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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第十ニ章:灯火をわかつとき

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44/47

44話-語られなかった手紙の主

挿絵(By みてみん)


私は店の奥で小さなジョウロに水を入れてた。


金属の口から細く流れる水が銀色の筋になって、底に当たるたびに小さく響く。

両手で抱えると、温かい水の重みと冷たい金属の感触が手のひらに混ざった。


小さなドアを押して外に出ると、正午前の通りは穏やかな光に包まれてる。


春の空気はまだ少し冬の名残があるけど、頬に当たるとやわらかい。


アスファルトに反射した光がちょっと白っぽくて、隣の青果店からは段ボールの匂いと果物の甘い香りが漂ってくる。遠くから子どもの笑い声が聞こえて、商店街の奥で車のドアがバタンと閉まった。


店先に並べた鉢植えに近づいて、一番手前にあるアカシアの苗の前にしゃがむ。


葉の先はまだ薄くて、陽に透けて半透明みたいだ。

ジョウロを傾けると、水が土の上で小さく弾んで、粒が跳ねて葉先に散る。

太陽の光を受けた水滴がキラリと光って、小さな虹色になった。


――こんなに静かに、穏やかにこの場所に立てる日が来るなんて。


心の奥に、じんわりと温かいものが広がった。


昔の私は、こうして誰かと一緒に店を持つことも、朝の光の下で安心して水やりすることも想像できなかった。お母さんに置いていかれた記憶は、長い間心に影を落としてた。おばあちゃんに可愛がられても、常連さんたちに優しくされても、胸の奥では「これは一時のもの」「いつか消えてしまう」って怯えてた。


