42話-過去の語りが残した光
夜のカフェ・アカシアは、まるで昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
裁判が終わってから初めて迎える夜。
俺はカウンターの中で、片付けの途中で手を止めていた。
窓の外には、商店街の街灯がオレンジ色ににじんでいる。
冷えた夜風が古い看板をゆらゆら揺らして、カランと小さく鳴った。
店の中に残っているのは、コーヒーと木の匂い、そして――“静けさ”だけ。
カウンターの端で咲良がスマホをいじっていたけど、急に息をのむ。
「……っ、ちょっと待って……湊くん、これ……!」
「え?」
声のトーンは抑えてるのに、手がプルプル震えてる。
嫌な予感と、どうしようもない好奇心が同時に背中を押した。
気づいたら、俺は咲良の隣に身を乗り出していた。
画面には、どこか懐かしい感じの古びたラジオ局の公式サイト。
バナー広告に埋もれた片隅に、ほとんど誰も気づかなそうな小さなアーカイブのリンク。
咲良が指先でスクロールして止めた先、そこに表示された文字を見た瞬間――心臓が跳ねた。
「親子の心をつなぐラジオ特集──矢野明日香」
……矢野、明日香?
え、今、なんて?
画面の小さな文字が、やけに鋭く目に飛び込んでくる。
昼間の判決ですら、まだちゃんと実感できてなかったのに、胸の奥が今度は別の意味でドクンと鳴った。
咲良が恐る恐る再生ボタンを押す。
スピーカーから、柔らかい女性の声が流れ出した。
「……私には、かつて小学校不登校と摂食障害に苦しんでいた娘がいました」
息が止まった。
――この声。間違いない。矢野さんの声だ。
けど、法廷で聞いたあの張り詰めた声とは違う
今は、どこかに母親のあたたかさが滲んでいた。
ラジオの中の彼女は、少し間を置きながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「彼女が部屋にこもっていたあの冬、私は見ました---繰り返し、何度も、ある子役のインタビュー映像を再生していた姿を」
胸の奥がドクンと鳴った。
喉の奥が熱くなって、背中に小さな震えが走る。
「『僕は誰かの小さな希望になりたい』──
あの子がそう言ったとき、娘は初めて泣きました。
そして翌朝、ほんの一歩ですが玄関を開けたんです」
隣で咲良がそっと息を呑むのがわかった。
俺は視線を落とし、膝の上で拳をぎゅっと握った。
ずっと胸の奥で絡まっていた何かが、ゆっくりほどけていく。
ラジオの中の声が、少しだけ強くなる。
「私はあの時、誓いました。
“この人がもし、いつか困難に直面することがあったら──
今度は私が、全力で守る”と」
……息が詰まった。
熱くて、苦しくて、でも――あたたかい。
胸の中で何かが光に変わるのを感じた。
(……全部、つながってたんだ)
ラジオの再生が止まると、カフェの中にまた静寂が戻ってきた。
外の街灯の光が窓から差し込んで、カウンターにやわらかい輪を描く。
咲良が、ぽつりとつぶやいた。
「……あの人、ずっと見てたんだね。湊くんのこと。」
俺は何も言えなかった。
ただ、胸の奥がじんわり熱くて、
――それが、少し泣きたくなるくらい、うれしかった。
ラジオを止めた後も、店内には静寂が満ちていた。
しばらくカウンターに座ったまま動けず、咲良も隣でスマホを握りしめていた。
夜の商店街を吹き抜ける風が、古い窓ガラスをかすかに揺らす音だけが聞こえる。
胸の奥で何かが静かにほどけていく。
――長い間、封じ込めてきた痛みと孤独が、確かな温かさに変わっていくのを感じた。
(……俺は、ずっと一人じゃなかった)
窓越しに見えるカウンターには、ラジオを止めたスマホがぽつんと置かれている。
その横で、祖母の笑顔が浮かんでいるような気がした。
その瞬間、祖母の言葉が鮮やかに蘇った。
「あんたは気づいてなかったかもしれないけど、ずっと応援してくれてた大人のファンもいたのよ」
心臓が、どくんと脈打つ。
(……そうだ……あの手紙……)
立ち上がると、言葉もなく店の奥へ駆けた。
驚く咲良が椅子から半ば立ち上がる。
「湊くん……?」
暗い店内を抜け、地下倉庫の階段を駆け下りる。
懐かしい木の匂いと、段ボールの埃っぽい空気が鼻を刺した。
懐中電灯の光の中、積まれた箱をかき分ける。
指先に紙の感触が触れた瞬間、胸が高鳴った。
――あった!
古びた白い封筒。
差出人欄には、震えるような小さな字で「A.Y」と記されている。
手の中でその封筒をしばらく見つめ、慎重に封を切った。
便箋の文字は丁寧で、震える指先にやさしく伝わる。
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拝啓 望月湊さま
突然のお手紙をお許しください。
私は都内で暮らす一人の母親です。あなたにどうしても伝えたいことがあり、筆を取りました。
私の娘は、小学校の頃から心を閉ざし、長いあいだ不登校が続いておりました。
部屋にこもり、昼夜を問わず言葉を失い、食事にも手をつけない日々が続き、
親として何をしても届かない暗闇の中に、私はただ立ち尽くしていました。
その冬のある夜、偶然つけていたテレビに、まだ幼いあなたが映っていました。
インタビューの中で、あなたははっきりとこう言いました。
『僕は、誰かの小さな希望になりたい』
その瞬間、隣で俯いていた娘の肩が小さく震え、
やがて静かに涙を流しました。
私は、その涙を見たとき、言葉にならない思いに胸をつかまれました。
翌朝、娘は数か月ぶりに自分から玄関に立ちました。
靴を履き、外の空気を吸い込み、顔に少しだけ光が戻ったのです。
あの子の表情を、私は今でも忘れられません。
あなたの言葉が、閉ざされていた心の扉をそっと開いてくれたのだと思います。
娘はその後、少しずつですが社会に戻り、今も前に進もうとしています。
この奇跡のきっかけをくださったあなたに、心から感謝を申し上げます。
もし、あなたがいつか困難に直面することがあったなら──
そのときは、必ずこの恩をお返ししたいと願っております。
寒さ厳しき折、どうかお体にお気をつけて。
敬具
A.Y
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文字を追った瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げる。
矢野のラジオの声と、この便箋の言葉が重なり、すべてが一本の線になった。
(……矢野さん、あの時から……)
地下倉庫の冷たい空気の中で、頬を熱い涙が伝った。
長い間、過去は重い鎖だった。
けれど今、鎖は光に変わり、自分の歩いてきた道を優しく照らしている。
テラス席に戻ると、咲良が心配そうに待っていた。
胸に便箋を抱え、夜空を仰ぐ。
遠くの踏切の音が、静かな街にやさしく響く。
「……もう、大丈夫だ」
静かに言うと、咲良がそっと肩に寄りかかってきた。
夜風は冷たいのに、心の奥は不思議なほど温かかった。
過去を語ることの恐怖は、もうない。
それは痛みではなく、誰かの光になるのだと、今はハッキリとわかる。




