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無人島の強打者       :約10000文字 :中谷系

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/15

 ……あれ、ここは……。


 目を覚まし、上体を起こしたおれはそのまま固まった。

 耳に飛び込んできたのは、寄せては返すさざ波の音。目に映るのは、陽光を受けて白銀色にきらめく海。視界の端まで目を凝らしても、建物はおろか船影一つ見当たらず、ただ空と海を分かつ一本の水平線だけが果てしなく続いていた。


「……夢? うおっ」


 思わず呟いた、その瞬間だった。背後から、ぽんと軽く肩を叩かれた。

 おれは反射的に振り返った。


「どうもー」


 そこには一人の男が立っていた。

 ……でかい。おれが地面に座っていることを差し引いても、かなりの長身だった。それだけでなく身体つきもしっかりしている。肩幅は広く、腕も脚も、脂肪なのか筋肉なのかどっちかわからないが厚みがあり、全体的にがっしりとした体格だった。肌は健康的に日に焼けており、何かスポーツでもやっていそうな雰囲気だ。顔立ちは童顔で、その厳つい体格には似つかわしくない妙に爽やかな笑みを浮かべていた。


「あの、これはいったい――うわ!?」


 男はいきなりおれの頭に手を伸ばし、まるで子供にするように髪をわしゃわしゃと掻き回した。おれが反射的にその手を振り払おうとしたが、男はさっと踵を返し、そのまま何事もなかったかのように歩き出した。

 数歩進んだところで立ち止まり、砂浜に落ちていた一本の太い枝を拾い上げた。そしてそれを両手で構え、海に向かって素振りを始めた。

 いや、なんなんだ……。お前も武器を拾えという意味だろうか。決闘? おかしな夢だ……夢……いや、夢だよな?

 そう考えながらおれはゆっくりと立ち上がった。

 鼻の奥にまで押し入る潮の匂いに、じりじりと肌を焼くように降り注ぐ陽射し。片方脱げた靴――その靴下越しに伝わる乾いた砂の感触。全身に重くまとわりつく倦怠感と、痛みを感じるほどの喉の渇き。そのどれもが夢にしてはあまりにも生々しかった。

 おれは足元の砂を踏みしめながら改めて周囲を見渡した。

 そして確信した――これは……現実だ。

 だが、どうしておれはこんな場所に……あっ!

 ぼやけていた頭の中が少しずつ晴れ、途切れていた記憶が一本の線に繋がっていった。それと同時に胃がぐるりと捻れ、喉の奥から吐き気が込み上げてきた。


 おれは……人生の落伍者だ。

 就職活動に失敗し、日雇いのアルバイトやフードデリバリーでどうにか生活費を稼いで食いつなぐ毎日。どうにかしたい。どうにかしなければならない。そう思いながらも、自分にはこれといった能力もなければ要領も悪く、結局何一つ変えられないまま年月だけが過ぎていった。

 気づけば、もう若者と呼ばれる年齢でもなくなっていて、街を歩けば自分よりずっと若い連中の笑い声がやけに耳につき、そのたびにどうしようもなく惨めな気分になった。もう取り返しがつかないのだと思い知らされているようで。

 いっそ死ぬか――。

 そんな考えが定期的に頭をよぎるようになった頃だった。ある日、ぼんやりとテレビを眺めていたら、民間ロケットの打ち上げのニュースが流れた。カウントダウンが始まり、轟音とともに白煙が噴き出してロケットの周囲を白く包んだ――結果は失敗に終わった。だが、それでもおれの心は震えた。

 そうだ。生まれたからには何か一つくらいはやり遂げなければ――。

 そう考えたおれは、長年心のどこかであきらめきれずにいた海外旅行に行くことを決心した。アルバイトを増やし、食費を切り詰め、必要のない出費を徹底的に削り、必死に金を貯めた。

 どれだけ疲れ切っていても翌日には働きに出た。贅沢したいという誘惑も他人を羨む気持ちも自分の人生への嘆きもすべて押し殺した。前へ進んでいるという感覚が心地よかった。

