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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第十一章:語られた真実、裁かれる嘘

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39話-法廷という戦場

挿絵(By みてみん)


午前九時三十分、地方裁判所の玄関前は冷たい冬の風にさらされていた。


曇天の下、鈍く光るガラス扉の向こうで、金属探知機がかすかな電子音を立てる。


報道陣のカメラが数台、三脚を低く構え、まだ開廷前だというのにその場の空気は緊張で満ちていた。


黒いスーツの袖をきつく握りしめ、矢野と並んで庁舎の階段を上がる。


足元から伝わるコンクリートの冷たさが、胃の底の不安をさらに固めていく。


コートの襟に忍び込む風は氷のようだが、背中に滲む汗はそれを感じさせないほど粘ついていた。


正面玄関をくぐると、内部は独特の無機質な静けさに包まれていた。


白い石の床はワックスの匂いをわずかに残し、蛍光灯が冷ややかに光を反射する。


案内板に従い、二階の第3法廷へ向かう階段を上がると、既に傍聴席を求める地元の住民や記者たちが列を作っていた。


 耳を澄ますまでもなく、彼らの小声が自分の名前を含んでいることに気づく。


「……本当にあの子役の……」

「新聞でも読んだよ、相続の揉め事だってさ……」


耳の奥で血がざわめく。


息を深く吐こうとしたが、喉が細くなったようで空気が通らない。


隣を歩く矢野は、黒縁眼鏡越しに静かに前だけを見ていた。


背筋は真っすぐで、歩調は一分も乱れない。

その落ち着きが、かえって自分の動揺を浮き彫りにした。


法廷の扉を開けると、まず目に入ったのは薄茶の木製ベンチと、正面にそびえる裁判官席の高い机だった。


 白壁に囲まれた室内は暖房が効いているはずなのに、どこか冷気が漂っているように感じられる。

窓際にはカーテン越しの光が斜めに落ち、床に長い影を落としていた。


 視線は自然と被告席──本訴では原告の立場だが、今読み上げられているのは真理恵の反訴──に導かれる。


真理恵は既に被告席に座っていた。

濃いグレーのスーツに赤みを帯びた口紅。

背筋を反らせた姿勢は、まるでこの場の誰よりも優位だと語っているようだった。


視線が交わった瞬間、あの氷のような目がこちらを値踏みする。

胃がきゅっと縮む。


「望月湊さん、こちらへ。」


矢野に促され、原告席に腰を下ろした。

ベンチの木肌は固く、冷たい。


手のひらにじんわりと汗が滲む。

後方から聞こえるペンの走る音や、傍聴席の衣擦れがやけに大きく感じられ、すべて自分に向けられているように思えた。


開廷のベルが鳴る。

裁判官が入廷し、静寂が支配する。


「本件は、本訴および被告側による反訴を併合審理します。」


 裁判官の低い声が響くと、法廷内にわずかな緊張のざわめきが走った。


冒頭陳述で真理恵側の代理人が立ち上がる。

低くよく通る声が法廷に響いた。


「本件反訴において、原告・明石真理恵は、被告・望月湊による営業妨害および名誉毀損を主張いたします。明石は、亡き母の遺産について正当な権利を有しており、地域の将来を見据えた再開発計画に協力しておりました。

 しかし、湊氏は事実無根の主張を公言し、関係各所や報道機関に不当な影響を及ぼしました──」


その言葉に合わせて、証拠として提出された新聞記事やネットのスクリーンショットが机に並ぶ。


大きな活字で踊る「元子役、親族と相続トラブル」

「地元名物カフェ、騒動で存続危機」の文字が、視界に飛び込んできた。

幼い笑顔が添えられた古い宣材写真まで晒され、背中に冷たいものが伝う。


傍聴席から、押し殺したようなざわめきが漏れた。


記者たちの視線が鋭く突き刺さる。

ペン先が紙を走る音と、かすかな衣擦れだけが響き、法廷の空気は重く沈んでいた。


指先が小刻みに震える。

心臓の音が鼓膜の内側で響いた。


(……やっぱり、彼女に有利な空気だ。)


胃の奥に鉛のような重さが沈み、過去の記憶が不意に脳裏をよぎる。


撮影現場で泣きながら台本を握りしめていた自分、真理恵の冷たい声。

何も言い返せなかったあの日の沈黙が、今も首を締めている気がした。


矢野が静かに立ち上がると、空気がわずかに変わる。

黒のスーツに白いシャツ、その所作には無駄がない。

彼女は手元の書類を整えると、真っすぐ裁判官を見据えた。


「被告側の主張は、事実と大きく異なります。原告は、祖母の遺志を守るために必要な法的措置を取ったにすぎません。営業妨害と名誉毀損の根拠として提出された記事や証言の多くは、被告自身が意図的に流布させたものです。今後の証拠提出により、その経緯を明らかにいたします。」


