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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第ニ章:帳面の沈黙

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5話-祖母の声

祖母の喫茶「カフェ・アカシア」の奥にある倉庫のドアを開けた瞬間、まるで時間の底に落ちたような感覚に襲われた。


ひんやりとした空気が頬を撫でて、長い間閉じ込められていた紙と木の匂いが鼻の奥をくすぐる。なんだろう、この匂い。懐かしいような、でも少し切ないような--


ギシッ。


一歩踏み出すたび、古い木の床がまるで「よく来たな」って言ってるみたいに   


 軋んだ。その音が妙に大きく響いて、ここだけ世界から切り離されてるんじゃないかって錯覚する。


「うわあ……これは酷いな」


 思わず苦笑いが漏れた。棚という棚には缶詰やら食器やら、包装紙でぐるぐる巻きにされた謎の物体やらが、まるで宝探しゲームのアイテムみたいに無造作に突っ込まれてる。その合間を縫うように積まれた段ボールの山は、まさに「俺の人生設計」並みにカオスだった。


「悪いけど、そこら辺ちょっと片付けてくれる?」


 勝手口の方から澄江ばあちゃんの声が聞こえてきた。疲れてるはずなのに、相変わらず優しい響きで--ああ、この声を聞いてると、なんか安心する。


「はいはい、了解っす」


 返事をしながら、手前の段ボールに手を伸ばす。指先に伝わるざらざらした感触と、鼻をつく古紙の匂い。その瞬間、フラッシュバックみたいに記憶がよみがえった。


 小学生の頃、ばあちゃんの書斎で「探検ごっこ」をしてた俺。本の隙間に隠れてる宝物を探すんだって勝手に盛り上がって--


「……懐かしいな」


 そんなことを考えながら段ボールの中身をチェックしていくと、帳簿やらレシピノートやら、いかにも喫茶店らしいものがぎっしり。でも、一番下に埋もれてたのは、ちょっと雰囲気の違う一冊だった。


 濃紺の布で装丁されてて、金色の糸で「記録帳」って刺繍されてる。なんかRPGに出てきそうな、特別なアイテムみたいだ。


「これ、なんだろ?」


 持ち上げてみると、見た目に反してずしりと重い。まるで大事な秘密でも詰まってるみたいに。


 期待しながらページをめくってみたら--真っ白。


「え?」


 もう一度めくる。やっぱり真っ白。


「マジで?」


 全部チェックしても、文字なんて一つも書かれてない。完全に空のノートだった。まあ、そりゃそうか。「記録帳」って書いてあっても、これから記録するためのものかもしれないし--


 って思いながら表紙を閉じようとした時、裏側に小さく何か書いてあるのに気づいた。


『これから、あなたが書くこと。』


 え。


 心臓がドクンって音を立てた。


 この「あなた」って、誰のこと? まさか、俺?


 なんで急に胸がざわつくんだろう。たかが古いノートの一言なのに、まるで運命の人に告白されたみたいにドキドキしてる。いや、告白された経験なんてないけど。


 ああ、でも--


 過去のことを語るのって、結局誰かを傷つけるか、自分が傷つくかのどっちかなんだよな。だから俺は、もう語らないって決めたんだ。あの時、信じて全部話した相手に裏切られてから。


「……未来のことなんて、俺には分からないよ」


 そう呟きながら、ノートを棚の隅にそっと戻す。ほこりがふわっと舞い上がって、夕日の光の中で金色の粒子みたいにキラキラ踊ってた。


 なんかこう、映画のワンシーンみたいで綺麗だなって思ったけど--同時に、ちょっと寂しくもあった。

 


  ◇◇◇



 ジュワーッ!


 鉄鍋に火が入った瞬間、ケチャップの甘酸っぱい香りが爆発的に広がって、思わず「うおっ」って声が出た。

 この匂い、マジで反則だろ。お腹が空いてなくても絶対に食べたくなるやつじゃん。


 油がパチパチ弾ける音がまるでBGMみたいにリズミカルで、包丁で刻まれた玉ねぎの甘い匂いがそれに重なってくる。

 小さな厨房の中は、夕暮れの光がオレンジ色に染めてて、なんか時間がゆる〜く流れてる感じ。

 まるで異世界の料理教室みたい。


 澄江ばあちゃんは無言でフライパンをあおってる。

 その後ろ姿は相変わらず穏やかなんだけど--なんだろう、いつもより少し遠くにいるような気がした。

 物理的な距離じゃなくて、心の距離というか。


 

「人の言葉って、不思議よね」


 油のパチパチ音に混じって、ぽつりとばあちゃんの声が落ちた。


 え? 急に哲学的な話?


「同じ言葉でも、伝わる人と、伝わらない人がいる。大事なのは、どういう気持ちで言ったか。……料理と一緒だよ。店のためじゃない、まして自分のためでもない。その人のために作るのさ」


 俺は手に持ったフォークを止めたまま、ばあちゃんの横顔をじっと見つめた。なんか、すごく深いこと言ってる。


「……昔からそうだったよね、ばあちゃん」


「そりゃそうさ。変える理由がないんだから」


 フライパンをあおる手は止まらない。でも、その指先の動きがなんかやわらかく見えるんだよな。

 まるで楽器を演奏してるみたいに。


 ばあちゃんは続けた。


「若い頃さ、常連さんが病気で塩分を控えなきゃならなくなってね。

 ナポリタンの味を変えたら、『味が薄くても、あんたのナポリタンはうまい』って言ってくれたんだよ」


 そう言いながら笑うばあちゃんの口元に、深い皺がゆっくりと刻まれていく。その笑顔が、なんかすごく温かくて--


 あ。


 その瞬間、雷に打たれたみたいに理解した。


 料理って、味そのものじゃないんだ。「その人を想って作る時間」が皿に乗ってるんだ。

 愛情っていうと恥ずかしいけど、そういうことなのかも。


 目の前に置かれたナポリタンの照りが、夕日を反射してキラキラ輝いてる。

 立ちのぼる白い蒸気の向こうに、なぜか幼い頃の食卓が浮かんだ。

 そうそう、あの頃もばあちゃんは黙って俺の皿にだけ、ちょっと多めに盛ってくれてたっけ。


 フォークを手にしたまま、まだ口には運べない。


--語らないことで守ってきた何か。それが、この香りと熱気に混ざって心の中で揺れてる。


 俺は、目の前のナポリタンがなぜこんなにも俺の心を揺さぶるのか、ようやく分かった気がした。


 これ、ただの料理じゃないんだ。



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