 そしてようやく目標額に達し、飛行機の座席に腰を沈めた瞬間、おれは拳を強く握りしめた。

 やった、やってやったぞ。世間から見れば、おれは底辺なのだろう。まともな仕事にも就けず、友人もいない。けれど、そんなおれでも海外に行けるんだ。生まれてから一度も国を出ることなく人生を終える人間だって少なくないはずだ。でも、おれは違う。自分で金を貯めてここまで来た。やった。おれはやったんだ。

 まだ飛行機が離陸する前だというのに、胸の奥は達成感と久しく味わっていなかった自己肯定感に満ちていた。別人に生まれ変わったような気さえした。帰ってくる頃には人生が一変しているだろう――そんな根拠のない予感まで抱いていた。

 しかし、機内で熟睡していたところ、突然機体が激しく揺れ始めた。それから――いや、そこから先のことはよく覚えていない。耳をつんざく悲鳴と轟音。座席ごと投げ出されるような凄まじい衝撃。顔を叩きつける水しぶき。断片的な光景が脳裏に焼き付いている。

 現実に起きた出来事というより、悪夢の一場面のように思えた。だが、あれが現実だったとすれば……飛行機は墜落したのか。あるいはおれだけが機外へ投げ出されたのか。いや、それならどちらにせよ飛行機はもう……。

 わからない、何もわからないが、なんてことだ……!

 神はおれになんの才能も与えなかったばかりか、人生でたった一つ、自分の力で叶えようとしていた願いさえも奪うというのか!


 目の奥が熱くなり、視界がじわりと滲んだ。込み上げてきた涙を流すより先に吐き気が喉元までせり上がり、おれは砂浜に膝をつき、そのまま嘔吐した。胃の中には何も残っていなかったらしく、出てきたのは黄ばんだ胃液だけだった。口から糸を引きながら砂の上に落ち、陽射しを受けて艶めかしく輝いたあと、砂に黒く染み込んでいった。

 肩を震わせながら、おれは何度も嗚咽を繰り返した。しばらくして顔を上げると、ふと、あの男がこちらを見ていることに気づいた。

 笑っている。それも、人の失敗を面白がる小学生のような意地の悪い笑みだった。

 その表情を目にした瞬間、小学生時代の嫌な記憶が蘇り、おれは思わず顔をしかめた。


 ――ん?


 目を細めた拍子に、男の顔が先ほどよりもくっきりと浮かんだ。

 そういえばあいつ、どこかで見たことがあるぞ。

 テレビか……? それにしてもいつまで素振りを続けているんだ。素人のおれが見てもかなり様になっているのはわかるが、まさかプロの――あっ!


 唐突に頭の中で記憶が一本に繋がった。もっとも、あの男に関する記憶だけだったが。

 だが間違いない。あいつ、中谷だ……!

 日本人プロ野球選手で現在はメジャーリーグで活躍している、あの中谷だ。二刀流の肩書きを引っ提げて世界中を熱狂させ、投げても打っても歴史に名を刻むようなすごい記録を次々と打ち立ててきた怪物である。

 日本でも連日のように活躍が報じられ、ニュース番組では特集が組まれ、朝昼夕とその顔を見ない日はない。CMにもひっきりなしに出ているので、正直言っておれは食傷気味だった。

 だが、そんな男がなぜこんなところにいるんだ……。たしか、今はシーズンオフだとか。まさか同じ飛行機に乗っていたのか。それであいつもこの島に流れ着いたのだろうか。もしかすると何か知っているかもしれない。

 そう思ったおれは、ふらつく足取りで中谷に近づいた。


「あのー……」


「……」


「もしもし……」


「……」


「ハロー……?」


 無視……か? 中谷はおれなど最初から存在していないかのように、バット代わりの木の棒を黙々と振っていた。

 確かに練習の邪魔だったか。プロ中のプロだものな。遭難しようが何だろうが日課をおろそかにしたくないのだろう。


「いや、今そんなことをしている場合じゃ――うおっ!」


 突然、中谷がこちらへ身体をずらした。次の瞬間、振り抜かれた棒の先端がおれの鼻先をかすめ、ぶわりと風圧が頬を走った。おれは反射的に身を引き、その勢いで尻もちをついた。

