8話-誰かのために、作る味
営業を終えたカフェ・アカシアの厨房は、今日一日の忙しさを終えてほっと一息ついているような静けさに包まれていた。
残り香がふんわりと漂う中、澄江ばあちゃんが使い込まれた鉄のフライパンを火にかける。
油がじゅわりと馴染む音が、まったりとした空間を温めていく。
「昔ね、喫茶店といえばナポリタンだったのよ」
そう言いながら、澄江おばあちゃんは玉ねぎをサクサクとくし切りにしていく。
その手つきが慣れたもので、見ているだけで安心できるような気がした。
「特別な具材なんてなくていいの。玉ねぎ、ピーマン、ソーセージ。それだけで十分よ。でもね、どこか特別な時間の味がするのよね」
火にかけたフライパンに野菜を投入すると、ジューッと景気のいい音が響いた。
香ばしい匂いと一緒に、玉ねぎのほんのり甘い香りが厨房に広がっていく。
「若い頃ね、夜遅くまで働いて、家に帰る途中によく立ち寄った小さな喫茶店があったの。そこのナポリタンがどうしても忘れられなくてね……安いワインで火を飛ばしたりして、ちょっとだけ大人の味がしたのよ」
調理台に肘をついて、黙ってその手元を眺めていた。なんだか見入ってしまう。
「おじいちゃんもね、この味が大好きだったの」
澄江ばあちゃんの声が、どこか懐かしそうで優しい響きになった。
「無口で頑固な人だったけど、私が作ると何も言わずに全部きれいに食べてくれてね……だから、この味だけは絶対に変えたくなかったの」
トマトケチャップをドバッと投入すると、フライパンの中でソースが弾けて、バターの甘い香りとミックスされた濃厚な匂いが立ち上がる。
うわあ、いい匂い。
「昔からね、不器用な私が人に気持ちを伝える時、一番うまくいったのが料理だったのよ。言葉だとこじれちゃうことでも、台所に立ってると素直になれた。ナポリタンはね、そういう私の"話し方"みたいなものだったの」
「……俺も、この匂い、好きだった」
気がついたら、そんな言葉がぽろっと口から出ていた。
澄江ばあちゃんはフライパンを火から下ろしながら、くすっと笑った。
「そう。なら、あんたも忘れないでね」
湯気がほわほわと立ち上るナポリタンを小皿に取り分けて、そっと俺の前に置いてくれる。
その皿を見つめていると、なぜか遠い昔の夕暮れ時の記憶がふわっと浮かんでくるような気がした。
一口、フォークでくるくるっと巻いて口に運んだ。
口の中でパスタがほぐれると、まず最初にケチャップの甘酸っぱさがじゅわっと広がって、その後からバターの濃厚なコクがとろりと舌を包み込む。
そして炒められたソーセージの香ばしい塩気がカリッと歯に響いて--この絶妙なハーモニーは、まさに子どもの頃に感じた"家の味"そのものだった。
一口噛むたびに、懐かしい記憶がふわりと蘇ってくる。
ああ、これだ。この味だったんだ。
言葉にしなくても、体の奥の方がちゃんと覚えてるんだな。
静かに、もう一口ナポリタンを口に運んだ。




