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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

泥沼と悪運の夜

作者: 佐藤水際
掲載日:2026/06/20

ある裏切り者の始末を任された殺し屋。

逃げ回る男。

巨大な麻薬ビジネスを目論むギャング。

そして闇にうごめく不吉な影。

アメリカはニューオーリンズで、男たちにとって最悪の夜が始まる。

 夜道を振り返るときのような、じっとりとした不安を感じていた。幸運を一つ手にするたびに、そういう気分になる。


 スコット・ホロウェイは自分の神経がまいっているのを感じながら、歩幅を保ち続けた。

 やけに肌寒い日だった。夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだまだ暖かくていい日のはずだった。しかし、今朝方に降りしきった雨が、アイリッシュ・チャンネルの路上を冷え込ませていた。


 そのおかげで、着込んでいてもそれほど怪しまれなくて済む。


 スコットはコートの内側に潜めたナイフの感触を確かめる。そうやってしばらく磨かれた柄の感触をもてあそんだ。気分を落ち着かせるときの、ほとんど無意識の癖だった。


 スコットの斜め前方では、車道を挟んで目標が歩いている。足取りはせわしなく、背後を気にすることこそないが、明らかに怯えている。自分に負けず劣らずの小心者だ、とスコットは自嘲気味に思った。


 その男──ペイリー・ランドリーを見つけ出してからすでに三日が経過していた。おそらくは川沿いのモーテルを転々と逃げ回っていたはずの男が、妙に大胆な動きを見せている。だからこそ、ペイリーを見つけ出せたのがこのタイミングなのかもしれない。


 このタイミングは偶然ではない。


 偶然というコインがあるとして、スコットはその一面を信じる。つまり、自らの悪運を。悪運は常に自分を付け狙い、毒牙を立てようとしているものだ。一方、決して信じてはいけないのが、悪運の裏面に存在する幸運だ。


 ペイリーを見つけ出せたからといって、それを信じてはいけない。用心し続けろ。


 ペイリーが道路の対岸で店に入った。何の変哲もない雑貨屋だ。尾行に気づかれたとは思えない。ただの買い物だろう。

 スコットは路肩に停まっているキッチンカーに近づいた。ペイリーが出てくるのを待つ構えだ。

 店主にポーボーイを一つ頼む。代金を支払い、紙袋を受け取った。中に入っているのは、フランスパンでフライドシュリンプと牡蠣を挟み込んだ贅沢なサンドウィッチ。このあたりの定番といっていい。


「お客さん、不用意に出歩かない方がいいよ」


 突然声をかけられ、スコットは心臓が跳ねるのを感じた。

 店主が何やら抽選器を回しながら声をかけてきたのだ。中で玉がいくつも転がっている音がしていた。


「どうしてです」

「この辺に殺人鬼が逃げてきたらしいんだよ。ムショに収監されてたやつが脱走したって話でもちきりだよ。なんでも、警官から銃を奪ったとか……」

「ははあ。あなたも呑気にお店をやっている場合ではないのでは」

「俺は、日銭を稼がなきゃならんからね。目の前にいるあんたが殺人鬼じゃないことを祈るばかりだ」


 スコットは気のない会話をしながら、雑貨屋の方を気にしている。ちょうどペイリーが出てきたところだった。ペイリーは周囲をちらと見てから、歩き出した。


「こりゃすごい。当たりだ」


 ガラガラと音を立てていた抽選器から赤い玉が出てきていた。


「じゃあ、サービスでもう一つ、好きな具材をつけてあげよう」

「いえ結構」と言えないのが、スコットの性分だ。


 結局おくれを取りながら、両手にポーボーイを持ってペイリーを追うことになる。


 サイレンがどこからか聞こえた。自分を刑務所に迎えに来たと思ったのか、ペイリーがびくりと身を震わせるのが遠巻きにもわかった。スコットは肩をすくめる。


 脱走した殺人鬼について注意喚起するサイレンだろうか。いずれにせよ警察が目を光らせているのなら、ペイリーも外出を控えるかもしれない。そうなれば始末する機会も否応なしに少なくなる。