 笑っている――。

 見上げると、中谷はニヤつきながら素振りを続けていた。

 練習の邪魔だからおれを無視しているわけではない。いや、それも多少はあるのかもしれないが、それ以上にこの男はおれを無視すること自体を楽しんでいるのだ。

 そう理解した途端、中学時代の嫌な記憶が脳裏をよぎった。

 おれは顔をしかめ、膝に手をついて立ち上がった。向こうがその態度なら、こちらから無理に関わる必要もない。まずは自分で島の様子を調べてみるとしよう。

 そう思い、おれは踵を返して歩き出した。


「どうしたんすかあ」


 ぬっと背後から腕が伸び、おれの頭にぽんと手が置かれた。そのまま子供をあやすように何度も軽く叩かれた。

 振り返ると、中谷はへらへら笑いながらおれの顔を覗き込んできた。のしかかるように身体を寄せられ、やつの体温がじわりと伝わってきた。汗と日焼け止めが混じったような匂いがむわりと鼻腔を撫でた。不快な匂いではなかったが、その馴れ馴れしい距離感がひどく癪に障った。

 それにしてもでかい男だ。逆光で表情は見えにくいが、くしゃっとした笑みを浮かべていることだけはわかった。

 ようやく会話する気になったらしい。

 おれは小さくため息をついて手を振り払うと、中谷へ向き直った。


「えーっと……飛行機はやっぱり墜落したんでしょうか? 他の人たちは? ここはどの辺なんでしょうか?」


 中谷は口をへの字に曲げ、わざとらしく首を傾げた。


「そんなの、僕が知るわけないじゃないですか。馬鹿だなあ」


 中谷はそう言うと、また眉毛をハの字にして笑った。

 正直、かなりいらいらしたものの、おれはなんとか感情を押し殺し、一つ息を吐くだけに留めた。

 この男も状況を把握していないようだが、遭難したことだけは間違いなさそうだ。ならば、ここは互いに協力するしかない。


「とりあえず島の周りを歩いてみませんか?」


「なんで?」


「他にも誰かいるかもしれないからです」


「なんで?」


「なんでって……同じ飛行機に乗っていた人とか、この島の住人とか。まずはここが無人島かどうか確かめたほうがいいでしょう」


「いや、僕らがいるんだから無人島ではないでしょ」


「……ああ、そうですね」


「冗談ですよ。睨まないでくださいよ。ノリ悪いなあ」


 中谷は笑いながら、おれの背中をバシバシ叩いた。その感触に、ふと高校時代の嫌な記憶が浮かび上がり、おれは唇を噛んだ。


「で、どうするんすか」


「え、えー……おれが右回り、あなたが左回りで、それぞれ島を半周ずつ調べましょう」


 おれはそう提案した。


「あー、僕、左打ちなんですよねえ」


「そう……ですか。え、じゃあ逆のほうがいいですか?」


「でも右投げなんですよ」


「じゃあ……え、どっちがいいんですか?」


「どっちだと思う?」


「さあ……」


「最初に言ったのでいいですよ。合わせてあげます。ははは、暗いなあ」


「どうも……」


 結局、おれが右回り、中谷が左回りで島を半周ずつ調べることになった。

 二人で行動したほうがいいような気もしたが、あいつと一緒にいると怒りで頭がおかしくなりそうだったので、別々に動くほうがましだと思い直した。

 島を歩き続けるうちに、その苛立ちは徐々に収まってきたが――なぜ、おれがあいつに敬語を使っているんだという疑問にまた苛立ったが――代わりに絶望感が込み上げてきた。

 この島は想像していたよりはるかに小さかった。しかも開けた場所が多く、木々もまばらだった。つまり、食料になりそうな木の実や植物がないのだ。獣の気配はおろか鳥の鳴き声すら聞こえず、そして何より人の姿がなかった。あいつ以外には。

