乾杯
私の椅子の背もたれの上に、猫ほどの大きさのカマドウマのような虫がとまってあの鳴き声を出している。
「こいつだったのか!」
私は両手で捕まえようとしたが、虫は素早く部屋のすみへ飛んで逃げる。
それをあわてて追ったが、人間の足では虫のジャンプに追いつかない。
その上、何か月も飲み過ぎと運動不足だったため、すぐに体力がなくなって床にへたばってしまった。
「あとはお前の努力次第だ。確かに渡したぞ」
「ま、待ってくれ!」
立ち上がって出て行こうとする男を、私はあわてて止めた。
呪術に詳しいこの男にも捕まえる手伝いを頼みたかったのだ。
床に半身を寝かせたまま男のマントをつかむと、被っていたものがバッサリと落ちた。
「手伝って欲しいと言うのだろうが、それは無理だ。アゼヒム・セグフの玉羽を手に入れた時、すでに報いを受けているからな」
ゆっくりと振り返った男の顔からは、眼球が元から無かったかのように失われていた。
あれから虫は嘲笑うごとく私のまわりを飛び跳ね続けている。
人を雇って捕まえさせようとしても、あの羽を使って虫が見えるのは私しかおらず、私一人で捕まえるしかない。
ムキになって追いかけても捕まえることはできず、疲れ果てて眠れば耳元で鳴き続ける。
しかも日を追うごとに、だんだん大きくなっていくではないか。
いくら酒を飲んでもあの声が頭に響くため眠れない日々が続き、食欲もなく、気力も尽き果てた時、いいアイデアが浮かんだ。
そうだ。
あの男だって眼球を失って永遠に光をなくしたが、逆に言えば見たくないものを見なくて済むようになったのだ。
私も聞きたくないものを聞こえないようにするには、耳を失えばいいんじゃないか。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうか。
私は強い酒をコップ一杯ついで一気に飲み干し、ナイフを取り出して自分の耳に当てた。
部屋の隅には大型犬ほどのサイズに成長した虫がじっと私を見ている。
これでもう貴様の声など聞こえなくなるんだ。
ズズッ、ズッズズ。
激痛もこいつの声が聞こえなくなるのなら安いものだ。
両手につたう生暖かい血も、こいつと決別するための洗礼と思えばいい。
ボトリ、と、片方の耳が落ちた。
もう一杯酒をつぐと、手から滴り落ちた血がグラスに流れ込み、茶色の液体をさらに深みある色へと変えていく。
「別れの日に乾杯」
また一気に飲み干して、残った耳にナイフを当てた。