 半ばこじつけの悪運を恨みながら、スコットは歩き続ける。



 スコット・ホロウェイも、ペイリー・ランドリーも、同じ組織に所属している。


 正確には、ペイリーは過去形だ。彼は今や組織を──三角州の王(デルタ・キング)を追われる身分だった。

 仕事をしくじったのだ。隠れ家に届けるはずだったものを届けられなかった。どんな気分だったのか本人以外知る由もないが、宅配の最中、ふらりと入ったナイトクラブでダンサーとよろしくやってしまった。その間に、肝心のブツを何者かに奪われた。それだけで半殺しで済まない一大事だ。


 しかし、実はその失態は今回の処遇にあまり関係がない。むしろ予定通りとすら言えた。どちらかというと、その後の動き方が問題だったのだ。


 本人不在の中、ペイリーには死刑が言い渡されていた。


 その死神の役を仰せつかったのが、スコットだった。



「ペイリーが逃げた」


 一週間ほど前、デルタが所有するゴミ処理場で、スコットは告げられた。

 ギャングの所有するゴミ処理場が、ゴミ処理場の役割を果たすことは珍しい。その例に漏れず、そこもまたそう呼ばれているだけの場所だった。


 あるいは、本当にゴミ処理場なのかもしれない。


 クズ野郎(トラツシユ)の最終処分場。


 悪臭がばらまかれるのを防ぐため、街の外れに位置していた。おかげで誰にも悲鳴が聞こえない。錆が浮いて変色した鋼鉄の板で、四方を覆われていた。鉄の支柱から鉄の梁が渡され、鉄のフックが無数につり下がっている。足下にはホースの束が蛇のようにのたくっている。ワゴンには手術に使うような器具が、鈍い光を放って並べられていた。お行儀良く、使われる瞬間を待ちわびるように。


 排水口は無数に存在し、水はけを良くするため、床はプールサイドのように緩やかに傾いていた。


 そこに様々なものが流れ込んだことを主張するように、床に汚れがこびりついていた。最新の汚れが、今まさにその道筋をなぞっていく。赤くぬらぬらと光る体液。汗。糞尿。


 苦痛にもだえて死んだ者のみがまき散らす、絶望の悪臭。


「ペイリーが逃げた」デルタにおいて〈医者〉と呼ばれている男が、死体を前にもう一度呟いた。まるで自分自身に確認するように。

「あいつは気の弱い男です」


 スコットは相づちを打つ。〈医者〉は死体の前を行ったり来たりする。科学者が黒板を前にそうするように、何かを考えながら。向きを変えるたび、赤黒く汚れた白衣の裾が翻る。


「ペイリーは情報を持っている。本来ならあの程度の男に持たせるべきでなかった情報を」


 スコットは机に座っている死体を見つめる。吐き気を催す臭いが、目にしみるほどだった。


 死体は椅子に座らせられている。両手両足が縛り付けられている──そのはずだったが、男の右足は太ももの途中から先が失われていた。


 この〈医者〉と呼ばれる男の仕業だった。拷問に積極性を持って参加し、責め苦を受ける者の恐怖に強い関心を示し、尋問を趣味とし、そしてよく働くことで幹部の座を上り続ける男が、右足を砕いたのだ。


 マイナス二〇〇度の液体窒素を好き放題ぶっかけることで凍らせ、ドリルや金具を使って全てを──筋肉も骨もあらゆる組織と血液もぐちゃぐちゃにしたのだ。


 スコットはことが終わってから駆けつけたが、そのことで幸運を感謝せずにはいられなかった。


〈医者〉の被検体となったこの男は、「氷割り」によって絶命したらしかった。おそらくは洗いざらいの情報をゲロって、数え切れないほど命乞いをし、反吐をまき散らし、ママや兄弟や同僚や神に祈った後で。