土に染み込む水の音を聞きながら、そっと葉を指先で撫でる。

柔らかい感触が伝わった。


そこへ、通りの向こうから親子連れが歩いてくる。

お母さんは買い物袋を下げて、男の子は赤いキャップをかぶってた。


二人は店の前で足を止めて、吊り下げられた看板を見上げる。


「ねぇ、ここって……あの子役の人がやってるお店なんでしょ?」


お母さんの声は抑えてるつもりでも、春の空気に溶けて耳に届く。


「ほんと? テレビの人?」


男の子がちょっと背伸びして、窓の中を覗き込んだ。


私の胸に、かすかな揺れが走った。

湊くんの過去を思い出すと同時に、数年前までの私なら、この言葉に心がざらついて、不安が広がっただろう。


自分の居場所が、彼の過去の影に覆われるような気がして。


でも今は違う。


湊くんと一緒に重ねた時間が、ここに確かなものとして積もってる。


彼の過去は彼の一部で、そして私は今、この店の一部として隣に立ってる。


親子連れは、特別なもののように看板を見上げた後、小さく会釈して歩き去った。

赤いキャップの男の子は、去り際にアカシアの苗をじっと見てた。


私はその背中を見送って、小さく息を吐く。


そして、指先でアカシアの葉をもう一度そっと撫でた。水滴が光の粒になって、指先に冷たさが残る。


「……でも今は、私たちの店ですから」


声は小さく、誰に聞かせるでもなく、春の光に吸い込まれていった。


その言葉を口にした瞬間、胸の奥に静かな誇りが灯る。


アカシアの葉の上で、水滴が風に揺れて、きらめきながら落ちる。


私はジョウロを下ろして、背筋を伸ばした。通りを渡る風は少し冷たいけど、指先には温かさが残ってる。


――ここが私の居場所で、私たちの物語が続いていく場所。


そう思うと、胸の奥に深く根を下ろしたような感覚があった。



  *


夜のカフェ・アカシアは、昼間の温もりをすっかり手放してた。


商店街は静まり返って、外灯の光が舗装路の水たまりに細く揺れてる。

通りを渡る風の音が、時々ガラス戸をかすかに鳴らした。

店内はもう片付け終わって、テーブルもカウンターも静かな闇に沈んでる。


私は一人で厨房の奥に立ってた。


この数日、心の奥でずっと何かが囁いてる。──あの場所を、そろそろ開けなきゃって。


湊くんと一緒に整理したことはあるけど、奥の棚の手前で手を止めちゃった地下倉庫。

触れたら、今まで避けてきた感情や記憶が溢れそうで、怖くて踏み込めなかった。


湊くんとの共同経営が始まって、日常に小さな安定と安心感が生まれた。


**今なら、過去と向き合っても壊れない**──そう思えた。


だから、今日は違う。


心の奥にあった迷いが、店を閉めて静けさに包まれた瞬間、ふっと形を変わった。


昼間の店先で、常連の老夫婦が笑ってくれた顔が思い出される。


「咲良ちゃんがいると、この店も明るくなるねえ」


その一言が、胸の奥に温かな火を灯した。


---私、本当はずっと、答えを知りたかったんだ。


厨房の奥の扉を開くと、階段の上から下を覗き込むだけで、空気が変わったのが分かった。


地下は昼でも薄暗くて、夜になるとまるで時間が止まったような気配を放つ。

懐中電灯を片手に持って、もう片方の手で古びた手すりを握ると、指先にひやりと冷たい感触が走った。


ぎい、ぎい、って木の段が軋むたびに、心臓の鼓動が重なって響く。


地下倉庫の扉を押すと、長い眠りから解き放たれた空気が、ひやりと肌を撫でた。


湿った土と古紙の匂い、段ボールにしみ込んだコーヒーの残り香が混じり合って、肺の奥に沈んでいく。


裸電球にスイッチを入れると、狭い空間に淡い光が広がった。


天井近くには水道管が走って、時々かすかに水が動く音がする。


壁際の棚には段ボール箱がぎっしりと積まれて、側面には油性マジックで「人生ログ」「昭和スクラップ」「湊/仕事資料」って書かれてる。


積もった埃が光に照らされて、ふわりと銀色の粒のように浮かび上がった。


私は息を整えながら、ゆっくりと棚に近づく。


足元で小さな砂や木片がざりって音を立てるたび、心臓が跳ねた。


段ボールの列に触れると、埃が指先にまとわりついて、ざらつきが胸の奥をざわつかせる。


棚の下段で、茶色の布張りの帳面が目に入った。


湊くんが「湊の祖母のレシピ帳」って呼んでた、大切な一冊だ。


両手で包むように取り出すと、角は少し丸まってて、ところどころに油染みが残ってる。


指先に伝わるその柔らかさは、長年の台所の温もりを吸い込んだようだった。


ページをそっと開く。


ナポリタンのソースの配合、ミートソースの煮込み時間、プリンの温度管理。


どのレシピにも小さなメモが添えられてる。


「常連の古賀ちゃんは甘めが好き」「雨の日は塩を控えめに」


澄江さんの丸い字が、ページの中にまだ生きてる気がした。


ページをめくる指先が止まった。


---薄い封筒が数枚、紙の間から滑り落ちた。


懐中電灯の光を向けると、和紙の表面に黒い文字が浮かび上がる。


「白石 美緒 様」


私の呼吸が止まった。


胸の奥に、冷たい衝撃と熱いものが同時にこみ上げる。


美緒---それは、幼いころに決して呼んではいけないって心の奥に閉じ込めてきた、お母さんの名前だった。


膝が少し震えたまま、私は封筒を拾い上げた。


指先に伝わる紙の感触は軽いのに、胸にのしかかる重みは今までにないほど強い。


地下倉庫の静けさが、さらに深く、重く、私を包み込んだ。




私は封筒を胸の前で握りしめた。


手のひらに伝わる紙の感触は薄いのに、まるで鉛の塊を抱えてるみたいに重かった。

心臓の鼓動が早すぎて、指先にまで伝わる。開けるのが怖い──でも、目は逸らせなかった。


震える息を整えて、そっと封を切った。


紙が擦れる微かな音が、地下倉庫の静けさの中でやけに大きく響く。便箋を取り出した瞬間、空気が少し動いた気がした。


裸電球の光にかざすと、折り目のついた和紙に、懐かしくも見覚えのある筆跡が浮かび上がる。


澄江さんの字だ。


読み始めた途端、文字が胸に刺さるように飛び込んでくる。


------------------------------------------------------

> 「美緒さんへ

> この手紙を書くのは三度目になります。

> 出そうとしてはやめて、引き出しの奥にしまい込んでばかりでした。

> あなたは遠くに行くと言ったけれど、私は知っています。

> 隣町の小さなアパートの二階。

> あの子のことを思いながら、そっと暮らしていることを。

> 商店街の角で、あなたが涙をこらえて立っていた日もありましたね。

> あの子は、きっと誰かを照らす灯火になる。

> 安心してください。私が責任をもって預かります。

> あの子が『捨てられた』と思わぬように、私が守ります。」

------------------------------------------------------


最後の一行を目にした瞬間、私の思考は真っ白になった。


胸の奥に何か大きな衝撃が走って、呼吸が止まりそうになる。


---今、何を読んだの……?