矢野の声は低く、しかし芯があった。

横顔を見つめる。


氷のように張り詰めた法廷の中で、彼女だけが静かな炎を灯しているようだった。


その声に、沈みきっていた胸の奥に小さな光が差し込む。


裁判官が進行を告げると、真理恵がちらりと視線を向け、薄く笑った。

その笑みに、幼い頃から何度も味わった「支配」の記憶が重なる。


(負けられない……でも、まだ怖い。)


手の中でペンを握りしめる。


指先に力を込めても、震えは止まらなかった。

傍聴席の後方で紙のめくれる音が響く。

その音は、心に突き刺さる針のようだった。


午前の審理は淡々と進み、真理恵側の提出証拠と証言が次々と受理されていく。


報道陣や傍聴席の視線は依然として冷たく、法廷の空気は重く沈んだままだ。

喉は乾き、呼吸は浅くなる。


けれど、隣の矢野だけは微動だにしなかった。

書類に視線を落とし、次の反撃の手を静かに練っている。


その姿を見ながら、唇をかすかに噛む。

胸の奥で、ほんのわずかだが「まだ終わりじゃない」という声が芽生えていた。


こうして第1回口頭弁論は、試練の始まりを告げる幕開けとなった。


外の曇天は変わらず、法廷の窓に射す光は鈍い。

だが、その微かな光だけが、心に踏みとどまる勇気を残していた。


   *


法廷を出ると、廊下の空気は思った以上に冷たかった。


足取りの重さを隠せず、革靴の音が妙に鈍く響く。

白い壁には古い掲示板と訴訟日程の紙が並び、どこも同じ色をしている。


窓の外には曇天が広がり、遠くの街路樹の枝が風に揺れていた。


矢野が無言で先を歩き、廊下の突き当たりにある控室の扉を開ける。


中は十畳ほどの静かな部屋で、木目調の長机と硬いベンチが二列に並んでいた。


蛍光灯の光は白く、外の曇り空を思わせる色合いで、ここも温かみは少ない。


壁際には古びたコート掛けがあり、給湯器と紙コップが置かれている。


机の端に腰を下ろし、手に持っていたペンを無意識に転がした。


汗で少し湿った手のひらが冷たく感じる。

膝の上に置いた書類がかすかに震えているのは、自分の指先のせいだった。


「……終わった、気がする」


ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるほどかすれていた。


矢野は正面に腰を下ろし、眼鏡を軽く押し上げる。


その表情には苛立ちも焦りもなく、静かな湖面のような落ち着きがあった。


「まだ始まったばかりよ」

「でも……」


言葉を詰まらせ、机に視線を落とす。

脳裏にはさっきの法廷がよみがえった。


傍聴席の冷たい視線、机に並ぶ記事とスクリーンショット、幼い笑顔が貼られた新聞の見出し。


「元子役、親族と相続トラブル」──あの活字が、胸の奥に刺さったままだ。


「……やっぱり無理なんじゃないか。あんなふうに世間が信じちゃったら……」


呟くと、矢野は机の上の書類を指先で軽く叩いた。

「世間じゃなくて、裁判所が判断するの。今日のは、相手が最初に見せたい材料を出しただけ。ここからが本番よ。」


矢野はカバンから新しい書類を取り出し、目の前に広げる。

白い紙には、箇条書きで証人候補と証拠リストが並んでいた。


「次の期日までに、これを整えるわ。証人の確保はすぐに動く。過去の撮影関係者、元事務所スタッフ、商店街の古い知り合い……あなたの味方になれる人は必ずいる」


思わず目を瞬かせる。


「……こんなに、いるのか」

「いるわよ。あなたはひとりじゃない。過去も、今もね」


矢野の言葉は淡々としていたが、その奥にかすかな熱を感じた。


胸の奥で、重たい石が少しだけ動く。

けれど、不安の影はまだ消えない。


「……でも、真理恵はきっとまた何か仕掛けてくる」

「来るでしょうね」


矢野は小さく微笑んだ。


「だからこそ、私たちは準備を怠らない。感情で押し潰される暇はないの。今は落ち込んでいる場合じゃない。──戦うのは、ここからよ」


顔を上げる。


矢野の瞳は、淡い光を宿して真っすぐにこちらを見ていた。

その視線に背中を押されるように、呼吸がわずかに深くなる。


「……わかりました」


小さな声だったが、確かに前を向く意思がこもっていた。

控室の窓の外で、雲間からほんの少しだけ陽が差す。


白い机の上に伸びる光が、次の戦いへの道を照らすように思えた。

   

