4話:ちちぶまゆの余韻
カフェ・アカシアは閉店モード。
照明はほぼ消灯、厨房の明かりだけがポツンと残ってる。
テーブルの上には、取り残されたコースター一枚。……お前、今日の営業お疲れ様。
棚には祖母の年代物カップたちがずらり。
その中に――いた! 猫のマグ!
子どものころ俺が「これがいい!」って駄々こねて選んだやつ。まだ現役だったのかよ、お前。
カバンからお土産用に買った小さな紙袋を取り出す。
秩父土産の「ちちぶまゆ」。
フタをパカッと開けて、一個つまむ。
パクリ。
……うわ、柔らかっ。
薄い絹みたいな求肥の中に、やさしい白あんと小豆。
で、その瞬間――頭の中に、昔の映像が勝手に再生された。
誰かの声、照明の熱、割れそうな拍手音。
……ちょっと待て、今そういうの観たい気分じゃない。
甘さの奥に渋みが滲んで、喉から胸の奥までスーッと沈んでいく。
あの頃のこと、ぜんぶ水底に沈めたはずなのに。
……いや、いいんだ。
過去は言わなきゃ、なかったことになる。
あの出来事も、あの夜の声も、テレビ越しの視線も。
語るつもりなんて、ない。マジで。
もう一個の「ちちぶまゆ」を指でコロコロ転がす。
壊れやすくはないけど、ほっとけば崩れてくる――ああ、なんか俺だな。
その時、暖簾がサラッと揺れた。
外で犬がワン、と一声。
静かな夜に、それだけが残った。