 島をぐるりと一周して元の浜辺へ戻ると、中谷は相変わらず木の棒を振っていた。


「……あのー」


 おれは近づいて声をかけた。


「あのぉー」


 中谷は振り返ると、口を尖らせ、間延びした声で返してきた。


「えっと、今見てきたんですけど」


「えっとお、今見てきたんですけどお」


「いや、真似しないでくださいよ、ははは……」


 おれは無理やり笑みを作って言った。こんなにも腹立たしいのに愛想笑いをしてしまう自分が情けなかった。


「真似しないでくださいよお」


「ちょっと勘弁してくださいよ、もー」


「冗談ですよ。で、何?」


「え……いや、だから見て回ったんですけど、やっぱりここ、無人島みたいです」


「だから僕たちがいるじゃないですか。有人島ですよ、ここは」


「……そうね。はい……いや、それよりちゃんと見てきましたか? まさか、ずっとここで素振りしていたんですか?」


「はい」


「おお……いや、あなたも調べてくださいってお願いしたじゃないですか」


「でも、あなたが島を一周してきたんでしょ?」


「え、まあ」


「じゃあ、いいじゃないですか」


「……はあ」


 もう言い返す気力すら湧かず、おれは肩を落とし、とぼとぼと中谷から離れた。

 野球では世界一なのかもしれないが、それ以外のことでは何の役にも立たない。そう確信したおれは一人で島を徹底的に探索することにした。

 その結果、浜辺に打ち上げられていた漂着物の中からライターを二本見つけた。どちらもガスは切れていたが、火打石はまだ生きており、着火部分を指で何度か弾くと小さな火花が散った。

 おれは木の皮を石で薄く削って火口を作り、さらに島を歩き回って乾いた草や枯れ葉、薪になりそうな木の枝を拾い集めた。湿気を含んでいるものは避け、折ったときに軽い音がする枝を選んでいった。

 ようやく準備が整った頃には空はすっかり赤黒く染まり、じわじわと夜が広がり始めていた。当然、灯りなどはない。間もなく島全体が暗闇に包まれるだろう。

 おれはライターの着火部分を指で何度も弾き、かなり時間がかかったものの、なんとか小さな火を起こした。慎重に息を吹きかけながら枯れ葉を足していくと、赤い火がぱちぱちと音を立て、細い枝に燃え移った。さらに薪を重ねると炎は少しずつ勢いを増し、やがて大きく燃え上がり、ひとまず形にはなった。

 おれは焚き火の前に腰を下ろし、長く息を吐いた。途端、一日の疲れがどっとのしかかり、その重さがやはりこれは現実なのだと頭を揺さぶった。なんで、どうして、これからどうなる――以前から将来への漠然とした不安は抱えていた。だが、この状況はそれとはまた違う。いつ助けは来るのか。それまでどう生きるのか。その後はどうなる。不安と恐怖が混ざり合って胸の内側を掻きむしり、感情がぐちゃぐちゃになりそうだった。

 おれはただぼんやりと焚き火を見つめた。そうすることで少しだけ心が落ち着き、どうにか叫ばずにいられる気がしたからだ。

 火を起こしてからしばらく経った頃、物音がした。

 反射的に振り返ると、暗がりの向こうから中谷が現れた。

 中谷は少し距離を空けて腰を下ろすと大きなあくびを一つ漏らし、手のひらで顔を撫でつけ、眠たそうにまぶたを擦った。

 おれは気づかれないように小さく笑った。その無防備な仕草がどこかかわいらしく見えてしまったのだ。


 ――仕方のないやつだな。


 翌朝。おれは浅瀬に石を運んでいた。

 前日にこの辺りで何匹か魚が泳いでいるのを目にしていたのだ。魚を捕るために浅瀬の一部を石で囲って逃げ場をなくすことにした。

 濡れた岩場は藻でぬるぬると滑り、足を踏み外せば脛を岩にぶつけて切ってしまいそうだった。その場面を想像するだけで顔が引きつり、おれは歯を食いしばりながら慎重に大きめの石を一つずつ運び、囲いを作っていった。