    *


数週間後、第2回口頭弁論の日──

地方裁判所は、薄曇りの空の下に静かに佇んでいた。


庁舎前には報道陣が前日より少し増え、長いレンズのカメラを手にした記者たちが、出入り口を見張るように立っている。

深呼吸を一度だけして、黒いスーツのボタンを留めた。


 控えめに吐いた息が、冬の空気に白く溶けていく。

法廷の扉を押すと、内部は前回と変わらず白く無機質だった。


けれど、少し違って見えた。

昨日よりも傍聴席の人が増えている。商店街の顔見知りも混じっているのが分かる。

視線がぶつかると、彼らはすぐに目をそらした。


(……まだ、信用はされていない。)


胸に重い感触が広がるが、昨日よりは冷静だった。

矢野の言葉が、背中に小さな芯を作っている。


裁判官が入廷し、第2回口頭弁論が始まる。

最初に呼ばれたのは、真理恵側の証人である地元商店街の中年男性だった。


「証人、宣誓をお願いします。」

証人はぎこちなく手を上げ、形式通りの言葉を口にする。


 固唾をのんで見つめた。


真理恵側の弁護士が尋問を始める。


「証人、あなたは先月、カフェ・アカシアの営業についてどのように感じていましたか?」


「ええと……その、店の前でちょっとした騒ぎがありまして。相続の揉め事だって噂が広がって、お客が……減った気がしました」


「つまり、原告の行動が店の営業に悪影響を及ぼしたと?」


「……はい、そうだと思います」


法廷に淡々とした空気が流れる。

胸にまた重みが落ちた。


(やっぱり、みんなそう見てる……)

そのとき、矢野がゆっくり立ち上がった。

黒いスーツの裾が微かに揺れ、低く落ち着いた声が響く。


「反対尋問をさせていただきます」


証人の前まで歩み寄ると、矢野は一枚の書類を机に置いた。


「証人、この資料をご覧ください。これは、アカシアの売上帳のコピーです。ここに記録された先月の来客数は──前年同月より、むしろ一割ほど増えていますね?」


「えっ……あ……確かに、数字はそうですが……」



「数字は嘘をつきません。あなたの“減った気がした”という証言は、思い込みか、周囲の噂に影響された可能性が高い。そうではありませんか?」



「……ええ、たしかに……そうかもしれません」



傍聴席に、わずかなざわめきが走る。

心臓が跳ねるのを感じた。

矢野の声は冷静で、だが確実に法廷の空気を揺らしている。


矢野はさらに数問を重ね、証人の曖昧な印象を次々と崩していった。


 最後に裁判官が確認するように尋ねる。



「証人、あなたの証言は、営業が実際に落ち込んだという事実に基づくものではない、という理解でよろしいですか?」


「……はい」


その瞬間、真理恵が小さく顔をしかめた。

その変化を傍聴席から見て、胸の奥にわずかな熱が生まれる。


(……これだ。これが、反撃だ。)


第2回弁論はその後も続き、矢野は落ち着いた調子で相手の証人を揺さぶり続けた。


真理恵は何度か書類を握りしめ、唇をきつく結ぶ。

やがて午前の審理が終わり、裁判官が次回期日を告げた。


廊下に出ると、深く息を吐く。


「……少しだけ、光が見えた気がする」


隣で矢野は微笑を浮かべることなく、ただ静かに頷いた。


「まだ前哨戦。でも、風向きは変わり始めているわ」


曇天の窓から差す淡い光が、肩に落ちる。

心の奥にあった氷が、わずかにひび割れた気がした。



   *



午後の冷たい風が、裁判所の白い庁舎の外壁を撫でていた。


金属製の大きな扉を押し開けて外に出た瞬間、一斉に向けられた視線に足が止まる。

正面の階段下には十数人の記者が陣取り、黒いカメラとマイクが並んでいた。


細長いコードが地面を這い、冬の陽射しに鈍く光る。


「望月さん! 一言お願いします!」

「今回の反訴、どう受け止めていますか?」

「相続争いは長期化するんでしょうか?」


連続する問いかけが冷たい空気を切り裂く。

呼吸が一瞬止まった。胸の奥に、法廷で味わったあの圧迫感がぶり返す。


視界の端でフラッシュは焚かれない。

だが、無数のカメラの黒いレンズが自分を射抜く感覚は、まるで凍った矢のようだった。


足がすくみ、返す言葉が見つからない。


(……また、世間に飲み込まれる。)