 男は警官だった。命知らずにもペイリーを(かい)(らい)として操り、デルタを出し抜こうとした。


 そのせいで死んだ。


 そして、今度は、死体となった男とねんごろにしていたペイリーが、逃亡した。


「あの男はただ逃げたわけではない。何かを企んでいる」

「一人にできることなどたかがしれていますよ。警官はこの通りなわけですし」

「そうだ。だが情報を持っている。警官からある程度の話を聞いていたのだとしたら」医者は死体の前で立ち止まる。その死者の顔を覗き込み、「一度吐いた言葉は、口に戻すことができない。やつの持つ情報もそれだ。回収したいなら、二度と口を動かせなくしなければ」


〈医者〉は頭がいいと聞く。東部の名門イェール大学を卒業したという話だ。しかし、スコットからすればネジのぶっ飛んだ狂人としか思えない。


「一、ペイリー・ランドリーを見つける。二、やつの口に銃口を突っ込む。三、引き金を引く。これでどうです」


 スコットはいい加減ここを立ち去りたくなり、話をまとめにかかる。


「趣味の悪い男だ。いつだって銃を撃てば解決すると思っている」と、〈医者〉は顔をしかめる。あんたには敵わないよ、とスコットは思った。〈医者〉は全く理解のできない話し相手だが、この異常極まりない場所にいると自分の方が異常に感じられる。


〈医者〉はため息をつく。「どんな方法でも構わん。ただし静かにやれ。口封じがなにより先決だが、可能なら引っ捕らえろ」


 どのみち単純な解決が待っている。それが少し早まるかどうか、その程度の問題だ。スコットはきびすを返す。それぐらいでちょうどいい。


 近頃のニューオーリンズは複雑すぎる。



 ペイリーが再び動き出した。


 安宿を出て、川沿いの道を北上し始めた。すでに時刻は午後九時を回っている。


 スコットは直感した。今夜、ペイリーは何者かに会う。そこで情報の受け渡しが行われる。


 情報が口から出る前に、片付けなければならない。


 ペイリーとスコットは、バイウォーターと呼ばれる区画に入った。かつてのフランス植民地時代の影響を残す区画だ。フレンチ・クォーターほど観光地化しておらず、住宅街と工業地帯と古ぼけた倉庫群の混成(クレオール)地帯となっている。


 水辺の地区(バイ・ザ・ウォーター)。由来は諸説あるが、バイウォーターはミシシッピ川に面している。蛇行した川が創り出す欠けた月。


 今夜は半月。まさに半月の街(クレセント・シティ)


 スコットが予想したとおり、ペイリーは港湾へと突き進んだ。


 港にはおんぼろの船が──ほとんどボートと言っていいものまであった──無数に停泊している。しかし人の気配はない。

 コンテナが整然と並ぶ中、その合間には無数のゴミが散乱している。三角コーン。使われていないフォークリフト。廃タイヤ。スクラップ。ビニールシート。ドラム缶。若者のグラフィティアート。こびりついた鳥の糞。


 まさに取引にうってつけの場所。


 それはスコットにとっても同じだ。


 条件は対等。そして暗殺者は常に目標よりも優位だからこそ暗殺が可能となる。


 だがトラブルが起こる。幸運は、スコットの味方をしない。


 積み上げられたコンテナの角をペイリーが曲がる。直後、悲鳴。


 スコットは自分がしくじったことを知る。駆け出すことすらできない。


 コンテナの角にぴったり身を寄せる。青いビニールシートやらタイヤやらの廃材が音を立てないよう、慎重に動く。懐から取り出したナイフを少しばかり角から突き出す。半月のおぼろな光が反射し、鏡となって状況を映し出す。


 ペイリーが倒れている。死んではいない。何かに縛られたのか、もがき続けている。縛ったのはおそらく二人の男。どちらも巨体だ。一人は両肩から腕にかけて入れ墨に覆われた男。年中タンクトップを着ているであろうことが容易に察せられる。


