9話-焦げ目のスケッチと “誰か” のぬくもり
休日の朝って、なんでこんなに胸がざわつくんだろう。
窓から斜めに滑り込んでくる光を眺めながら、手の中のマグカップから立ち上る香りを深く吸い込んだ。キッチンのトースターがちりちりと小さく鳴いて、その音だけが妙にやかましく響く。静寂が逆に俺の心を押しつぶしそうになってくる。
やることなんて何もない。いや、むしろその「何もなさ」から逃げたくて、気がついたら祖母の喫茶店の前に立っていた。
カウンター席に腰を下ろし、持参した手帳をぱらりと開く。真っ白なページが俺を見つめ返してきて、胸の奥底からじわじわと虚無感が這い上がってきた。
「おはようございまーす♪」
店の入口から飛び跳ねるような声が響いた。反射的に振り返ると、栗色のショートボブを軽やかに揺らしながら入ってきた女の子が目に飛び込んできた。ベージュのジャケットに水色のスカート
--まるで春の空を着ているみたいな色合いが、この古い喫茶店の温かみのある雰囲気にすっぽりと馴染んでいる。肩掛けのトートバッグからスケッチブックの角がちょこんと顔を出していて、窓から差し込む光を受けてきらりと光った。
「さくらちゃん、今日も元気だねぇ!」
いつものおじさん常連客が手をひらひらと振る。
白石咲良--その子は名前そのもののような花のような笑顔を浮かべた。
「桜が満開だから、今日はホットミルクに桜シロップ入れてもらっちゃおうかな♪」
その一言と笑み声だけで、店内の空気がふわりと変化していくのが手に取るように分かった。さっきまで俺を包んでいた重苦しい朝の空気が、まるで魔法にかかったみたいに柔らかく色づいていく。
俺は慌てて手帳をぱたんと閉じた。--この子、どこかで会ったことがある気がするんだ。記憶の片隅で小さな光がちらちらと点滅しているのに、手を伸ばそうとすると煙のように消えてしまう。
「コーヒー、淹れたてですよ。どうぞ」
いつの間にか咲良がカウンター越しにやってきて、目の前にそっとカップを置いてくれた。
「……ありがとう」
思わず出た声が、なぜか少し震えていた。
「湊さん、ですよね? 澄江さんのお孫さんの」
背中にぴりっと電気が走る。
「……そうだけど、どうして俺のことを?」
「澄江さんからいつもお話聞いてました。『あの子は人見知りするけれど、本当は誰よりも優しい心を持ってるのよ』って」
その瞳の奥に、どこか懐かしさを帯びた温かい光がゆらゆらと揺れている。
「……ばあちゃんらしいな」
マグカップを両手で包み込んで、一口ずつゆっくりと飲み込む。コーヒーのほろ苦さが舌に広がり、喉を通り抜けていく瞬間、祖母の優しい笑顔がぽっと心に浮かんできた。胸を締めつけていた重いものが、少しずつほどけていくのを感じた。
◇◇◇
ランチラッシュがやっと落ち着いて、店内のざわめきが波が引くように遠ざかっていく。
咲良がカウンター裏に戻ってきた。額にぺたりと貼りついた髪を指でそっと払いのけながら、はあはあと小さく息を整えている。その何気ない仕草を見ているだけで、さっきまで張りつめていた空気がふわっと緩んでいくのが分かった。
「今日の焦げ具合、ちょっといつもと違うかも」
耳に飛び込んできた声に、思わずぱっと顔を上げた。
咲良はスケッチブックをそっと開いて、紙の手触りを確かめるように一枚一枚をめくっていく。その指先が描かれた絵をなぞるたびに、まるで誰かの大切な記憶をそっと撫でているようで--見ているこっちまで胸がきゅんとしてくる。
「澄江さんのナポリタンって、焦げ目がものすごく個性的だったんです。麺の端っこがくっついちゃって、そこがこんがり香ばしくなるあの感じ……」
差し出されたページには、鉄板の上に乗ったナポリタンが鮮やかに描かれていた。麺のくるくるした形や色の濃淡まで本当に精密で、思わず目を奪われてしまう。
