38話-逆告訴という反撃
昼下がりのカフェ・アカシアは、奇妙な静けさに包まれていた。
窓の外では、冬を引きずった曇り空が低く垂れ込み、商店街を渡る風が、店の古い看板をかすかに揺らしている。
ガラス越しに差し込む光はどこか白けた色をしていて、店内の木目やテーブルの角を鈍く照らしていた。
普段なら昼食時に常連の姿がちらほら見える時間帯だ。
だが今日は、奥の窓際に腰掛けた老夫婦が一組いるだけ。
カラン、とスプーンがカップに当たる音が、やけに響いた。
カウンターの中で、無言のままコーヒーを淹れていた。
ドリップから落ちる雫の音だけが、やせ細った店内に規則的に刻まれる。
ポケットの中のスマートフォンは、朝から断続的に震え続けている。
SNSの通知、ニュースアプリ、知り合いからの未読メッセージ──そのどれもが胸をざわつかせた。
咲良はカウンターの端に座り、スケッチブックを閉じたままこちらの横顔を見ていた。
「……また、通知来てるね」
返す言葉はなかった。けれど、硬く結んだ口元と落ちた肩がすべてを物語っていた。
スマホの画面には、今朝から何度も見せつけられた見出しが並んでいる。
〈元子役・望月湊、祖母の遺産を独占?〉
〈老舗カフェをめぐる“家族トラブル”、営業妨害か〉
小さな田舎町である西秩能市にとって、全国ニュースに名前が出ることなど滅多にない。
それが今は、悪意ある記事と匿名の声が、このカフェ・アカシアを取り囲んでいた。
咲良は窓の外に視線を向ける。
商店街を歩く人々が、店の前で一瞬足を止める。
中を覗き込み、ひそひそと何かを言い合い、結局は通り過ぎていく。
胸の奥がきゅっと縮む感覚がした。
「……こんなに静かなの、久しぶりだね」
無理に明るく言ったその声は、かえって空気の重さを際立たせた。
そのとき、扉のベルが乾いた音を立てた。
入ってきたのは、黒い鞄を抱えたスーツ姿の男だった。
冷たい風が背後から流れ込み、店の空気を一層沈ませる。
「望月湊さんでいらっしゃいますね」
男は名刺を差し出しながら淡々と告げた。
「明石真理恵代理人、山科法律事務所の者です。本日はこちらの書面をお渡しに参りました」
カウンターに置かれた茶封筒は、異様な存在感を放っていた。
震える手で封を開く。中には、正式な訴状と赤い印字の通知書。
「名誉毀損および営業妨害による損害賠償請求」
文字が、視界の中で波打つように揺れた。
「……反訴、だと……?」
喉の奥から、かすれた声がこぼれる。
男は事務的に一礼すると、何も言わずに店を後にした。
残されたのは、紙の重みと、冷えた静寂だけ。
立ち尽くす。
――来た。ついに、あの人は世論まで武器にしてきた。
祖母の遺言書と、地下金庫で見つけたスクラップ帳が脳裏をかすめる。
どれだけ想いを受け継いでも、この街とネットの声は、いとも簡単にそれを踏みにじるのだと突きつけられた。
咲良がそっと近づき、袖をつかむ。
「……湊くん、座ろ?」
彼女の声は震えていたが、その指先は必死に温もりを伝えようとしていた。
カウンターの椅子に腰を落とし、封筒を握りしめたまま天井を仰ぐ。
視界の隅で、常連の老夫婦が会計を済ませ、足早に店を後にした。
その背中が、まるで「ここにいると巻き込まれる」と言っているように見えた。
重苦しい沈黙を破ったのは、裏口の方から聞こえたヒールの音だった。
「……想像以上に、状況は厳しいようね」
現れたのは、グレーのスーツに細縁眼鏡の女性──弁護士・矢野明日香。
夕方の光に輪郭を縁取られたその佇まいは、静かだが確かな芯を感じさせた。
矢野は店内と表情を一瞥すると、静かに告げる。
「……詳しい話は、奥でしましょう」
短い言葉だけを残し、矢野はバックヤードへと歩み去った。
茶封筒を握りしめたまま立ち上がる。
逃げ場のない現実の重みが、背中にずしりとのしかかっていた。
茶封筒を握りしめたまま、矢野の後ろ姿を追った。
カウンターの奥、普段は店員だけが出入りする小さなスペースに入る。
そこは客席からは死角になるが、喫茶店の温もりがそのまま残る場所だ。
研ぎ澄ました静けさの中で、コーヒー豆の香りと磨かれた木の匂いが鼻をかすめる。
昼の光は窓から柔らかく差し込み、光に浮かぶ微細なほこりの粒が、いまの心のざわめきそのもののように思えた。
矢野は長机に資料ファイルを置き、静かに椅子を引く。
「座ってください」
促されるまま腰を下ろし、膝の上に封筒を置いた瞬間、重みがずしりとのしかかった。
昼間に受け取ったあの紙切れが、人生全体を圧し潰そうとしている気がする。
矢野は淡々とした声で切り出した。
「反訴の内容は確認したわね?」
小さくうなずく。喉が乾き、言葉が出ない。
「名誉毀損、営業妨害、損害賠償請求。……彼女の狙いは明確よ」
矢野は封筒を指で軽く押さえながら、静かに続けた。
「法廷の外で、先にあなたを悪者に仕立てる。
ニュースと噂で世論を固めれば、実際の裁判は有利に進むから」
奥歯を噛みしめる。
頭の中に、スマートフォンに並んだ見出しや、店を横目に通り過ぎる人々の視線がよみがえった。
――全部、本気で潰しに来ている。
矢野は表情を崩さず、淡々と続ける。
「でも、黙っていたら本当に“悪者”で終わるわ。
戦うなら、いま準備を始めるしかない」
膝の上の封筒を握りしめた。
「……でも、子役の頃のことまで遡って話したら……また、世間に叩かれる気がして」
声が震える。
矢野は軽くうなずいた。
「怖くて当然。でも、あなたはもう一人じゃない」
カウンターの端に目をやると、咲良が心配そうにこちらをのぞいている。
矢野はわずかに口元を緩めた。
「支えてくれる人がいる。そして、私もあなたの味方よ」
その言葉が、胸の奥で小さな火を灯した。
昼間はただ逃げたかっただけの心に、ゆっくりと熱が差していく。
――逃げたら、全部終わる。逃げなければ……まだ守れる。
顔を上げ、矢野の目をまっすぐに見た。
「……分かりました。やります。逃げません」
矢野は静かにうなずき、ファイルを開く。
「その顔でいいわ。ここからが本当の闘いよ。
証拠と証人をそろえ、あなた自身の言葉で過去を武器にする――それが勝ち筋よ」
カウンター奥の静かな空間で、
コーヒーの香りと決意だけが、確かに息づいていた。




