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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第十章:背負い直す覚悟

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37話-託された場所を守るために

挿絵(By みてみん)


午後の東京は、どこかとげとげしい空気をまとっていた。


電車の発車ベルとスマホの通知音が鳴り響く中、咲良と肩を並べて再び矢野法律事務所へ向かう。

隣に座る咲良は、膝の上で手を組み、視線を落としていた。


「……本当に行くんだね」


その声には、ただの確認ではない何かが混じっていた。

不安と迷い、それから背中を押したい気持ち。全部がごちゃ混ぜになって胸に響く。


「湊くんが決めたことなら止めない。でも、怖くないの?」


窓に映る自分の顔を見ながら、短く息を吐いた。正直な話、怖くて仕方がない。


「怖いよ。真理恵と向き合うのも、自分の過去をまた突きつけられるのも。でも、このままじゃ、あの店を誰も守れない」


咲良はその答えを聞いて、口元をきゅっと結んだ。

決意は嬉しいはずなのに、子役時代の出来事や、週刊誌に叩かれた過去がまた傷を残すんじゃないかと、不安を抱えているようだった。


しばらく沈黙が続いた後、咲良は息を整えて横顔を見つめる。


「湊くんのそういう顔、久しぶりに見たかも」


やわらかく笑う咲良の瞳は、まっすぐな光を放っていた。

胸の奥で小さな勇気がふつふつと湧き上がる。




再び神田のビルに着くと、入口横の真鍮のプレートが妙に重く見えた。

前回はただ緊張するばかりだったが、今日はこの扉の向こうで、はっきり言葉にすべきものがある。


無意識に深呼吸をする。咲良もその動作を真似るように、そっと肩をすくめて息を吐いた。


ガラス扉を押すと、受付の女性が穏やかな笑みで迎えてくれる。


「望月様ですね。矢野がお待ちしております」


「お願いします」


軽く頷き、咲良とともに応接室へ向かった。


木目調の壁と落ち着いた照明が室内を優しく照らしている。

ソファに腰を下ろすと、隣の咲良と視線が交わった。

彼女は何も言わなかったが、その沈黙が不思議と心強かった。




ドアが静かに開いて、「お待たせしました」と柔らかな声が響く。

矢野がベージュのジャケット姿で入ってきた。


「昨日はありがとう。今日は、どうしましたか?」


落ち着いた声には、相手の心をほぐすような安心感があった。


拳を膝の上で握りしめ、深く息を吸ってからゆっくり立ち上がる。

矢野をまっすぐ見据えて、覚悟を込めて言葉を放った。


「昨日、あの後ずっと考えました。カフェ・アカシアは、ずっと逃げ場だったんです。でも、もうそれじゃダメだと思った。守りたい場所になったんです。だから、どうか力を貸してください」


声は震えていたけど、迷いはなかった。

咲良も立ち上がって隣に並び、二人の視線は矢野にまっすぐ注がれる。

その奥には静かな決意があった。



矢野はしばらく想いを受け止めるように黙ったあと、ゆっくりと口角を上げて頷いた。


「そう言えるなら、もう大丈夫ね。今度は、私が守る番ね」



その短い言葉が、胸の奥に深く染み込んでいく。

弁護士としての冷静さと、人としての温かさが一つに溶け合った瞬間だった。


唇を噛みしめ、深く頭を下げる。



「ありがとうございます」



その声には、これまで抱えてきた後悔と、新たな想いがにじんでいた。


矢野が静かに頷くと、応接室に一瞬だけ静寂が広がった。



ソファに腰を下ろし、隣の咲良へと視線を向ける。

咲良は軽く息を整えて、横顔をまっすぐに見つめながら、少しだけ身を乗り出した。



「湊くんが言ったこと、私も同じ気持ちだから。カフェは、私にとっても帰る場所だし、大切なものだから」



その言葉に、思わず彼女を見つめる。

その瞳は潤んでいたけど、決して弱々しくはなかった。


矢野は二人の様子を見て、柔らかく微笑んだ。



「では、早速ですが次の段取りを考えましょう。真理恵さんがどう出てくるか分からない。こちらも準備が必要です」



その瞬間、心の中で何かが決定的に切り替わるのを感じた。


逃げるためじゃない。戦うために、ここへ来たんだ――そうはっきりと実感した。



   *



夕方の柔らかな光がブラインドを透かして差し込み、応接室がオレンジ色に染まっていた。

昼間よりも落ち着いた雰囲気の中、書類の白さがほんのり色づいて見える。


ソファに腰を下ろしたまま、無言でその光景を見つめた。

こうして弁護士の前に座り、法的な戦いの話を聞こうとしていることが、まだ少し現実のものとは思えなかった。


矢野は机の上に分厚いファイルを数冊並べた。

その動作には迷いが一切ない。


「補佐の長谷川を紹介するわ。今回の相続問題や契約書の検証は、彼女が中心で動いてくれる」


穏やかな声に呼応するように、短髪で眼鏡をかけた若い女性が軽く会釈をした。


「長谷川です。よろしくお願いします」

少しぎこちなく頭を下げる。

「よろしくお願いします」


長谷川は手元の資料を広げ、落ち着いた口調で説明を始めた。


「真理恵さんは、相続権を盾にして強硬な交渉を進めているようです。現状、カフェ・アカシアの名義や財産目録の整理が完全ではなく、それが相手に付け入る隙を与えています」


