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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第十ニ章:灯火をわかつとき

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45話-それぞれの物語へ

挿絵(By みてみん)


カフェ・アカシアは定休日の静寂に包まれている。


商店街に人の姿はなく、風がアーケードの布を揺らすカサカサという音だけが響いていた。

ガラス戸の向こうは、二年前の騒ぎが幻だったみたいに静まり返っている。


カウンターの中に立って、空っぽの店内を見渡した。


壁には咲良のスケッチが額に収まり、カウンターの隅には祖母のホーローポットと、アカシアの枝を挿した小さな瓶がある。昼前に焙煎したコーヒー豆の香りがまだ漂い、古い木の床が足裏にほんのり温かかった。


この穏やかな空気は、ただの定休日とは違っている。

俺の胸の奥に、ここまでの二年間がずっしりと積み重なっているんだ。




二年前の春。祖母が亡くなって戻ってきたこの店は、がらんとしていた。

常連の老夫婦がひと組、古いカウンターで静かにコーヒーを飲むだけ。


その空間で、俺は逃げてきた過去と無理やり顔を突き合わせることになった。


そのうち咲良のスケッチと俺のナポリタンがSNSで拡散されて、週末は行列ができるようになった。


土曜の昼間、厨房でずっとフライパンを振り続けて腕がしびれて、背中にTシャツが張り付いていた記憶。ホールを駆け回る咲良の笑顔。取材のライトが差し込んで、知らない観光客がカメラ越しに笑っていた光景。


でも熱狂の裏側では、息が詰まりそうな日々もあった。

真理恵の邪魔、再開発の立ち退き通知、祖母の声が途切れたカセット、そして法廷。

店は守れたけど、俺の心にはずっと「語れない過去」が刺さったままだった。




今、静かな定休日の午後に立っていると、その全部が遠くかすんで見える。


でも、そのかすみの向こうに、俺の物語の出発点があったことは分かっている。


カウンターに肘をついて、空っぽの客席を眺めながら考える。


(……俺は、やっとここに立てたんだな)


扉の上の小さなベルは鳴らない。

かつて人波と声でいっぱいだった空間に、今は俺と咲良だけの息遣いがある。


この静けさこそが、祖母が守ろうとした店の本当の姿なのかもしれない。




階段を下りる足音が、静かな店内に吸い込まれていく。


スケッチブックを胸に抱えた咲良が、光の差すカウンターの前に立った。

午後の陽射しに透けた栗色の髪が、店内にやわらかな影を落とす。


「……ここに立つと、前とは全然違う店に見えるね」


咲良は店内をぐるりと見回した。


壁の季節ごとのスケッチ、カウンターに整然と並んだ磨き込まれた道具たち。かつては静かすぎて息が詰まりそうだったこの空間も、人の声と笑顔を知った今は、どこを見ても温かさがあるように思えた。