胸の奥底で、祖母がキッチンでフライパンをじゃーっと振る音と、鼻をくすぐる香ばしい匂いが蘇ってきた。あれは確か、焦げ目の部分を俺の皿に多めによそってくれた日だった--。
「高校生の時に描いたんです。たぶん、これが私のスケッチの原点かな」
咲良の瞳は、あの頃の自分と静かに向き合っているみたいだった。
「……どうして、そこまで細かく描こうと思ったんだ?」
「残しておきたかったんだと思います。澄江さんのお料理って、ただおいしいだけじゃなくて、食べるとお腹だけじゃなくて胸の奥がぽかぽかして……でも同時に少しだけ切ない味がしたから」
その言葉が、俺の中にもずっと眠っていた感覚をそっと揺らす。
「焦げ目って、ぱっと見は失敗みたいに見えるかもしれません。でも、あの香ばしさは偶然じゃなくて意図的で、その人らしさそのものなんだと思うんです」
咲良がそう言った瞬間、俺の視線は自然と別のページへとすうっと動いていた。紙の端に指をかけて、そのまま--
「だめっ!」
びっくりするほど素早く、咲良の手がぱしっとそれを押さえた。驚いて動きを止めると、彼女は慌ててスケッチブックをぎゅっと胸に抱きしめる。
「……ごめん、無理に見ようとしたわけじゃないんだ」
適切な言葉を探しながらうつむくと、咲良は小さくふるふると首を振った。
「……ありがとうございます、見てくれて」
微笑んだその表情は、太陽みたいな眩しい明るさじゃなくて、夕暮れの空みたいに柔らかくて温かい光だった。
最後のページには、きっと彼女だけの秘密が眠っている--まだ誰にも見せられない、とても大切な何かが。
◇◇◇
午後の光がテーブルの縁をきらきらと金色に染めて、カウンターの奥まで細い光の筋を伸ばしていた。
棚のグラスをきちんと並べ直していると、その光の先っちょに咲良の横顔がふわりと浮かび上がった。
彼女はカップをくるくると拭きながら、栗色の髪をそっと耳の後ろにかける。その髪の束がゆらゆらと揺れて、陽の光に透けて蜂蜜みたいな柔らかい色を帯びている。その細い肩に、いつものスケッチブックがちょこんと挟まっていた。
「それ、いつも持ち歩いてるよな」
自分でもちょっと唐突だなと思ったけど、なんだか気になって思わず口を開いていた。
咲良はぴたりと手を止めて、くすくすと軽やかに笑った。
「バイト始める前からずっと持ち歩いてるんです。……この店で働き始めたのは、高校の終わり頃だったかな」
「もっと前から知ってたのか?」
「うん。小さい頃、お母さんと一緒によく来てたの。澄江さんのこと、「ナポリタンのおばちゃん」って呼んでた」
懐かしそうにそう言いながら、棚にカップをそっと戻す手元がちょっとだけゆっくりになる。
その言葉に、俺の耳がぴくりと反応した。
「お母さんと、って……」
「いなくなってからもしばらくは、一人でぽつんと来てたよ」
短くそう言って、すぐにぱっと笑顔を作る。でも、その笑顔に重なるように沈んでいく影を、俺は見逃さなかった。
「学校帰りにお手伝いしてたら、澄江さんが『もううちの子みたいなもんだね』って」
言葉とは裏腹に、その横顔はどこか遠くの景色を見つめているみたいだった。
「絵を描くようになったのも、この店がきっかけなんです」
咲良はスケッチブックの角を指先でそっとなぞる。
「押し入れの奥に、昔ここで描いた絵がまだあるの。誰かの心にずっと残るような……匂いまで一緒に届くような絵が描きたいんです」
その一言が、胸の奥にじんわりと静かに響いた。
「……匂いまで、か」
思わずぽつりと繰り返していた。
咲良はスケッチブックをきゅっと抱え直して、小さく肩をすくめる。
「まあ、なるようになるでしょ」
その言葉を聞くたびに、彼女の奥底にある "まだ言葉にならない何か" をついつい探してしまうんだ。