 石を探しては運び、また探しては並べる。その単純な作業は確実に身体を痛めつけ、腰は悲鳴を上げ、膝は鈍く痛み、腕は鉛をぶら下げているかのように重くなっていった。だが、やることがあるだけましだと思えた。

 ようやく囲いが形になった頃には、日は大きく傾き始めていた。海面には夕日の光が長く伸び、浅瀬の水も赤みを帯びていた。

 腹ももう限界だった。立っているだけでも身体がふらつく。それでも暗くなれば魚の姿は見えなくなる。おれは水しぶきを上げながら必死に魚を追い回した。何度も逃げられたが、顔から水に突っ込み、腕や足を擦りむきながら執念で二匹捕まえた。

 おれは捕まえた魚を抱え、ふらふらと焚き火の跡まで戻った。

 そこには中谷が膝に肘をついて座っていた。ぷくっと少し頬を膨らませ、ぼんやりと海を見つめている。

 おれはふっと息を吐くと、残っていた落ち葉や枝をかき集め、火を起こし直した。

 それから魚を木の枝に刺して火のそばへ突き立てた。しばらくすると皮から脂が滲み、香ばしい匂いが辺りに広がり始めた。焼き色がついた頃、中谷がちらりとこちらを見た。


「……一本やるよ。一本だけだぞ」


 おれが枝を差し出すと、中谷は無邪気な笑みを浮かべ、それを受け取った。

 その後も中谷は相変わらず素振りやジョギング、ピッチング練習以外のことは何もしなかった。一度だけ、おれにキャッチャー役をやらせたことがある。結果は最悪だった。

 中谷が投げた剛速球が腹にめり込んだのだ。

 おれはその場に崩れ落ち、腹を押さえてうずくまった。いや、本当に凄まじかった。息ができず、視界が白く染まり、しばらくの間脈打つように鈍痛が断続的に響いた。

 だが中谷は悪びれる様子などまったくなく、膝を折り、腹を抱えて笑った。

 さすがに頭にきたおれは地面で悶えながら怒鳴った。


「お、お前なんか、実社会じゃ何の役にも立ってないからな! ロ、ロケットを飛ばすほうがよっぽどすごいから!」


「でも僕のホームラン、結構飛びますよ」


 中谷は怒るでもなく、平然とそう返した。

 おれはただ乾いた笑いを漏らすしかなかった。

 結局、おれは中谷に何かを期待するのをやめた。ただ黙々と魚を捕り、薪を集め、火を起こした。水分はツタや雑草の茎を切って吸ったり、朝露を舐めたりしてどうにか摂取した。そうやって一日一日をしのいでいった。

 一方、中谷は驚くほどよく寝ていた。時計がないので正確な時間はわからないが、昼寝まで含めれば十二時間以上は眠っていたのではないだろうか。

 確かに余計な体力を消耗しないという意味では合理的だと思い、少し感心した。だが、それなら練習もやめればいいのに。

 そう思ってやつに尋ねてみると、どうやら普段からそれくらい寝ているらしい。「いくらでも寝られますけどね」と、どこか得意げに笑った。おれはいらいらしたが、余計なことをされるよりはよほどましだと思い直した。

 そうして、おれたちは来る日も来る日も救助を待ち続けた。空を見上げては飛行機の影を探し、水平線に目を凝らしては船の姿を探した。だが、いつまで経っても何も現れなかった。