「二年前の行列が、嘘みたいだ」


俺は布巾をたたんで、軽く肩を回した。


「あの時はずっとフライパン振ってて、自分がどこにいるのかも分からなかった」


咲良はスケッチブックを抱き直して、少し下を向く。沈黙のあと、ぽつりと言葉をこぼした。


「……あの頃のこと思い出すと、胸がざわつくんだよね」


「ざわつく?」


「うん。嬉しかったけど、怖くもあった。……私、ずっと"居場所がなくなる"のが怖かったから」


窓際に歩いていった咲良は、外の通りを見つめる。

商店街の道を風が抜けて、アカシアの鉢植えの影がゆるく揺れている。

吐息がガラスにかすかに曇って、言葉が続いた。


「湊くんがキラキラして、店もお客さんでいっぱいで……。みんなが湊くんを見てるのを見て、私、また置いていかれるんじゃないかって」


その横顔は大人びて見えたけど、瞳の奥にかすかな影が残っている。


返事を探したが、言葉が喉の奥で止まった。

静かにカウンターを回り込んで、咲良の隣に立つ。

窓の外を猫の影が横切って、アカシアの葉の揺れと重なった。


何も言わず、そっとスケッチブックの端に手を重ねる。

指先に伝わる微かな震えが、彼女の本音を物語っていた。


沈黙の時間が二人を包む。やがて咲良は、ゆっくり息を吸い込んで小さく笑った。


「……でも、今は違うんだ」


視線はスケッチブックの表紙に落ちている。


「この店があって、湊くんがここにいる。それだけで、もう"置いていかれた子"じゃないって思える」


俺は静かにうなずいた。言葉にしなくても、その沈黙が二人の距離を確かに縮めていた。






咲良の言葉が静かに店内に溶けていく。

彼女の横顔を見つめながら、自分の胸の奥に燻り続けていたものを改めて感じていた。


……俺は、ずっとここに留まる理由を探していたんだ。


二年間、店を守り続けた。

祖母の想いも、咲良の笑顔も、この空間の温もりも。

だけど、心のどこかで、まだ「語れない自分」を抱えたままだった。

それは、子役としての過去を恥じ、逃げ、隠してきた年月の影だ。


咲良がそっと窓ガラスに手を当てる。

その指先は、外の風を感じるように小さく動いた。


「ねぇ、湊くん……。あの日、私を守るって言ったでしょ?」


「覚えてるよ」


「うん……。あのときは、ただそばにいてくれるだけで十分だった。でも、今は違うの。……湊くんが自分の物語をちゃんと歩き出してくれることが、私の安心なんだと思う」


彼女の声は震えていなかった。

むしろ、二年前のあの日よりもずっとまっすぐだった。

その言葉に、俺は心の奥に小さな熱が広がるのを感じた。




カウンターの奥に置いてあったノートパソコンを取り出した。

咲良が不思議そうに首を傾げる。


「何してるの?」


「……これ、ずっと開けなかったページ」


画面に映ったのは、大学卒業後に行こうとしていた海外の心理学系大学院の出願ページだった。

記入用のメモ帳には名前や経歴だけが残され、最後の一歩---志望動機の欄だけが空白のままになっている。


咲良の目が大きく見開かれた。


「俺、本当はずっと怖かったんだ」


キーボードに手を置きながら、俺は小さく笑う。


「ここを埋めたら、もう逃げられない気がしてさ」


咲良は黙って俺の隣に腰を下ろした。

光の入るカウンターに二人の影が並ぶ。




「俺は、子どもの頃から誰かの台本でしか生きてなかった。母さんにも、事務所にも、真理恵にも……。

全部、誰かの言葉の中の"望月湊"だった」


画面に映る自分の名前が、遠い他人のように見えた。でも今は違う。


この二年間、逃げ場のなかった記憶と向き合い、咲良と共に過ごし、ばあちゃんの想いを受け継いだ。


「……今なら語れる気がする。俺自身の言葉で、俺の物語を」


咲良は、そっと俺の肩に手を置いた。

その手の温かさは、二年前に初めて握ったあの日の手と同じで、けれど今は力強さが違った。


「海外に……行くの?」


咲良の声が小さく震えていた。


「ああ」


「心理学を学び直したいんだ。俺みたいに過去に縛られてる人たちを、今度は俺が支えられるようになりたい」


その瞬間、咲良の手が俺の肩から離れた。


「そう……なんだ」


彼女の声はかすれていた。




キーボードを叩く音が、静かな店内に小さく響いた。一文字、一文字に、これまで語れなかった時間を刻み込むように指を動かす。


でも、隣にいる咲良の息遣いが聞こえる。少し荒くなっているのが分かった。


窓の外で、風がアーケードの布を揺らした。

祖母が微笑んでいる気がした。


入力を終えたとき、胸の奥に長く張りついていた氷がゆっくりと溶けていくのを感じた。


「送信……するね」


「うん」


咲良の返事は小さかった。


送信ボタンを押した瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


その時、咲良が小さく息を吐いた。俺がそちらを向くと、彼女の目に涙が溜まっているのが見えた。


「咲良?」


「ごめん……」


彼女は慌てて手で目元を拭う。


「嬉しいの。湊くんがちゃんと前に進もうって決めてくれて。でも……」


咲良の声が震え始める。


「でも、怖いんだよ。本当は。湊くんがいなくなっちゃうのが。この店も、私も、全部置いていかれちゃうのが」


彼女の手がカウンターの上で小さく握られた。


「勝手だよね。応援したいって気持ちと、行かないでって気持ちが、こんなにぐちゃぐちゃになってるなんて」


咲良がこんな風に自分の本音をそのまま言葉にするのは珍しかった。いつもは周りのことを考えて、自分の気持ちを奥にしまい込んでしまうのに。


「咲良……」


「ごめんね。こんなこと言っちゃって。でも、言わなきゃいけないと思ったの。

私の本当の気持ちを、湊くんに知っておいてほしくて」


「俺も怖いよ」


正直に答えた。


「ここを離れるのも、咲良を一人にするのも。でも……」


「わかった」


咲良は涙を拭いながら、でもしっかりと俺を見つめた。


「私は、この場所で待ってるよ。湊くんが戻ってくるまで」




「ねぇ、湊くん」


咲良はスケッチブックを開いた。

最後のページに描かれたのは、三人の姿──

澄江ばあちゃんと、幼い自分と、いま隣にいる俺。


でも、その手が少し震えているのを俺は見逃さなかった。


「私も……」


咲良は一度言葉を切った。深呼吸をして、それから続ける。


「私も、勇気を出してお母さんに会いに行こうと思う」


その瞬間、俺は息を呑んだ。咲良が母親のことを口にするのは久しぶりだった。


咲良の声が小さくなっていく。


「もう逃げないで、"ここにいる私"を見てもらうの」


彼女は微笑んで言った。

その笑顔は、二年前の不安に怯えていた少女ではなく、もう一人の物語の語り手の顔だった。


「大丈夫だよ」


咲良の手に自分の手を重ねた。


「俺たちは一緒に怖がりながら進むんだろ?一人じゃないよ」


咲良の目に涙が浮かんだ。でも、今度はそれが不安だけの涙じゃない。


「うん……ありがとう」




店内は再び静けさに包まれた。

けれど、その沈黙は、もう過去に縛られた沈黙ではない。


扉の上のベルが揺れもせず、風の音だけが遠くに聞こえる。

それは新しい物語への序章のように思えた。


窓越しに春の空を見上げる。

雲間から差す光は、かつての自分が恐れていた外の世界の色と同じだった。

だが、もう怖くはなかった。


「咲良、俺……行ってくるよ」


その声は静かだったが、はっきりとした未来を見据えていた。



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