胸の奥がじわりと冷える。

幼い頃、バラエティ番組のスタジオで浴びたライトと歓声が、今は別の光と音に変わって心を締め付けた。


そのとき、背後から小走りの足音が近づき、肩に柔らかい手が置かれる。


「顔を上げて」


咲良の声だった。息が少し上がっているが、その瞳は真っすぐだった。


彼女は一歩前に出て、記者たちと自分の間に立つように位置取る。


「皆さん、すみません。今日は弁護士の指示もあって、詳しいお答えはできません」


落ち着いた声が、寒風に溶けていく。

その背中を見つめた。小柄な体なのに、不思議と大きく見えた。

記者の一人がなおも食い下がる。

「世間では、“店を潰す側”だという声もありますが、どう反論されますか?」


喉がひくりと動く。


胸の奥に熱と寒さが同時に広がった。

だが、咲良の手が肩にある。その温もりが、ゆっくりと背骨に力を戻していく。


一歩前に出た。


「……店を潰すつもりなんかありません。

 ばあちゃんの店を、守りたいだけです」

記者たちが一瞬、言葉を飲み込む。

冷たい風の中で、その声は小さくても確かに届いた。


咲良が横で微笑み、目だけで「大丈夫」と伝える。


短いやり取りの後、矢野が外に出てきて淡々と告げた。


「取材はここまでにしてください。詳細は次回の期日後にご説明します」


彼女の低く落ち着いた声に、記者たちは名残惜しそうに後退していった。


庁舎の階段を降りると、冷たいアスファルトに冬の日が反射して眩しかった。

深く息を吐き、隣の咲良に小さくつぶやく。


「……ありがとう。逃げ出すところだった」

「逃げたくなったら、私が引っ張るから」


咲良の声は柔らかく、胸の奥に温かく染み込んでいった。


空はまだ曇っている。


だが、心の中には確かに小さな光が差し始めていた。



   *



次の期日、地方裁判所の第3法廷は、前回以上に張り詰めた空気に包まれていた。


原告席に腰を下ろし、スーツの袖口を無意識に握る。爪が生地を押し、わずかなきしみを指先に感じた。


窓の外は冬晴れで、雲一つない青空が広がっているはずなのに、法廷内はどこか薄暗く思える。

白い壁に反射する蛍光灯の光が冷たく、室内は暖房が効いているのに肌寒く感じた。


傍聴席には記者や地元の住民たちがぎっしりと並んでいる。


耳を澄ますと、衣擦れの音、紙をめくる音、ボールペンの先がノートを擦る音が、氷の上を歩くように小さく響いた。その一つ一つが胸を圧迫する。


(……今日で、すべてが変わるかもしれない)


心の奥でそう呟く。けれど、覚悟と不安はまるで別の生き物のようにせめぎ合っていた。


胸の奥が詰まり、背筋を伸ばそうとしても、わずかに震えてしまう。


裁判官の声が低く響いた。

「では、原告側証人を入廷させます」



その瞬間、心臓がひときわ大きく跳ねた。

扉の開く音が法廷の静寂に溶ける。

金属の取っ手がわずかに鳴り、ゆっくりと扉が押し開けられた。


そして、彼は入ってきた。


スーツを着た中年の男性。

髪は黒に白が混じり、分け目が少し乱れている。

薄い眼鏡の奥の瞳は落ち着いているはずなのに、まぶしく見えた。


ゆっくりとした足取りで証言台に向かうその姿を目にした瞬間、呼吸が止まる。



――この人を、知っている。


記憶の奥で閉ざしていた扉が、音もなく開いた。

まぶたの裏に広がるのは、幼い自分が立っていたスタジオの風景。

眩しいライト。埃を含んだ空気。カメラのモーター音。


冷たい床の感触が靴底から蘇る。

高熱で足がふらつき、吐き気に耐えながら立っていた自分。その視界の端に、いつもこの人はいた。


(……見られていた。全部……壊れていくのを、この人は知っている)


心臓の鼓動が急に大きくなり、耳の奥で反響する。先から血の気が引いていく。

机に置いていたペンが、汗ばんだ手から滑りそうになった。


膝が小刻みに震え、革靴の底が床をわずかに打つ音が、自分だけに聞こえた気がした。


(……来るな、過去……!)


