7話-過去を語る資格は、誰にあるのか!?
午後の陽だまりが店内を包むカフェ・アカシア。澄江おばあちゃんが手挽きミルを回すコリコリという音が、まったりとした空気に溶け込んでいく。俺は帳簿とにらめっこしながら、数字の羅列を目で追っていた。ぶっちゃけ、全然頭に入ってこない。
「ねえ、湊」
呼ばれて顔を上げると、澄江ばあちゃんがこっちを見ていた。その表情がいつもより少し真剣で、なんとなく嫌な予感がする。
「この店も、そろそろ誰かに託すことを考えなきゃいけない時期かもしれないわね」
その一言に、胸の奥がキューッと締まった。まるで氷でも飲み込んだみたいに冷たい感覚が広がる。
「……いずれは湊に任せられたらなって、ずっと思ってきたのよ」
うわ、来た。予想通りの展開だ。俺は視線を帳簿に落として、ペンを握る手に力を込めた。
「無理だよ、俺には」
声が勝手に低くなる。まるで自分の心の底から這い上がってきたような、重い響き。
「向いてないし、守れる人間じゃない。あのときだって--」
言いかけて、一瞬喉が詰まった。あの日の記憶が、嫌な音を立てて蘇る。
「俺の声なんて誰にも届かなかった」
自分で言った言葉が、胸の古い傷をえぐるように痛い。
「それに……俺は心理学者になるために留学を決めたんだ」
澄江ばあちゃんは、カップに丁寧にお湯を注ぎながら、まるで昔話でもするみたいに穏やかに言った。
「人はね、背負えるかどうかじゃなく、"背負いたい"かどうかで変わるのよ」
その言葉に、なんて答えればいいのかわからない。俺の中には「守るものは必ず壊れる」っていう、どうしようもない確信が根深く張り付いている。まるで毒みたいに。
澄江ばあちゃんは窓の外を見つめて、遠い目をした。
「……あんたのお母さん、本当に優しい子だったのよ。家族を何より大切にして、嘘がつけないくらいまっすぐで……」
母さんの名前を出された瞬間、胸がぎゅうっと苦しくなった。呼吸が浅くなる。
「けどね──真理恵とは、昔からどうにも折り合いがつかなかった。あの子は何でも勝ち負けで考える子でね、人の痛みよりも自分の正しさを押し通す性分だった。お母さんとは性格が正反対で、子どもの頃からよく衝突してたのよ。“姉妹”って呼ばれてたけど、心の距離はずっと埋まらなかった」
そう言って、澄江ばあちゃんは一度ゆっくりと息を吸った。
「……八年前の事故は、本当に突然だったわね。今でも思い出すと胸が苦しくなる」
言葉を飲み込み、ただ黙って聞いていた。
「お前が芸能界を離れて、ようやく普通の生活に慣れ始めた頃だったね……突然、ご両親が事故で亡くなって。あの時のあんたは、本当にぽつんと独りだった。
真理恵とは……もうあんな風になってたし、頼る先なんて他になかった。
それでも、あんたは“自分でやれる”って顔をしていた。私は無理に手を伸ばすことができなかったよ。
だけどね……私の中で、あの子(お母さん)の優しさを知ってるからこそ、どうしても放っておけなかった。
直接何もできなくても、せめて、ちゃんと見守っていようと決めたんだよ。」
カウンターの木目を見つめていると、温かいマグカップがそっと置かれた。コーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「一人で平気なふりをするの、あの子にそっくりよ。でも……私は見てるからね、ずっと」
マグカップを両手で包む。陶器の温もりが手のひらに染み込んで、なぜかそれだけで胸がじんわりと熱くなった。
◇◇◇
澄江ばあちゃんが淹れてくれたコーヒーの香りが、まだカップの縁にふんわりと漂っている。なんだか落ち着かなくて、俺は席を立って壁際の方へとぶらぶら歩いた。
午後のカフェ・アカシアは、外の商店街の雑踏が別世界のことみたいに感じられるくらい静寂に包まれている。
壁には木枠の額縁がずらっと並んでて、常連さんたちの笑顔が収まった写真がたくさん飾られてる。その中の一枚で、お客さんたちとニコニコしながら写ってる女の子が目についた。
「……誰だろう、この子」
心の中でつぶやいた瞬間、背後から澄江おばあちゃんの優しい声が聞こえてきた。
「咲良よ。昔からこの店を大事にしてくれてて、今はアルバイトもしてくれてるの」
咲良--名前を聞いても、俺の記憶の引き出しには全然ヒットしない。でも、写真の中の彼女は本当に自然体で、そこにいるだけで周りの空気を温かくしちゃうような、そんな不思議な笑顔を浮かべてた。
俺がいなかった間に、この店で紡がれてきた日々。それを目の当たりにするのって、なんだかちょっと怖い。まるで自分だけが取り残されたような、そんな気分になる。
「実は、咲良のお母さんはね……」
澄江ばあちゃんが何か言いかけた時、俺は反射的に視線を写真から逸らした。その声のトーンが、なぜかやけに重く胸に響いてくる。
知らない方がいいことって、きっとあるんだ。そう思った。
澄江ばあちゃんも俺の気持ちを察してくれたのか、それ以上は何も言わなかった。
壁の写真の中で、咲良は屈託なく笑ってる。お客さんたちと肩を寄せ合って、その一瞬一瞬を大切に抱きしめるみたいに。
俺の知らない時間の中でも、この店はちゃんと息づいていたんだな。
--その中で、俺って一体何だったんだろう。
過去を語る資格なんて、今の俺には全然ない。そんなことを改めて思い知らされた。