---私のこと、守ってくれてた……?


理解が追いつかなくて、膝がかくりと折れた。


コンクリートの床に座り込んで、便箋を両手で握りしめたまま、視線だけが宙をさまよった。


耳の奥で血の音がざわめく。

外界の音は遠くなって、地下倉庫の冷たい空気と自分の鼓動だけが世界になった。


文字は確かに澄江さんの筆跡だった。


でも、心のどこかが拒んでる。


だって、私はずっと---捨てられた子どもだったはずだ。


狭い部屋の、暗い天井。


隣で寝息を立てるお父さんの気配もない夜。


運動会で迎えに来る親はいなくて、校門で靴ひもを結び直しながら、胸の奥に石のような重さを抱えたまま帰ったあの日。


次々に過去の記憶が浮かぶ。


あの孤独は、確かに私のものだった。


でも、この手紙は、私がずっと見てなかったもう一つの真実を差し出してくる。


視界が滲んだ。


涙はまだ落ちてないのに、便箋の文字が揺れて見える。


嗚咽がこみ上げて、息が乱れる。


---じゃあ、あの孤独は何だったの?


---本当に私は、ひとりじゃなかったの?


その瞬間、脳裏に一枚の光景がはじけた。


休日に、もやもやした気分を晴らそうと出かけた隣町のショッピングストリート。


服屋の前で肩が触れた見知らぬ女性が、私の顔を見た瞬間、目を見開いて立ち尽くした。


次の瞬間、涙をこらえるように顔を伏せて、そのまま人混みに消えていった。


あの時はただ胸に小さな棘のような違和感が残っただけで、理由なんて分からなかった。


---今なら分かる。あれは、お母さんだったんだ。


葛藤が胸を締め付ける。


便箋を抱えたまま、私はその場に小さく丸まった。


額が冷たい床に触れる。


コンクリートの冷たさと、胸の奥の熱さが交錯して、感情が飽和する。


ぽたりって、涙が紙に落ちた。


にじんだ水滴がゆっくりと広がって、文字の一部を淡く溶かしていく。


その滲みが、幼い日の自分の孤独を洗い流してくれるように思えた。



頭の中に、あの夜の商店街が蘇る。


夕暮れの角で、こっちを見ていた女性の影。


泣きそうな目をして、でも声はかけてこなかった。


その沈黙の意味を、今は理解できる。


澄江さんが何も言わずに背中を撫でてくれた日々も思い出す。


あの温もりは、全部知ってたからの優しさだった。


"あなたは捨てられてないよ"って、沈黙のまま伝えてくれてたんだ。


嗚咽が止まらなかった。


涙は次々にこぼれて、頬を伝って落ちる。


孤独で固まってた胸の奥が、初めて解けていくのをはっきりと感じた。


長い時間をかけて、ようやく視界が静かになった。


便箋を胸に抱いて、深く息を吸う。

古紙の匂いと地下の湿気が混じって、胸の奥まで染み込んでいく。


---私は、捨てられたんじゃなかった。


---ずっと、守られてたんだ。


その事実を、今ようやく心の底から受け入れられた。


涙はもう悲しみだけじゃなくて、温かいものに変わってた。




二階の廊下は、夜の静けさにすっぽりと包まれてた。


木造の床板は長年の使用でやや沈んで、私の足音に合わせてかすかに軋む。

窓から差し込む月明かりが、廊下の壁に淡い影を描いてた。


階下のカフェ・アカシアはもう眠りについて、街の外灯と遠くの踏切の音だけが、世界の片隅で時間を刻んでる。


私は両腕に、茶色の布張りのレシピ帳と、澄江さんの手紙が入った封筒を抱えてた。

指先に伝わる紙の感触は、昼間よりも重たく感じる。


胸の奥にまだ熱の残る涙の跡があって、呼吸を整えるたびに鼻の奥に地下倉庫の湿り気と古紙の匂いが蘇る。肩越しにスケッチブックも抱えてきたけど、心はずっと、手の中の封筒に釘付けだった。