 心の奥でそう叫ぶが、記憶は容赦なく押し寄せてくる。


 真理恵の冷たい声が甦る。


「笑いなさい」──あの囁きが、まるで法廷の天井から落ちてくるようだった。


肩をぐいと押され、泣きたいのを堪えて笑顔を貼りつけた、あの時の自分が息を吹き返す。


書記官の声が遠くに聞こえた。


「証人、こちらへ」


証人は証言台の前に立ち、宣誓の文言をぎこちなく読み上げる。


その一語一語が胸に重く響いた。


「私の証言は、すべて真実であり……」

その声は静かで、特別な抑揚はない。

なのに心には、鋭く突き刺さる。


(……ああ、この声だ。撮影現場で何度も聞いた声だ)


耳が熱くなる。視界がわずかに揺れる。

法廷の空気は静かなままだが、世界がひっくり返ったような感覚だった。

背中に冷たい汗が流れ、胸の奥が重く、呼吸が浅くなる。


証人が俯いたまま手を下ろす。

その姿を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。


(この人も……きっと、当時は何も言えなかったんだ)



怒りとも悲しみともつかない感情が胸の奥で混ざり合い、言葉にならない熱がこみ上げる。


矢野がゆっくりと立ち上がった。

黒のスーツの裾が微かに揺れる。

彼女は落ち着いた声で口を開いた。


「証人、あなたはかつて、望月湊さんが出演していた番組の制作現場にいらっしゃいましたね」


「……はい。制作進行を担当していました」


その瞬間、胃がぎゅっと縮む。

声を聞くだけで、スタジオの空気が蘇る。

照明の熱。撮影機材の金属の匂い。

誰も助けてくれなかった、あの孤独な時間。


(……これから何が語られるんだ……耐えられるのか)

膝の上で握った拳に力を込め、机の下で震える指先を必死で押さえ込んだ。



矢野は証言台に立つ証人に一歩近づき、書類を机に置いた。


「では、証人。当時の明石真理恵さんの現場での振る舞いを、覚えている範囲でお話しください」


証人は一瞬ためらうように目を伏せ、口を開いた。


「……あの人は、あなたを、まるで商品みたいに扱っていました。撮影が深夜まで及んでも、休憩を取らせず、体調が悪くても現場に立たせ続けました」


その言葉が法廷に落ちた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。


視界の端がにじみ、耳鳴りがする。

机の上のペンに視線を落とすが、手のひらの汗で滑りそうになる。


(……言った。ついに、誰かが言ってくれた)


喜びとも恐怖ともつかない熱が胸を締めつけた。

これまで心の奥底に押し込めていた記憶が、証言の一言一言で暴かれていく。


幼い自分が立っていたスタジオの匂いが蘇る。

照明の熱、金属の焦げたような匂い、真理恵の香水の刺激的な匂い。


吐き気が込み上げ、膝が小さく揺れた。

証人はさらに続ける。


「ある日、高熱で顔色が真っ青だったのに、真理恵さんは『カットだけ取ればいいから』って……。

 子どもを休ませるべきだとスタッフ全員が思っていたのに、逆らえませんでした」


奥歯を噛み締めた。


耳の奥で、当時の自分の荒い呼吸が甦る。

ライトの下で笑顔を貼り付けたまま、体は鉛のように重かった。


隣で真理恵が冷たくささやく声が、いまも鼓膜にこびりついている。


(……やめてくれ。もう、思い出したくない……)