 ただ着々と限界が近づいてきていることだけは二人ともわかっていた。



 ◇ ◇ ◇



「大丈夫っすか?」


 夜。珍しく中谷のほうから声をかけてきた。

 焚き火はいつの間にか燃え尽き、月と星の光だけが静かな海をぼんやり照らしていた。波の音が暗い浜辺に一定の間隔で響いている。

 砂浜に横たわっていたおれはゆっくりと顔を上げた。中谷は少し離れた場所で膝を立てて座ってこちらを見ていた。


「……大丈夫だ」


 本当はもう限界だった。身体は日を追うごとに重くなり、喉は干からび、立ち上がるだけでもめまいがした。それなりにうまくやっていたつもりでも、食料も水分も足りず、体力はじわじわと削られていたのだ。それに精神力も。

 だが、中谷の目は澄んでいた。あいつだって消耗しているはずなのに濁りがなく、ただまっすぐで綺麗だった。その瞳を見つめていると、不思議ともう少しだけ頑張れそうな気がしてきた。


 ――そういうことなのかもしれないな。


 あいつは魚を捕ることも火を起こすこともしない。直接何かをしてくれるわけではない。でも、その存在や活躍が人に力を与えるのかもしれない。

 おれはふとそんなことを思った。

 二人、無言で夜空を眺めた。今、中谷は何を考えているのだろう。根っからの野球人間だ。きっと月をボールに見立てているのだろう。それともホームベースだろうか。

 そんなどうでもいいことを考えていると、胸の奥に安堵が静かに広がった。

 おれは最後にもう一度、中谷の横顔を見てからゆっくりと目を閉じた。

 いつ終わりが来るかもわからない明日に向かって舟を漕ぐ。中谷と一緒に、オール代わりのバットで。そんな夢を見られる気がした。



 ◇ ◇ ◇



「――です!」

「――ますね!」


 翌朝。騒がしい声でおれは目を覚ました。

 ぼんやりした頭のままゆっくりと上体を起こした――その瞬間、おれは息を呑んだ。


 人だ……人が大勢いる……!


 砂浜には人だかりができていた。

 おれは跳び上がり、そのまま駆け出した。足がもつれて途中で転んだが構わずに立ち上がり、人だかりに向かって走った。

 助かる。助かった。それともこれは夢なのか――湧きかけた疑問を押しとどめ、おれは口を開いた。


「あ、あの――」


「中谷選手、今、上着を脱ぎました!」


 ――えっ。


 言葉は喉で詰まり、おれはぴたりと足を止めた。

 集まっていたのはマスコミのようだった。巨大なカメラを何台も構え、マイクを握ったリポーターたちが興奮した様子で中谷を取り囲んでいた。


「半袖! 下は半袖です!」

「木の棒ではありますが見事なスイングです!」

「さすが中谷選手。遭難中でも練習は欠かさなかったようです」

「髭が伸びていますねえ。かなりワイルドな印象です」

「ああーっと! 今、靴を脱ぎました! 右足! 右足からです! 素足に! うああああ!」


 人垣の向こうで、中谷は海に向かって相変わらず木の棒を振り続けていた。

 少しも動揺せず、媚びる様子もない。むしろ連中が集まったことで普段の公開練習のような感覚になっているのかもしれない。

 いや、確かにここで連中に助けを求めたら一生恩を着せられることになるかもしれない。車を買えば「撮らせろ」と言ってきたり、家を買えば中をリポートさせろと押しかけてくる可能性はある。

 だが、何もそこまで意地にならなくても……。お前だってもうとっくに限界のはずなのに。でも……それがお前なんだよな。

 何はともあれ助かったという安堵からだろうか、妙な感動が込み上げてきておれは鼻をすすった。


「二週間にも及ぶ遭難生活でしたが、さすが中谷選手。ほとんど堪えていないようですねえ」

「先ほども『練習は欠かしませんでした』と話してくださいました」

「スポンサー企業から送られた食品入りコンテナも漂着していたようです」


「えっ」


 おれは思わず声を漏らした。


「それを回収し、地面に埋めて保存していたとのことです。サバイバル能力まで一流ですねえ!」


「は?」


「あっ! チームが派遣した救助艇が見えました!」

「中谷選手。これは案外いいバカンスになったんじゃないでしょうかねえ」


 歓声にも似た声が飛び交う中、中谷はやってきた救助艇に堂々と乗り込んだ。おれも慌てて駆け寄ったものの、マスコミ連中に尻で押し返され、人垣を突破できなかった。

 中谷は船上からにこやかにこちらへ手を振り、船はどんどん遠ざかっていった。マスコミはその様子を『島に感謝を伝えている』と解釈したらしく、感極まったのか涙声で実況していた。