湊くんの部屋の前に立つと、引き戸の隙間から、柔らかなオレンジ色の明かりがこぼれてた。

中で誰かが小さくページをめくる音がする。

喉がひゅっと細くなるのを感じて、ほんの一瞬ためらったけど、意を決して戸を軽く叩いた。


「……咲良?」


戸の向こうから、眠そうな声がした。


戸を開けると、六畳ほどの畳部屋に湊くんが正座してた。机の上にはノートパソコンと、昼間使った資料やペンが散らばってる。窓際の障子は半分だけ閉じられて、月明かりと卓上スタンドの灯が交互に部屋を染めてた。微かなインスタントコーヒーの香りが漂って、夜の静けさを際立たせる。


私は部屋に一歩入って、封筒を胸に抱いたまま、ぎこちなく口を開いた。


「……湊くん、あのね……これ……私、見捨てられたんじゃなかったんだ……」


声が震えて、目尻がまた潤んだ。

昼間に地下倉庫で溢れた涙の余韻が、まだ身体の奥に残ってる。

湊くんは驚いたように目を見開いて、すぐに立ち上がって私の前に来た。

言葉を挟まずに、ゆっくりと手を伸ばして、私の冷たい手を包み込む。


その瞬間、胸の奥に溜まってた孤独の塊が、ゆるやかに解けていく気がした。

私は握り返す。かすかに震える指先が、お互いの鼓動を確かめ合うように重なった。


「……咲良」


湊くんの声は、夜の静寂にやわらかく溶ける。


「うん……」


返事は涙に濡れた囁きのようだった。体重を預けるように肩が触れて、初めて素直に寄りかかった。湊くんのシャツ越しに、微かな体温と心臓の鼓動が伝わる。


そのとき、抱えてたスケッチブックがするりと腕から滑り落ちて、畳の上でぱさりと音を立てた。

二人は同時に視線を落とす。開かれたページの最後に、色鉛筆の優しい色彩が浮かんでた。


そこには、幼い私とお母さん、そして澄江さんが三人で並んでる姿が描かれてた。

お母さんの腕に抱かれた小さな自分の笑顔は、現実では一度も見たことがないはずの光景だ。


背景には、アカシアの窓辺から差し込む光と、カウンター越しの温かな店内が描かれてる。


「……これが……」


湊くんはそっと膝をついて、スケッチブックに目を落とした。ページの色は柔らかくて、でも揺るぎない思いが滲んでた。


私は小さく頷いて、喉の奥で言葉を探す。


「ずっと、誰にも見せられなかった……。だって……本当は、こうやって抱きしめてもらいたかったんだと思う。描かないと、心の中で消えちゃいそうで……」


湊くんは言葉を挟まずに、私の肩をそっと抱いた。手のひらから伝わる温もりは、ただの慰めじゃなくて、私が背負ってきた長い孤独ごと受け止めようとする意志だった。


部屋の外では、風が軒先を撫でて、古い看板の金具がわずかに鳴った。

障子の隙間から差し込む月光が、スケッチブックの上で白く瞬く。

夜の匂いと畳の香りが混じり合って、呼吸をするたびに胸の奥に沁み込む。


私は目を閉じて、湊くんの肩に額を預けた。涙がぽたりとシャツに落ちる。


「……あの手紙、見たら……怖かった孤独が、少しだけ、優しいものに変わったの。ずっと、誰かに守られてたんだって、やっと信じられた……」


湊くんは短く息を吐いて、握った手に力を込めた。


「……よく、ここまで一人で頑張ったな」


その言葉に、私の頬を伝う涙がまた新しく零れた。

孤独を抱えた少女は、ようやく守られる場所に辿り着いたんだ。


深夜の二階、静かな部屋の中で、二人の呼吸と遠くの風の音だけが世界を満たしてた。



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