 もう一人は野球帽を被っている。異様なほどひょろりとしていて、得体が知れない分もう一人よりも脅威的だった。


 がちり、とスコットの脳裏であるイメージが閃く。リボルバーに銃弾が一発装填される光景。悪運がもたらされるたびに、銃弾が装填される。シリンダーに六発、全ての弾が込められれば、そいつはスコット自身の頭を撃ち抜くことになる──そういう妄想だ。


「ようペイリー。時間通りだな」


 入れ墨の方が言った。ペイリーは怯え、もだえるしかない。


「手荒な挨拶で悪いがな、まず身体を(あらた)めさせてもらうぜ」


 入れ墨がボディチェックをする間、野球帽は煙草を取り出して火をつけた。しかしその目は抜け目なく周囲を警戒していた。その冷静さに、スコットは動くことができない。


「なんといってもデルタからヘッドハントってわけだ。少しばかり慎重になるのも仕方ないよな……」

「ヘッドハントじゃねえよ。こいつから泣きついてきたんだぜ、玉ナシが保護してくれってな。まったく、一体何の役に立つって言うんだ」


 野球帽が冷淡に吐き捨てる。右手で火種から煙がくゆっている。


「情報を持ってる! あんたらA.W.V.にとっても有益だ!」

「有益かどうかは俺たちが決めるんだよ、坊や。それと、気安く組織の名前を口にするな」


 スコットは三人の会話に集中する。A.W.V.──アルジェ・ワード・ヴァイパーズ。


 ここバイウォーターの対岸に見えているアルジェ地区を縄張りとする新興犯罪集団。川を挟む形でデルタとも対立関係にある。


 そんな奴らが、俺たちの側で取引とは。いや、だからこそばれないと踏んだのか。


 スコットの脳裏で思考が渦を巻く。そのせいで、周囲への注意が一時的に逸れた。


 それが致命的になる。


 もっと観察しやすい場所を探そうとしたスコットの足が、ビニールシートに引っかかり、踏み出すと同時に下に隠れていた物体をあらわにした。


 死体。警官の制服を着ている。


スコットはたたらを踏み、そのせいでドラム缶を後ろ蹴りしてしまう。


 どおん、と音が響き、たちまちA.W.V.の二人がやってくる。


 がちり、とスコットの脳裏でリボルバーに弾が叩き込まれるイメージが湧いた。


 二発目。


「てめえ、何してやがる」


 すぐさま二人に銃口を向けられる。スコットは自分の悪運を恨むしかない。


「ペイリー坊やの仲間か? やはり罠だったわけか」

「待ってくれ、違うんだ」

「ほお、何が違うって?」


 スコットは都合のいい言い訳を考える。これまで感じたことのない猛烈な焦りに震えた。


「僕は」そこで、スコットは走馬灯のようにある会話を思い出す。ポーボーイをサービスしてくれたキッチンカーの店主との会話だ。

「僕は、殺人鬼なんだ」


 入れ墨も野球帽も、どちらもぽかんとなった。


 スコットの脳みそが回転し始める。その回転が場の中心軸になる。


「そう、刑務所──オーリンズ()ジャスティス()センター()から逃げてきたってやつさ。サイレンを聞かなかったかい? 途中で警官も殺しちまってね。ここに隠れてたんだ」


 実際に、逃亡した殺人鬼の人相をこの犯罪者たち知らずにいるかどうかは、賭けでしかなかった。

 銃口はスコットに向いたままだ。プロフェッショナルらしく、二人とも目を離さない。スコットの一挙手一投足を観察して、すぐにでも撃てる体勢をとっている。


「なあ、見逃してくれよ。僕はただここに隠れてただけだ。君たちの話を聞いてもどうこうできるわけでもない。警察に通報しても、指名手配されてる僕が捕まるだけだ」

「証拠がない」と野球帽。すがめた目でスコットを見つめる。「お前が例の殺人鬼だという証拠がない」

「証拠ならある」

「見せてみろ」


 スコットはゆっくりと拳銃を取り出す。血がついてぬらぬら光る拳銃を。入れ墨男がうわっと声を上げた。その弾みで撃たれるのではとスコットは冷や汗をかいていた。


 その銃は、スコットのものではない。先ほどビニールシートの下に隠れていた警官の死体から咄嗟に拝借したものだった。今も、警官はスコットの足下でビニールシートをかけられてうずくまっている。幸いにもA.W.V.の犯罪者どもは気づいていない。スコットに夢中だからだ。


