43話-未来へつながる朝
カフェ・アカシアの朝が来た。もう冬の冷たさなんてどこにもない。
ガラス窓から入り込む光が、木のテーブルを金色に染めて、咲良が手描きしたメニューボードを優しく照らしてる。
窓辺にはビオラとハーブが並んで、アカシアの苗木も少し背が伸びた気がした。道行く人がチラッと店を覗いていく。
開店のベルが鳴って、コーヒーの香ばしい匂いが店内に広がった。
カウンターには咲良が描いた「今日のおすすめ:秩父ナポリタン」の札。
色鉛筆の温かいタッチが俺の心をくすぐる。
厨房で俺は新品の白いコックコートを着て、フライパンを握ってた。
油がジュッと音を立てて、刻んだ玉ねぎがパチパチ弾ける。
子役時代の作り笑いじゃない、自然な顔で料理に向き合ってる自分がいる。
「湊くん、ホットコーヒー二つ追加ね」
咲良の声が聞こえた。メモには常連さんの名前。
俺は頷いて、カップに丁寧にお湯を注ぐ。
立ち上る蒸気を見てたら、自然と咲良の方に目が向いた。
軽やかにトレイを持って、足音も控えめ。目が合うと、言葉なんかなくても分かり合える。
そんな穏やかな空気が店中に満ちてる。
窓際の常連の老夫婦が笑ってた。
「咲良ちゃん、また可愛い絵描いたねえ。ナポリタンが本当にこうやって立体的で……湊くんが作るとこんな感じなんだなって分かるよ」
咲良がちょっと照れながら「ありがとうございます」って返してる間に、俺は秩父ナポリタンを運んだ。
地元の太麺に、焦げ目をつけたソーセージ、季節の野菜。懐かしくて新しい香りがふわっと広がる。
「今日は菜の花も入ってるんですよ。春限定です」
老夫婦の顔がほころんだ。
「こうやって季節を感じられるのはいいねえ。澄江さんも、きっと喜んでるよ」
胸の奥がじんわり温かくなった。もう祖母の名前を聞いても苦しくない。
彼女の想いは、確実にこの店に生きてるんだ。
厨房に戻ると、古い時計が朝の九時を指してた。二年前、店を継ぐかどうかで悩んでた時間と同じなのに、今は自然に息ができる。
咲良がカウンターから店全体を見渡してる。
その瞳は、この空間すべてを包み込むような優しさに満ちてた。
次の注文を準備しながら思った。
――あの時、この店を選んで本当によかった。咲良となら、どんな朝でも未来につながる気がする。
昼が近づいて人通りが増えてきた。店先の風鈴が春風に揺れて鳴る。
ガラス越しの光が少しずつ角度を変えて、咲良の新しいポップを照らしてる。
そこには、俺が初めて「この店は、君とじゃなきゃできなかった」って伝えた夜を思い出させる、温かい色があった。
常連さんの笑い声と、コーヒーを注ぐ音。フライパンに当たる木べらのリズム。
穏やかで、前に進むしかないって分かってる朝。
カフェ・アカシアのドアは、今日も優しい音を立てて開き続けてた。
カウンターの裏で俺はノートパソコンをいじってた。画面には新しいチラシのレイアウト。
咲良が描いた春のアカシアのイラストが背景で、窓辺の小さな鉢植えや季節限定ナポリタンが優しい色で描かれてる。
画面を見てると、店にいる時以上に実感する。
この小さな喫茶店が、確実に未来に向かって生きてるんだって。
「……やっぱり、この店は、君とじゃなきゃできなかったな」
独り言のつもりだったけど、咲良にはバレバレだった。
カウンターの向こうでミルクピッチャーを拭いてた手を止めて、小さく笑う。
「そんなこと言うなら……じゃあ、責任とって一生付き合ってもらいますよ」
からかうような声の奥に、ちょっと誇らしげな熱がこもってる。
咲良もずいぶん変わった。昔は人に優しくされても、心の奥で「たまたま」だと思ってた。
お母さんに置いていかれた過去が、愛情を信じる力を何度も奪ったから。
でも今は違う。正面から自分を差し出せるようになった。
俺は画面から目を離して咲良を見た。
「うん……そういうことなら、逃げる理由もないな」
軽口で返したけど、心に迷いはなかった。
咲良がカウンターを回り込んできて、俺の後ろからそっと画面を覗き込む。
マウスを握ってる俺の手に、彼女の指先が軽く重なった。
「ここの文字、もう少し右に寄せた方が見やすいかも」
触れた手から温かい鼓動が伝わってくる。
胸の奥に波立つものはもうない。
ただ、確かにここにいていいって感覚が広がるだけ。
――俺は、もう"かけがえのない存在になれない"なんて思わない。
心の中でそうつぶやいて、口元に小さな笑みが浮かんだ。
隣で咲良の横顔を見て、穏やかに息を吐く。
二人の間には言葉なんかなくても通じる静かな共鳴があった。
「これで完成かな」
マウスを離して、画面を保存する。
咲良が画面を眺めながら、胸の奥にぽっと火が灯ったような顔をした。
この小さな店も、自分自身も、ようやく誰かに受け入れられて愛される形に落ち着いたんだって実感できたからだと思う。
後ろで椅子が動く音がした。
常連の女性がチラシをちらっと見て、「新しいの楽しみにしてるわ」って声をかけてくる。
咲良が自然に笑顔を返して、俺と目を合わせる。
その視線に、昔の遠慮も不安もなかった。
二人の距離はもう、誰にも壊せないところまで来てた。




