亜人達は。主人は。一瞬よぎった疑問は、目の前に転がった黒い物体を見て消えて失せた。黒く炭化したそれは、天に手を伸ばしていた。もはやかつて持つ色すら失ったその物体は、よく見ると虚しく口を開けたままの死体だったのだ。
自分がこうならない理由は、もはやどこにもない。マイルマンの中から忠義心や正義の心は全て吹き飛び──よろよろと焼きつくされた街を歩いた。彼は生命を長らえる事はできたが、それ以外の全てを失った。
「待ってくれる人はだれもいませんでした。何分、独り身なものですから。だから、逃げ出してしまったのです」
「それで何だ」
ソニアは指にタバコを挟み込んだまま、不機嫌に言った。
「知り合いに神父がいる。あんたが話すべき相手がいるとすれば、そっちだろう。俺には関係ない」
「しかし! ソニア卿はあなたに全てを託したのですよ。皇帝は確かに死にました。だが、亜人達の国は焼きつくされた。ソニア卿とて、それは本意ではなかったはずです。その無念を、あなたは晴らそうとは考えないのですか」
ソニアはマイルマンの胸ぐらを掴むと、持ち上げ立たせた! その顔には、静かな怒り。フィリュネも同じくうろたえながら立ち上がり、彼にすがりつこうとするも、ソニアはゆっくりそれを振りほどく!
「お前に何が分かる。彼女の何が分かる! 皇帝は死んだ。彼女も死んだ。お前が彼女に何を思おうと勝手だ。俺は、彼女のために皇帝を殺した。それ以上でも以下でもない!」
ソニアはいつの間にか肩で息をしていた。普段の彼からは考えられぬ激昂ぶりだ。しかし、マイルマンもまた失われたはずの忠義心を燃え上がらせ、彼に詰め寄ったのだ!
「では、亜人の国の人々はどうなります。皇帝が死んだ事で、亜人達は大勢を殺された!」
「もう、やめてください」
フィリュネは冷静に言った。そこには怒りはなく、悲しささえ漂わせていた。ソニアはマイルマンから手を離し、自分のコートの襟を正す。アクセサリーの入った箱を持ち、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「どうして」
マイルマンはひとりごちる。彼の言うことも、フィリュネには痛いほど理解できる。ソニア卿は、確かに変わり者だった。変わり者だったからこそ、その功績に似合わぬ北東の小さな領土の辺境伯に収まっていたのだ。亜人の国の上層部でも、気難しさを白眼視する者も多かったが、彼女は常に平等で正々堂々としていた。部下は彼女のためならば、死をも恐れなかった。たとえ皇帝を敵に回してさえも。
「マイルマンさん。わたしも、ソニアさんも──大切なものを失いました。私は、故郷も、父も、友人も……全て失ったんです。失ったことを忘れたことはありませんが、改めて思い出すのはとてもつらいことなんです。分かってあげてください」
マイルマンはベッドに座り込み、うなだれていた。彼もまた、何もかも失った一人なのだ。それがどれだけ辛いことか、自分だけが生き残ったことが、どれだけの罪悪感を産むか……フィリュネには理解できすぎるほど理解できていた。フィリュネは、全てを失ってなお、ソニアが残った。おそらくマイルマンには、亡き主人の名誉を挽回するくらいしか、罪悪感から逃れるための方法が残されていないのだ。
「あの、また歌を聞きに来ていいですか。クアトロさんと、ノオさんの」
マイルマンは力なく、ええ、と返事を絞り出した。彼にとっては、たったそれだけの返事をするのに、どれだけ辛かったことだろう。彼はこれから、死ぬまで続く罪悪感と戦いながら生きていかなくてはならないのだ。自分が、なぜ生き残ったのかという罪悪感と。
一方その頃。クアトロとノオの二人は、小さな食堂で食事を取っていた。旅先で様々な食事を口にしてきた彼らでも、思わず唸ってしまう美味しさだ。何の変哲もないハンバーグ・セット。村にいた時では考えられぬ程の食事だ。山頂に隠れ住む天使の一族。そういえば神秘的で聞こえは良いが、実態はひもじく辛い生活だ。もっとも、それに気づいたのは山を降りてからであったが。