「警官から奪ったわけか……。だったら早いとこ失せろ。もう二度と面を見せるんじゃねえ」


 入れ墨男が吐き捨てる。銃口が下がりかけたそのときだった。


 何者かを呼ぶ声が聞こえた。


 スコットと二人のならず者が顔を見合わせた。


「こっちだ」野球帽が指示し、三人は移動を開始する。長いこと放置されてぐったりしていたペイリーを入れ墨男が担ぎ上げ、全員で物陰に潜んだ。呼ぶ声は確実に近づいてくる。やがて懐中電灯の円形の光が現れる。


 警官だった。スコットは思わず舌打ちしそうになる。


 がちり。


 三発目。


 おそらく、ビニールシートの下で死んでいる警官のコンビ相手だ。なぜお相手が死んでいるのかスコットには知る由もないが、悪運は常にスコットを苦しめる。はたして、恐れていたことが起こる。


 不意に警官がビニールシートをめくりあげ、その下を電灯で照らし出す。警官が腰を抜かす。その様子をスコットもペイリーも入れ墨も野球帽も見ていた。


 激高したのは入れ墨の方だった。


「てめえ、俺たちをだましたな。ここが俺らの拠点になることを知ってて、妨害しに来たんだ。こしらえた死体を警察に通報して見つけてもらったわけだ。倉庫街を封鎖させるために」


 がちり。


 早くも四発目。


 スコットはまるで予想外な方向から、A.W.V.の計画の一端に触れた。


 ミシシッピ川を遡って大量の麻薬を輸送するビジネス。ニューオーリンズはその中継地点となる。ある麻薬はここで水揚げされ、陸路を通じてアメリカのあちこちへ運ばれる。さらに川を遡ればセントルイスという市場がある。


 いずれにしても巨大なビジネスになる。その取引相手はおそらく、メキシコのシナロア・カルテル。メタンフェタミン(メス)コカイン(コーク)、フェンタニル、ヘロイン、MDMA。アメリカを麻痺させる薬物なら何でもござれだ。


 そのビジネスを、この男たちは邪魔されたと思い込んだ。


「やっぱりデルタのくそ野郎だな? 俺たちを邪魔するやつなんざデルタぐらいしかいねえ」と入れ墨男が怒り狂う。拳銃をスコットのこめかみに押しつける。怒りだけで今にも暴発しそうだ。


 スコットはコートに隠したナイフを意識する。頭の中で、得物を振り抜くイメージを作り出す。縛り上げられたペイリーもろともやってしまうか。いや、さすがに二対一は分が悪いぞ。


「静かにしろ」と野球帽。

「違う、こいつは俺を殺しに来たんだ!」誰よりも声が大きいのはペイリーだった。A.W.V.の二人組に縛り上げられた上、訳のわからない殺し屋の登場に半狂乱だった。


 そのせいで、事態は動き出す。

 警官がライトをこちらに向けてきた。暴力的なまでのまばゆい光が四人の目を眩ませた。


 そこからが速かった。警官が叫び声を上げる暇さえなく、血を噴いて倒れた。撃ったのは野球帽だった。次に反応したのがスコットだ。奪った血塗れの拳銃を膝立ちで構え、入れ墨男の筋骨でできた巨体へ早業の銃撃を見舞った。その土手っ腹に四つの穴が空いた。巨体がくずおれる。


 そして、最悪の悪運が訪れる。


 入れ墨男の体内を暴れながら跳弾した弾丸が背中から飛び出し、背負われていたペイリーの足の縄を引き裂いた。足が自由になったペイリーは、入れ墨男の背中を蹴るようにしてそのまま走り出した。


