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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第十一章:語られた真実、裁かれる嘘

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40話-逆転の一手

挿絵(By みてみん)


冬の朝の空気は、まるで張り詰めた糸のように冷たく重かった。


裁判所の玄関前に立った瞬間、胸にずしりと鉛が落ちる。

石段には夜の霜がまだうっすらと残り、靴底にきしむ感触が伝わった。


吐いた息はすぐに白く溶け、風に散って消える。

矢野の横を歩きながら、深く息を吸う。

冷気が喉を刺し、胸の奥まで冷たさが流れ込む

それでも肺の奥は重く、呼吸は浅い。


(……今日で、すべてが決まる。逃げられない)


二階の廊下は、朝の光を受けても薄暗く感じられた。

壁際の長椅子には、傍聴整理券を握りしめた人々が沈黙のまま並んでいる。


商店街の馴染みの顔、近所の主婦、前回の公判から通い詰める記者たち。

声は一つもない。だが、沈黙の奥から突き刺さるような視線が肌を刺した。


足音だけが廊下に響く。革靴の音が、やけに大きく感じられる。


法廷の扉を押す。

暖房が効いているはずの室内は、やはり冷たく張り詰めていた。


白い壁、木目の机、正面にそびえる裁判官席。

窓際から差す朝の光が紙束の上に細い帯を作り、机に長い影を落としている。


紙をめくる音や傍聴席の衣擦れが、水底に沈む小石のように静かに響いた。

原告席に腰を下ろす。


膝の上で重ねた手は湿って冷たい。


机の上には、祖母・澄江の自筆遺言書と、地下金庫から見つけたスクラップ帳のコピーが置かれている。

視界に入れるだけで、祖母の声が胸の奥でささやく気がした。


(……逃げるな。最後まで立っていなさい)


木槌の乾いた音が響き、裁判官の声が低く落ちる。


「……最終弁論に移ります」


その声に応じ、矢野が静かに立ち上がった。

黒いスーツの裾が微かに揺れ、白いシャツの襟元が凛と光る。


息を止める。背中に冷たい汗が流れた。

矢野は一拍置いて口を開く。


「この裁判は、相続や営業妨害の問題にとどまりません。ここにいる一人の青年の、人生と尊厳をどう扱うかの問題です」


法廷がわずかに震えたような気がした。

矢野は机上の資料を手に取り、一枚のコピーを掲げる。


「望月湊さんが子役時代に受けた取材記事です。そこに、こう記されています」


「僕は、誰かの希望になりたい」


その言葉が響いた瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。


まぶたの裏に、幼い自分の姿が蘇る。

熱いライト、埃と金属の匂い、冷たい床。

泣きたいのに笑顔を貼りつけ、必死に立っていた日々。


(……守りたかった。あの頃から、ずっと)


矢野の声が重なる。


「この言葉は、子供の空想ではありません。彼は小さな身体で、必死に誰かへ光を渡そうとしていました。しかし、その思いを踏みにじったのは、被告・明石真理恵氏です」


傍聴席がわずかにざわめく。


矢野は資料をめくり、論理を重ねていく。


「証人は語りました。高熱でも現場に立たされ、笑えと命じられた事実。そして商店街の証人は当初“客足が減った気がした”と述べましたが、売上記録を前に、噂に惑わされていたと思い込みだったと認めました。これらが示すのは、被告が事実を歪め、世論を操り、彼を貶めてきた現実です」


机の下で拳を握りしめる。

冷たい汗が指の間を伝う。

胸の奥に、熱がこみ上げた。






机の端に置かれた封筒が、静かに持ち上げられた。


「ここに、祖母・望月澄江さんの自筆証書遺言があります」

朱肉の赤い印影が、冬の朝の光をやわらかく反射する。


法廷に漂う冷気の中で、その一枚だけが鮮やかに命を宿しているようだった。

彼女は一歩前へ進み、書記官に丁寧に手渡す。

紙が擦れる音が、沈んだ法廷に鮮やかに響いた。


「祖母は、最期まで彼を信じていました。

“この子になら任せられる”---それが、彼女の最後の想いです」


傍聴席に沈黙が落ちる。

空調の風が天井を渡る音さえ、かすかに耳に届いた。


机の上のコピーを見つめる。白い紙に映る祖母の筆跡が、胸の奥に深く刻まれる。

指先に力を込めると、少し震えているのがわかった。


(……守る。もう逃げない。あの日、祖母に誓ったんだ)


遺言書の提出を終えた彼女は、続けて言葉を紡ぐ。


「これまでの公判で明らかになった事実を整理します。元制作スタッフの証言により、彼は高熱の日も現場に立たされ、笑顔を強いられていたことが確認されました。これは、被告・明石真理恵氏が幼い子供を金銭目的で酷使していたことを示す事実です」


目を閉じる。


耳の奥で、スタジオのライトの低い唸りと、真理恵の冷たい囁きがよみがえった。


「笑いなさい」──その言葉に縛られた日々。

だが今、目を開けると、その声はもう遠くに霞んでいた。


声は淡々としているのに、言葉には一点の迷いもない。


「さらに、商店街の証人は当初、“客足が減った気がした”と証言しました。しかし売上記録の提示により、実際には前年より来客数は増えており、証人自身が噂に惑わされていたことを認めています。

つまり、営業妨害や名誉毀損の実態は存在せず、被告の世論操作に過ぎません」


傍聴席に小さな波が走る。

椅子の背もたれがわずかに軋み、誰かが息を飲んだ。


商店街の知人らしき人物が視線を落とし、肩をすくめるのが見える。

それを視界の端に捉え、胸の奥に小さな温かさが灯った。



(……信じてくれる人が、ちゃんといる)



黒いヒールが木の床を静かに叩き、彼女が裁判官席に一歩近づく。

動作には迷いがなく、声には確信の熱が宿っていた。


「どうか、この青年を、これ以上傷つけないでください。彼は幼い頃から、誰かの希望になりたいと願ってきました。その想いは、被告によって踏みにじられ、世論によって再び傷つけられました。

 しかし今、彼は祖母の店を守ることで、ようやく自分の物語を取り戻そうとしています」


その声は、法廷全体にゆっくりと染み渡っていった。

冬の光が窓から差し込み、机上の書類を白く照らす。

木目の机に落ちる光の帯を見つめながら、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。



(……このままでいい。誰かになろうとしなくていい)



視界の端で、真理恵が唇を噛みしめ、目を伏せるのが見えた。


その姿は、長い間自分を縛っていた影が静かに崩れていくように思えた。

傍聴席の空気は、明らかにこちらの側に傾いている。

緊張の糸が、静かに一本切れる。

胸の奥に、これまで感じたことのない熱が息づいていた。



逃げ続けた過去も、沈黙の年月も、いまここでようやく意味を持った。


裁判官が頷き、低い声で告げる。

「……以上で、最終弁論を終結します。判決は後日言い渡します」


木槌の音が乾いて響く。

その瞬間、法廷の全員が同時に呼吸を取り戻したように思えた。


ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げる。

足元はまだわずかに震えている。

けれど胸の奥には、かすかな安堵が芽生えていた。



――これで、できることはすべて出し切った。

あとは静かに判決を待つだけだ。


窓の外の冬の雲が、わずかに裂けて光を落とす。

その淡い陽射しを視界の端に感じながら、胸の奥で静かに息を吐いた。



まだ終わってはいない。

だが、長い沈黙と恐怖の時間は、確かにここで一区切りついたのだ。



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