第23話 〝三国志〟――始まりの胎動
曹操軍、数十万の大軍勢を興し、荊州攻略のために南下する――けれど、戦らしい戦が起こることは、全く無かった。
荊州全土を実質的に支配していた、劉表……の亡き後を継いだ劉琮という君主は、何と一戦も交えず降伏し、堅牢な城門をあっさり開放してきたのだ。
つまり無血開城で、荊州・襄陽、全面降伏。この結果に関して、騎馬で入城する曹操様が、馬車に乗る私こと甄嘉へと声をかけてきた。
「荊州牧・劉表の亡き後を継いだ劉琮は、気が小さく優柔不断……中原最強の曹操軍が大軍で南下するだけで恐れおののき、戦の労を伴わずして襄陽を明け渡してくるでしょう――甄嘉よ、全てキミが進言した通りになったな、見事な明察だ!」
「是、恐れ入ります――曹操様」
恐縮しつつ手を合わせ、礼をする。まあこうなるだろう、というのも、あらかじめ劉琮の性格や能力、三国志の歴史を知っていれば、予測は難しくない。なので調子になんて乗らず、気を引き締めて臨もう。むんっ。
今のところ実際の歴史と、大きなズレは無いはずだ。だとすれば……曹操勢力が荊州の中心である襄陽を手にするのと同じ頃、あの大事件が起こるはず。
そうとは知らず、夏侯惇殿が馬車の横を通過し、つまらなそうに馬上で発言した。
「ふんっ、何が無血開城か、劉表の子倅の軟弱者めが! 一戦も交えず城を明け渡すなど、一国を担う者としての責任感が欠けておる! 戦の一つも無いなど、武人としてこれほど消化不良なことはないぞ――」
『――た、大変です! 民が……荊州の民が!!』
「――む? 何だ、騒がしい。民が暴動でも起こしたか? 伝令ならば、報告は正確にせい!!」
『ひっ……も、申し訳ございません! その……』
夏侯惇殿の一喝に怯えつつ、伝令は息を整え、改めて報告を叫んだ。
『け、荊州の民が、われらが軍の南下に合わせて逃亡し――同じく逃亡した劉備軍に追従している、とのこと!!』
「――――」
『その、報告によれば、いえ正確な数は、まだ定かではないのですが、数万……あるいは、十万を超すほどの人数と、勢いだ、と……その……』
伝令自身も信じられないのか、言葉尻がどんどん小さくなっていく。
一方、ようやく事態を呑み込めたのか、曹操様の臣下たちが、武将も軍師も交えて後方で騒ぎ立て始めた。
『数万……でも信じられぬのに、十万だと!? 劉備などという鼠賊に、なぜそれほどの民が付き従う!?』
『劉備を侮るな、逆賊だが声望は忌々しくも天下に鳴り響いておる! 反曹(※曹操に歯向かう)を願う乞食共は民だけでなく故・劉表の臣下まで付いていると聞くではないか!』
『ならば今回を機に劉備を討伐すればいい、愚かな民など蹴散らしてな!』
『軽はずみに言うな! 武器もロクに持たぬ民を殺して何とする、そんな狼藉を働けば荊州などとても治められんぞ!』
『ならばどうする、放置すれば劉備は更に付け上がり、膨れ上がった声望に惑わされて更に人が集まるやもしれんぞ!』
『……それにしても我が軍の伝令は、やけに早くなかったか? まだ荊州に入って、間もないぞ?』
大喧騒の中に怪訝な声も混じる中、無言を保っていた私に曹操様が再び声をかけてくる。
「……甄嘉、これもキミの予見通りだな。荊州を越えた先、曹操軍の南下から逃亡する劉備軍の斥候に多く兵を割け、という指示にはさすがに首を捻ったが……こういうことだったとは」
「……いえ、あくまで念のため、です。まさか行く当てもなく逃げる劉備に、これほどの民が付き従うなどとは、思いもしていませんでしたから(なんて、三国志的に知ってはいたんだけど、説明できないし、こういうことにしておこう……)」
「ふふ、謙遜するな。〝行く当てもなく〟というが、劉備軍のみならず、襄陽より更に南方へと偵察を走らせていたではないか。確か、そう……〝江陵〟だったか? 劉備の目的地は、其処だと予測しているのではないか?」(好感度↑)
「いえ、私は本当に、もしかしたら……と思っていただけで。曹操様の御明察にこそ、感嘆いたしております」
うーん、説明できないのはどうにも、もどかしい。そもそも調子になんて乗れっこないな、不自然にならないようにするので精いっぱいだ。
そうして馬車の上で畏まっていると、今度は夏侯惇殿が声を上げた。
「……フンッ、曹操軍に早々に降伏した荊州の君臣などより、民草の方がよほど気骨があった、ということか。依存する先が劉備というのは、心底から気に食わんがな。で、どうする軍師殿、まさか放置する訳でもあるまい。舐められては、それこそ荊州など治められぬどころか、天下の笑いものだぞ」
「…………」
夏侯惇殿の言う通り、相手が逃げる劉備軍で、十万にも上ろうという民とはいえ――どれほど気が乗らない戦でも、放っておいては〝勢力が崩壊しかねない〟醜聞となる。
それは〝ロード・オブ・三国志〟というゲーム内でもそうで、もしかすると実際の歴史でもそうだったのかもしれない。
だから私は、夏侯惇殿に、延いては主君である曹操様に、こう発言した。
「もちろんです。襄陽の占領は、幸いにして軍力の消耗なしに成し遂げられたゆえ、軍はいまだに精強。まずは襄陽の統治・防備に割く軍と人員を分け、適宜の休息を経て――それから、劉備軍を追いましょう。……その速度で追えば、恐らく劉備軍の背中に追いつくのは、そう……」
三国志――年代的にはもっと以前の〝黄巾党〟などの頃も内包して、そう呼ばれがち、現代では認識されがち、だけど。
それは、正確ではない。
もう少し後には、魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)の三国が鼎立し、〝三国時代〟に突入し――本当の意味での〝三国志〟になっていく。
そしてこれは、その始まりとも呼べる戦い。
曹操孟徳の、生涯最大のライバルとなる、劉備玄徳が一大勢力を築いていく、初めの一歩。
それは、ここでの戦いから、大きな一歩を踏み出したと言えるだろう。
「長坂――そこで、曹操軍は劉備軍の背に、追いつくでしょう――」
十万以上の民に戴かれ、逃げる劉備勢力にとってはドラマチック。
一方、曹操勢力にとっては――非常に悩み深い戦いが、始まろうとしていた。