 がちり、と頭蓋の中で五発目の音が鳴る。


 あと一発……。


「待て!」スコットが叫ぶが、聞くはずもない。


 背後から野球帽の銃弾が飛んでくる。スコットはじぐざぐに走り、障害物を盾にする。木箱から木っ端が舞い、ドラム缶が盛大な火花を散らした。縛られているものの、ペイリーがまっすぐ走る分、差はなかなか縮まらない。


 ペイリーが九〇度に方向転換し、コンテナを曲がっていった。


 絶叫が聞こえた。


 スコットが角を曲がったところで、ペイリーが倒れている。血だまりが広がっていくのが、月明かりの下で見えた。よし殺す手間が省けた、と思ったのもつかの間、なぜ死んだのかという疑問が湧き出す。


 ペイリーの行く手に人影。

 突進してくるナイフを、スコットは間一髪でかわした。体勢を立て直しながら相手を見据える。


 スキンヘッド。尖った鼻梁。落ちくぼんだ眼窩。そこに収まる目はどう見てもまともではなく、濁った色をしながら爛々と輝いている。肉食獣のように剥き出しの歯から、唾液が滴った。


 がちり、と最後の音。


 あとは引き金を引くだけ。


 本物の猟奇殺人鬼を前に、妙に冷静な頭でスコットは考えた。


 おそらく、ビニールシートの下で死んでいた警官を殺したのはこいつだ。


 すぐさま突き出されるナイフを距離を取ってかわす。スコットは脚に踏ん張りをきかせ、相手がナイフを引き戻すのに合わせて踏み込む。


 一撃目は当たらない。夜の闇を切り裂いただけだった。スコットは自分のナイフから手に伝わってくる情報を味わう。ナイフの重心。勢い。風の感触。


 申し分ない。


 殺人鬼が右に向かって円弧を描いて移動。スコットも合わせて左に回る。スコットが再び仕掛ける。右手に持ったナイフが、外側から横薙ぎに振られる。殺人鬼は屈み込んでかわす。その靴がアスファルトを削る音がする。後は息づかいと風を切る音。


 静かな殺し合いだった。互いに肉薄しながらも重なることがない。

 まるで踊るように、二人が回転する。互いの尾を食い合う二匹の蛇のように。そうしながら、殺意の間合いを縮めていく。互いに相手を切り裂けるだけの一瞬を窺っていた。


 そこには奇妙な一体感があった。


 スコットが逆手に持ち替える。その手で()(もの)がうごめく。楽しそうに。血を待ちわびるように。


 ナイフの使い方には様々な流派がある。そのどれもが間違っている。正しいのは、相手を切り裂いて命を終わらせた者だけだ。


 横に落ちる雷のように、白い刃が一閃。殺人鬼はそれを自らの刃で払いのける。甲高い音。ナイフが泣いているようだ。


 殺人鬼はがら空きになったスコットの胴へ向けて正確無比に差し込んでくる。スコットはあえて前に出ながら身体を捻り、脇で相手の腕を挟み込もうとする。唐突な固め技にも動じず、相手は腕を下げ、さらに上向きの刺突を試みる。骨のない脇を狙いにいったのだ。スコットもそれに合わせ、空いている左手を(ぬき)()にし、突き出した。


 互いに空振る。仕留めきれず、再び殺意の圏内の外へ弾き出される。


 息をつく間もない攻防に、唐突な終わりが訪れる。


 殺人鬼の左手が閃いた。神速の手刀がスコットを襲った。スコットは受け止めきれず衝撃を少しでも逃がそうと下がった。相手はその機を逃がさずさらに凶器を突き込んでくる。


 それがスコットのブラフだった。


 完璧なタイミングで相手の手首をつかみ、捻りながら押しやった。スコットへ向かうはずだったナイフが手元で回転し、殺人鬼の方を向いた。自分の得物に見つめられ、殺人鬼が驚愕に濁った目を見開いた。ナイフを押し返そうと相手も力を込めるなか、さらにスコットが前へ踏み込み、筋肉の塊である膝を自分の手に向けて爆発のような勢いで放った。