「いや、あの!」


 やがて救助艇が遠く離れ、中谷の姿が完全に見えなくなると、報道陣は一斉に機材を抱えて慌ただしく移動を始めた。

 おれが声を張り上げると、ようやく何人かが振り返った。怪訝そうな表情をしていた。だが次の瞬間、揃って目を丸くした。


「あなたは……地元の方ですか?」


「はあ?」


「中谷選手とはどういうご関係で?」

「彼の練習を間近でご覧になって、いかがでしたか!」

「中谷選手はこの島でどのような生活を送っていたのでしょうか!?」


 何本ものマイクを勢いよく突きつけられ、息つく暇もなく質問を浴びせられた。


「ちょ、ちょっと……!」


 おれは目や頬、額をマイクで立て続けに小突かれ、思わず慄いた。


「ど、どうでもいいだろお!?」


 おれが怒鳴ると、連中は揃って顔をしかめた。やがて誰かがぼそりと「ホームレスか……」と呟いた。その一言を合図に、連中は潮が引くようにおれから離れていった。

 間もなくヘリコプターのローター音が響き始め、そこへ船のエンジン音も重なった。連中はそれぞれヘリや船に乗り込み、中谷を追って島を出ていった。

 おれはそのどちらにも乗せてもらえなかった。

 取り残されたおれはしばらく呆然とその場に立ち尽くした。さっきまで人で埋め尽くされていた浜辺には、機材を運んだ跡や無数の足跡だけが残され、潮風がそれらをゆっくりと均していった。

 やがて島の中を探し回り、中谷が残していったコンテナを見つけた。蓋を開けると、中には冷凍パスタや冷凍おにぎり、プロテインバー、栄養補助食品、飲料に至るまで大量の食糧が詰め込まれていた。

 おれは震える手で包装を裂き、夢中で口に押し込んだ。なぜか少し小便臭かったが、構わずに食べ続けた。その最中、頭の中には中谷が出演していたCMの映像が断続的に蘇っていた。



 ◇ ◇ ◇



 その後、島は開発会社に買い取られ、リゾート地として整備されることになった。

 中谷が広告塔を務めているという。

 工事が始まり、大勢の作業員が島に出入りするようになった頃に、おれはようやく発見された。

 そして不法滞在者として強制送還された。


 帰国後、アパートへ戻るも部屋はすでに勝手に引き払われており、新しい住人が暮らしていた。

 玄関先で、その若い男がきょとんとした顔で何かを言っていたが、おれの耳にはほとんど入ってこなかった。耳に届いていたのは、部屋の奥から漏れ聞こえてくるテレビの音――速報を読み上げるアナウンサーの声だけだった。

 今日はセカンドゴロだったらしい。


 アパートを後にしたおれは、行く当てもないまま街を歩き続けた。帰宅時間なのか人の流れは次第に増え、おれはその波に逆らうように歩いた。すれ違う人々と何度か肩がぶつかり、怪訝な顔をされたり、動画を撮られたりもしたが、何も言わずただ歩き続けた。

 気づけば日が落ち、どこかの駅前にたどり着いていた。

 ふと、あの島の夜を思い出し、おれは空を見上げた。

 空気の汚れやビルの明かりに邪魔され、あのときほどは星が見えなかった。数えきれないほどの星が静かに瞬いていたあの島と比べれば、ここで見える空はひどく狭く感じられた。

 ただ――ビルの壁全面に掲げられた中谷の巨大な看板広告が視界に映った。

 ライトアップされた笑顔は夜の街のどこよりも眩しく輝いていた。


 確かに、あいつは宇宙に近かった。

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