眉を寄せながら、その紙面を黙って見つめた。

矢野が補足するように言う。


「彼女は『世間』を味方につけるのが上手い。週刊誌やSNSを利用して、あなたの過去を再び晒しものにする可能性もあるでしょう」


過去、週刊誌の見出しに自分の名前が載ったあの光景が、鮮明に脳裏によみがえる。


『天才子役の転落劇』――あの冷たい活字が突き刺さった感覚が蘇った。

小さく息を吐き、視線を落とす。


矢野は軽く息を整えると、机に並べられた資料の一枚に指先を滑らせた。


「噂や印象で人を追い詰める人たちに、私たちまで惑わされる必要はありません。証拠を積み重ね、法に則って手続きを進める――それが、あなたを確実に守るための唯一の方法です」


その声は落ち着いていたが、言葉には揺るぎない芯が通っていた。


黙ってうなずき、膝の上で両手を強く握りしめる。

咲良の言葉が胸に浮かぶ――「ここは、私にとっても大切な場所だから」。



その想いが、背中をそっと押してくれていた。


「まずは、真理恵さん側が用意する可能性のある資料を洗い出しましょう。こちらでも同時に証拠を整理し、抜け落ちている部分を固める必要があります」


長谷川がタブレットを操作すると、画面に関連データが映し出された。


矢野はその画面を指し示しながら、淡々と続ける。


「カフェの営業許可証や名義変更の履歴、過去の契約書類……不備が残っている箇所があります。あなたのお祖母様が残した書類を、改めて一通り確認させてください」


短く息を吐き、わずかに震える声で応じた。


「分かりました。家にあるものは全部持ってきます」


その声の奥には、かすかな迷いを振り払う決意が宿っていた。


矢野は静かにうなずき、温かみのある口調で言葉を添える。


「大丈夫。あなたはもう一人じゃないわ」


その一言が、胸の奥をじんわりと温めた。


打ち合わせが進むにつれて、次第に口を閉ざし、耳を澄ませることに集中していく。


矢野と長谷川が交わす法律用語や手続きの話は難解で、理解が追いつかない部分もあったが、それでも一語一句を逃さないようにと必死に聞き入った。


その一方で、心の奥底では別の感情が波紋のように広がっていた。


――本当にこの戦いに耐えられるのか。

そんな不安が顔をのぞかせると同時に、

「もう後戻りはできない」という確信が静かに重みを増していく。


矢野は視線を上げ、真剣な眼差しでこちらを見た。


「あなたを傷つけたのは言葉でしょう? だからこそ、今度は言葉で守ります。私たちは法を武器に、真実を証明してみせます」


その言葉に、背筋が自然と伸びる。


週刊誌の冷たい見出し、SNSに並んだ悪意のコメント――


それらが心の奥にこびりついた傷としてよみがえる。


けれど今、矢野の言葉はその痛みに静かに寄り添い、もう一度立ち上がる勇気を与えてくれているようだった。

深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。

そして、決意を示すように口元を引き結んだ。

戦う覚悟が、確かな光となって瞳の奥に宿り始めていた。


  *


神田からの帰り道、俺たちを乗せた電車がゆっくりと西秩能の駅に到着した。



夜のホームには人影が少なくて、吹き抜ける風が一日分の疲れを運んでくるようだった。

俺と咲良は無言のまま改札を抜けて、並んで歩き始めた。


矢野の事務所で聞いた現実的な戦いの話--相続、契約、証拠の収集--その一つ一つが、まだ頭の奥で重く響いている。

でも、もう迷いはなかった。


カフェ・アカシアの前に着いたとき、夜の商店街はほとんどの店がシャッターを下ろしていて、ここだけが暗闇の中にひっそりと佇んでいた。


立ち止まって、看板を見上げる。


かつて祖母が何度も磨いていた木製の看板が、街灯の淡い光を受けて温かく浮かび上がっていた。


「ここで、戦おう」


小さく呟くと、咲良は隣で俺の横顔を見つめて、柔らかく微笑んだ。


「うん。湊くんの場所だし、私の場所でもあるから」


その言葉が、冷えた夜気の中で心強く響いた。


軽く息を吐いて、看板に視線を戻す。


「ここは、俺たちの場所だ。必ず守ってみせる」


咲良は何も言わずに、ただ静かに頷いた。


『もう逃げない』--その言葉が、頭の中で何度も反芻される。


風が商店街を通り抜けて、遠くで電車の走る音がかすかに聞こえた。

その音を背に、俺たちはしばらく立ち尽くして、同じ方向を見つめていた。






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