 スコットの手に握られた殺人鬼の手と、そこに握られた恐ろしいナイフが、一挙に炸裂するように滑り、数多の人間の血を共に味わってきたはずの殺人鬼の喉を貫いた。


 殺人鬼は悲鳴とも喘鳴ともつかない声を漏らしながら、その喉笛から大量の血を流しながら、崩れ落ちた。


 ペイリーの血と殺人鬼の血が冷たいアスファルトの上で混じり合う中、スコットは歩き出す。


 最後の相手が残っている。


 声が聞こえてくる。


「聞かせてくれよ。本当のお前の目的は何だ? 何をしに来たんだ?」


 野球帽が声を放った。互いに正確な居場所がわからない中、スコットは足音を殺して歩く。錆の浮いたコンテナの合間に視線を巡らせながらナイフを腰で構える。


 幸運に味方してくれとは言えない。ただ悪運を遠ざけるために、自分ができることするだけだ。


 パトカーのサイレンが聞こえていた。銃声を聞きつけて誰かが通報したに違いない。


 決着は近い。


「僕は、ペイリーを殺せればそれで良かったんですよ。あいつはデルタの裏切り者だった。それなのに、こんな事態に巻き込まてしまった」

「悪運としか言いようがないな。ペイリーは何をしたんだ?」

「自称『悪徳刑事』──実際は正義感の強い警官だったわけですが──に証拠品を横流しするから報酬を分け合おうとたぶらかされ、荷物を運んだんです。その荷物には警察側の探知機が複数入っていて、危うく隠れ家を突き止められそうになった。その荷物を回収し、逆に警察を罠にかけるのが僕の一つ目の仕事でした。それはうまくいって、僕たちを罠にかけようとした警官は死にました。問題は、ペイリーが自分の失態を恐れて逃げたことです。後はあなたたちの知っているとおり。あなたたちにコンタクトを取って、情報を売ってA.W.V.に鞍替えしようとした」


 スコットは準備を整える。


「それでペイリーは死ななければならなかった?」


 頭の中でリボルバーがちらついた。シリンダーに銃弾が全て込められている。解放の時を待っている。それが誰の頭を吹き飛ばすか、最後までわからない。


 誰にもわからない。


「そうです」

「……教えてくれてありがとうよ。お前の墓はペイリーの隣にしてやる」


 ナイフを握りしめる。


「馬鹿か。これからお前が死ぬから、最後に教えてやったんだよ」


 スコットはコンテナの影から飛び出す。


 その寸前に、ナイフを放った。


 月光を受けてナイフが輝く。

 野球帽はそのナイフを正確に撃ち抜いた。驚愕に値する銃撃だった。


 しかし、スコットの方が(うわ)()だ。

 直後に飛び出したスコットが、血のこびりついた拳銃を撃つ。野球帽の額に穴が空き、帽子が落ちた。次いで、その身体が意思を失って倒れた。


 スコットはゆっくりと息を吐く。


 終わった。今回も生き残った。


 悪運の泥沼を這い回り、今回も逃げ延びた。

 血まみれの拳銃を、ミシシッピ川に放った。頭の中に思い描いたリボルバーと一緒に。


 それから、スコットは休む間もなく、川に飛び込んだ。サイレンがすぐ側まで迫っていたからだ。

 警官が死んだ。指名手配された殺人鬼が死んだ。敵対するギャングの構成員が死んだ。


 それでも、ペイリーを殺すことができた。


 自分は生き残った。


 あとは報告だ。今の一番の悩みの種はそれだ。まさか悪運のせいだというわけにもいくまい。確実に朝には大騒ぎになるだろうが、では一体どうすれば良かったというのか。

 気だるさのせいで泥沼のように感じられるミシシッピ川を、スコットは泳ぎ続ける。


 近頃のニューオーリンズは複雑すぎる。

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