「……ノオ、どうしたの」
クアトロはフードからちらりと赤い瞳を向け、ノオに優しく話しかけた。彼の前に、一口二口程度しか減っていないハンバーグ・セットがそのままになっている。先ほどのコンサートはうまくいった。ノオにも、特にこれといったミスもなかったし、体調も万全なはずだ。
「わたしは、おいしいと思うわ。味は良いわよ。お腹でも痛いの?」
「姉さん。僕ら、こんな生活をいつまで続ければいいんですか」
ノオは俯いたままそう言った。クアトロは被ったフードを少し深くかぶり直すと、少しだけ彼と同じように俯いた。考えたくない話だ。
「マイルマンさんは、良い人よ。長老が言っていたような、私達を売り飛ばして利用するような人間じゃないわ。だから……」
「そんなの、わからないですよ。そもそも僕らは、安全に暮らすための場所を探して旅しているんじゃなかったんですか。このヘイムだって、本当は村の祭りで年一回だけ使うのが掟だって……」
彼は自分の後ろの、巨大なリュックに入った楽器を指さす。
ノオは、素直で優しい、頭の良い子だ。村での生活は楽しかったし、ノオのような子にとってまさに天国であった。だが、ノオが十歳になった頃、既に村人の人数は十人を切っており、村に限界が近づいているのは、ノオを除けば最年少であるクアトロですら理解せざるを得なかった。そして、老人たちの死によって、ノオとクアトロの二人が残ったのだ。
村を出る。狭い村の中しか知らぬ自分たちが。
それは、自殺に等しいような選択であった。彼らがマイルマンに出会ったのは、まさしく僥倖であった。マイルマンは気高き──元、という言葉はつくが──兵士であり、彼らの無垢さは全てを失ったばかりの彼が、守るに値する『何か』にふさわしかったのだ。
「マイルマンさんは確かに良い人です。でも、姉さんが歌を歌って、僕がヘイムを吹いて、お金を貰う。でも、一部持って行ってしまうじゃないですか」
マイルマンは、当然ながら人間社会によく通じている。そして、腕が立つ。クアトロも話には聞いていたが、道中は魔物に盗賊、冒険者崩れと、危険には事欠かぬ。マイルマンがいなければ、クアトロもノオも、少なくともこうしてハンバーグを頬張る事は叶わなかっただろう。
クアトロはハンバーグにナイフを入れ、フォークで肉を口へ運んだ。
「マイルマンさんは、取り分をとっているのよ。彼も、食事をしなくてはならない。当然の権利だわ」
ノオは、とうとうフォークとナイフを置いてしまった。目に少し、涙すら溜めている。ノオは大事な弟だ。そして、彼の辛さは自分の辛さでもある。旅はマイルマンのお陰で大きなトラブルには巻き込まれていないが、今後こうして安住の地にたどり着けるかどうかなど、わからなくなりつつあった。
「ノオ。でも彼なしでは……」
「ちょっと、いいかい」
突然、会話に割り込むものがあった。クアトロがその赤い瞳を隣に向けると、お昼時にもかかわらず、コーヒーだけを頼んでいた男が、少しこちら側に身を乗り出しながら、話しかけてきていたのだった。
「さっきの、氷の歌姫さんでしょ」
男は、金髪のツンツン頭で、なかなか目鼻立ちが整っている男であった。どことなく、軽薄な雰囲気も漂っている。堅物の疲れた風貌の、マイルマンとはまた違った人間のようだった。
「で、そっちの弟さんが楽器を」
「誰ですか?」
ノオが、少し眉を潜めながら男に尋ねた。男は人好きのする笑みを浮かべながら、紺色のスーツの裏ポケットから、何やら名刺らしいものを取り出し、差し出した。ノオはそれを受け取るも、彼には字は読めなかった。クアトロはある程度読み書きを学んでいる。書いてあるのは『スワガープロダクション スカウト チョー・リッツ』と書かれているようだった。