心の奥で必死に叫ぶ。だが、過去の光景は止められない。


法廷の椅子に座っているはずなのに、体はあのスタジオの片隅で震えている気がした。


真理恵側の弁護士が立ち上がる。


「異議あり。証人の主観が多すぎます」


裁判官が手を軽く上げた。

「許します。ただし、事実経過の確認を優先してください」


矢野は落ち着いた声で続ける。


「証人、こちらをご覧ください。これは当時の制作進行表です。ここに書かれた撮影日程に見覚えは?」

「……あります」


証人は震える指で用紙を示した。


「ここにある日、あなたは熱を出していました」

「その日、撮影続行を指示したのは誰ですか?」

「……明石真理恵さんです。彼女が『スポンサーに迷惑はかけられない』と言って」


傍聴席がざわめいた。

胸の奥が熱くなるのを感じる。

恐怖と同時に、心の奥で長く凍りついていた氷が、少しだけ溶けていく。


証人は最後に、悔しさを滲ませながら言った。


「……彼女は、あの子を守る気なんてなかった。金になるうちは使う、それだけでした」


真理恵が顔を上げ、証人を睨む。

その目に、幼い頃の支配の記憶が重なり、背中に寒気が走った。


だが、裁判官の鋭い視線に気づくと、真理恵はすぐに目を伏せる。


法廷の空気が、少しずつこちらの側に傾いていくのを感じた。

背筋にまだ冷たい汗が残るが、胸の奥に小さな熱が灯る。


矢野は静かに頷き、席に戻った。

証人の横顔を見つめながら、胸の奥に複雑な思いがこみ上げる。


(……ひとりじゃなかったんだ)


涙がこぼれそうになる。


必死でまばたきをしてこらえる。

長い間、誰にも語られず、誰にも見られなかった過去が、ようやく光にさらされた。


それは、胸の奥で眠っていた子供の自分が、やっと救われる瞬間のように思えた。

裁判官の木槌が、静かに机を叩く。


「本日の証人尋問は以上とします。次回、最終弁論に入ります」


小さく息を吐いた。

足元はまだ少し震えている。

だがその震えは、過去の恐怖だけではなかった。

――初めて、前を向けるかもしれない、という小さな光が混ざっていた。



  *



夜の街は、昼間の喧騒を忘れたように静まり返っていた。


地方裁判所から車で十五分ほどの距離にある小さなオフィスビルの一室に、淡い照明が灯っている。

矢野の法律事務所が借りている作戦会議用の部屋だ。

昼間は無機質なオフィス街だが、夜になると人影もまばらで、窓の外に見えるのは点々とした街灯とコンビニの白い明かりだけだった。


長机の端に座り、深く椅子にもたれる。

スーツの襟元がわずかに湿っていた。

昼間の法廷で流れた冷や汗が、まだ体の奥に残っている気がする。


視界の端に置かれた紙コップから立つコーヒーの香りが、疲れた神経にじんわり染みた。

壁の時計は夜九時を回っている。

矢野は机の反対側でノートパソコンを閉じ、眼鏡を外して目頭を押さえた。


「今日は……よく耐えたわね」

その声はいつも通り落ち着いているのに、どこか柔らかかった。


かすかに首を振る。


「……正直、途中で逃げ出したくなりました」


声に自分のかすれを感じる。昼間の証言がまだ耳に残っている。


「商品みたいに扱われてた、って……あんなの、口に出されたら……」


言葉が途切れる。


胸の奥がずきりと痛む。

証人の声、法廷の冷たい空気、幼い自分の泣き顔がフラッシュのように蘇る。


机の下で握った拳にじんわり汗がにじんだ。

矢野は静かにこちらの表情を見つめ、机に一枚の書類を広げる。


「ここからが本番よ。今日で終わったわけじゃない。むしろ、ここまでの流れを利用して、明日の反論を形にするの」


「……明日、ですか」


「ええ、最終弁論。そのための準備は今夜中に整えるわ」


深く息を吐いた。


「……さっきの証言を聞いて、正直、怖くなりました。でも……同時に、少しだけ……救われた気もするんです」


矢野は頷いた。


「それでいいのよ。過去を正面から突きつけられたから、次はそれを武器にできる。あなたはもう、黙っているだけの子どもじゃない」


机の上に並ぶ証拠資料が、蛍光灯の白い光に淡く照らされる。古いスケジュール表、メールのコピー、そして明日の証人リスト。


矢野は一枚一枚を手に取りながら、戦略を言葉にしていく。


「明日は、真理恵さんの証言の矛盾を突くわ。今日の証人が示した事実と数字で、彼女の主張は崩れる。そして最後に、あなた自身の言葉を添えるの。あなたがこの場所に立った意味を、裁判官に伝えるのよ」


しばらく黙って資料を見つめた。


窓の外には、遠くの街灯がゆらめいている。


(……もう逃げない。ここまで来たんだ)


「……わかりました」


声は小さいが、確かな力を帯びていた。

矢野は静かに微笑んだ。


「いいわね。その顔になれば、明日は勝てる」


夜の静けさの中で、再び資料に向き合う。

机の上で紙の擦れる音と、遠くの車の走る音だけが響いていた。


長く重かった過去の影は、まだそこにある。

けれど、その影の端に、小さな光が差し始めているのを感じていた。




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