「俺、リッツっていうの。よろしくね。で、横でちょっと聞いてたんだけどさ。なになに、ギャラでジャーマネと揉めてんの? あるよね、そういうの」
リッツと名乗った男の言葉が、何一つ理解できぬ。クアトロは首をかしげながら、生返事をするほかなかった。
「で、ウチ実はさ。スワガー・ザ・シアターって劇場やってんの。イヴァンが出来た時からある、すげえ劇場だよ。マジパネェよ。正直言って、路上でやってるのなんて、比べ物になんねェし、ギャラは出来高制。クアトロちゃん美人だし歌も上手いし、弟さんだってマジ珍しい楽器じゃん? お客さん超呼べるからね、マジで。今さ、家とかどうしてんの?」
口を挟む余地すら無い。しかし、クアトロとて、彼がどこかよくない人間であることを過敏に感じ取っていた。何かが危険だ。少なくとも、会ったばかりの人間に、口当たりの良い言葉しか吐かない人間は、信用してはならぬ。今は亡き、天使の村の長老の言葉だ。
クアトロにとってショックだったのは、ノオがその軽薄な言葉を身を乗り出さん勢いで聞き始めていることだった。ノオは、自分に比べてまだ子供だ。『良い人間』がどういうものか、そうでない人間が構成する闇を、よく知らぬ。
「すみません。まだ弟が食べているので」
「あっ、ごーめんね? その名刺、あげるからさ。気になったら、ウチに来てよ。劇場も近くにあんの。ウチの旦那のスワガーさん、あんたらの事超気にいると思うよ。そうすりゃ、メシも住むとこも、思いのままだからさ……」
リッツはにやり、とこれまた人好きのする笑顔を満開にすると、注文したコーヒーを一気に流し込み、自分の注文書と、二人のテーブルに置かれた注文書をひったくったのだった。クアトロもノオも、ただただ困惑するばかりだ。見ず知らずの人間に、そこまでしてもらう事は出来ない!
「あの、リッツさん。そこまでしてもらうことは……」
「いーの。今日はおごりだからさ。また、暇な時にお話しよーよ!」
いつの間にか、ノオは冷めかけのハンバーグにナイフを入れ始めていた。彼の食欲は、再び戻ってきたようだった。
「氷の歌姫ねえ。耳さわりはいいけどねえ」
スワガーはそろばんを弾きながら、目を離さずにスカウトのリッツの話を聞いていた。アケガワストリートでゲリラライブを行い、民衆の心を鷲掴みにした氷の歌姫。今となっては珍しくなった、亜人の女だという。
「旦那。正直言って、マジパネェっすよ。どれくらいパネェかって言うと、マジパネェっす」
「あんたが何言ってんのか、あたしにゃよく分かりませんよ。でも、亜人の歌手ってのは、いいかもしれませんね。リッツ、とりあえず連れて来なさい。一回、ステージに立たせてみましょう。うまくいきゃ本格的に契約して……」
スワガーは文字通りそろばんを弾き、今後のV字再生計画を一気に思い描く。このリッツというスカウトは、見た目通りの軽い性格だ。スカウトという立場を利用して、女に手を出すことも度々ある。しかし、才能を見抜く力と、ことターゲットを劇場に立たせるまでの手口は、鮮やかなものだ。それこそ、どんな小細工を弄してでも、成功させるのだ。『小細工』で済まない事もあるが、結果は出す。
「でも旦那、なんかジャーマネがいるみたいなんすよね。ぶっちゃけ、ステージに立たせるまでに結構、金かかるかもしれねっす。マジヘビーっていうか」
マネージャーがいる。既に、その『マネージャー』に芸を管理されているのであれば、一気に厄介になる。マネージャーは、文字通り芸人を統括する存在だ。マネージャーとその下にいる芸人を、まるごと抱え込むことは難しい。マネージャーがその気になれば、スワガーのような劇場支配人にとっていくらでも不利な条件に持って行くことが可能だからだ。
「……とにかく、マネージャーごとでもいいから連れて来なさい。方法は、それから考えます。なあに、あたしだって、金の出しどころは間違わないつもりですよ……」
スワガーはそろばんを弾き終えると、濃い隈を作った目で笑った。




