36話-過去を晒す、それはまた燃えること
区役所の窓口は、平日だというのに人の出入りが絶えなかった。
番号札を手に、硬いプラスチック椅子に腰かけて順番を待っていた。
足元の床はワックスがけされ、白い蛍光灯が無機質に光を返している。
膝の上には、封筒に入れた祖母の遺言書と身分証の束。
これで、相続のことは片付くはず。そう思いながらも、心の奥で不安がくすぶっていた。
役所の手続きなんて慣れてないし、何か不備があったらどうしよう。
番号が呼ばれ立ち上がり、窓口のカウンターに立ち、封筒を差し出した。
「祖母、望月澄江の相続手続きで来ました。
これが……祖母の自筆証書遺言です」
職員は事務的な笑顔でそれを受け取り、数枚の紙を確認しながら答えた。
「こちらでお預かりは可能ですが、遺言書の効力については当課では判断できません。正式には、家庭裁判所で"検認"の手続きが必要です」
「検認……?」
俺は聞き慣れない言葉を繰り返した。でも、署名と印鑑があるんだ。これで大丈夫なはず……。
その時、背後からヒールの音が響いた。
「やっぱり、ここにいたのね」
振り返ると、真理恵が立っていた。濃いグレーのスーツに赤い口紅。
その視線は氷のように冷たかった。
嫌な予感が胸を駆け抜ける。
なんで真理恵がここに?
「母が本当にこんな書類を残したの? あなたが勝手に作ったんじゃない?」
俺はきゅっと封筒を握り直す。
「違います。ばあちゃんが最後まで自分で書いたものです」
真理恵は鼻で笑った。
「へえ。でも、こういうものは裁判で簡単にひっくり返されるのよ。母の財産については調停で決めましょう。私も正式に申し立てるわ」
職員が一瞬、困った顔で俺たちを見比べる。俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、言葉を失っていた。
やっぱりこうなるのか。真理恵が素直に引き下がるわけないよな……。
真理恵はさらに一歩、俺に詰め寄る。
「それに湊、あなたに経営なんて務まるの?
精神的に不安定だった時期があったんじゃない? 社会経験もほとんどないし、一般社会でやっていくには危うい人物だと思われても仕方ないわ」
背筋が凍る。
さらに真理恵は、声を低くしてささやく。
「昔の写真や記事を探せば、あなたのことなんていくらでも世間に晒せるのよ」
その言葉に、俺の手が震えた。
やっぱり、あの過去を持ち出すつもりだ。視界がじわりと滲む。
「やめろ……」
絞り出すように呟くと、真理恵は口元を歪め、勝ち誇ったように背を向けた。
俺は窓口で立ち尽くした。手に持った遺言書がこんなにも軽く感じるなんて。
ばあちゃんの想いがこんな簡単に否定されるなんて……。
……だけど、諦めたくない。ばあちゃんが残してくれた想いを、こんな形で終わらせたくない。
でも……どうすればいい。今の俺に、なにができるんだよ。
*
雨が俺の肩を濡らしていく。
アカシアの裏口の階段に座り込んで、もうどのくらい経っただろう。
濡れたアスファルトに映る街灯がゆらゆら揺れている。
市役所での真理恵の声が、まだ耳の奥で響いているんだ。
「過去を掘り返してやる」
あの言葉が、胸の奥で重い石みたいに沈んでいる。
裏口の扉がガチャリと音を立てて開いた。
「湊くん……こんなとこで何してんの?」
咲良が立っている。傘なんて持ってない。
抱えたスケッチブックが雨でぐしょぐしょになってるじゃないか。
髪から滴る雫が頬を伝って、それでも彼女は気にもしていないみたいだ。
「咲良……」
声がかすれた。情けない。
咲良は俺の隣に腰を下ろす。階段の冷たさが尻に伝わってくる。
「市役所で何かあったんでしょ」
優しいけど、まっすぐな問いかけ。咲良はいつもそうだ。回りくどい探りなんて入れない。
「……俺の、昔のこと」
吐き出すように言葉を絞り出す。
「もし知られたら……お前、どう思う?」
雨音が俺の小さな声を呑み込みそうになる。
咲良は一瞬だけ俺の横顔を見てから、肩をすくめた。
「私はね、湊くんが昔どんな人だったかなんて、正直どうでもいいよ」
「……え?」
予想外の答えに、俺は彼女を見つめる。
「今ここにいる湊くんを見てるから。
厨房で新しいナポリタン作ってるときの真剣な顔とか、お客さんに笑いかけるときの優しい声とか。そういうのが、今の湊くんでしょ」
胸の奥で何かがほころびそうになる。ずっと隠し続けてきた過去を、こんな風に受け止めてくれる人がいるなんて。
咲良はスケッチブックを開く。雨に濡れたページに、淡い鉛筆の線で描かれているのは--
「これ、さっき描いたんだ。今日の"今"のアカシア。湊くんもその一部だよ」
雨に濡れる裏口の風景。
そこには確かに、俺がいる。
「……過去を含めて、今を見てるってこと?」
「そうだよ。過去も湊くんの一部でしょ? それを嫌いになる理由なんてない」
咲良は微笑んで、濡れた前髪を指で払う。その仕草が、妙に胸に響いた。
「ありがとう」
雨の中で呟く小さな声だったけど、咲良には届いたみたいだ。雨音に紛れながらも、確かに。
*
翌朝。
雨上がりの通りは、まだ薄っすらと濡れていて、アスファルトが朝日をぼんやり反射している。
アカシアの前でホウキを握り、昨夜の雨で散らかった落ち葉を黙々と掃いていた。
真理恵の冷たい声が、まだ頭の奥でエコーみたいに響いてる。
「過去を掘り返してやる」
あの言葉を思い出すと、手に力が入る。
でも咲良の「今の湊くんを見てる」って言葉を思い返すと、少しだけ呼吸が楽になった。
そのとき、足音が通りに響く。
顔を上げると、一人の女性がこっちを見て立っていた。
淡いグレーのスーツ。黒髪は肩で綺麗に切りそろえられてて、細縁の眼鏡の奥の瞳は静か。
でも、なんだろう。
初対面のはずなのに、妙に存在感がある。
「望月湊さん……ですよね?」
落ち着いた声。朝の静けさに柔らかく響いた。
ホウキを止めて、少し身構える。
「……そうですけど、どちら様ですか?」
女性は胸ポケットから名刺入れを取り出す。その動作が滑らかで、慣れてる感じ。無駄がない。
「昔、あなたが出ていた番組を観たことがあって……もし困っていることがあれば、力になれるかもしれません」
そう言って、名刺を差し出した。
視線を落とし、その印字を見る。
**「弁護士 矢野明日香」**
弁護士。その文字が胸にズシンと響いた。
「弁護士……ですか?」
戸惑いが声に滲む。なんで弁護士が俺のところに?
矢野さんは微笑みを崩さず、軽く一礼した。
「何かあれば、遠慮なくご連絡ください」
その目は、まるで昔から俺を知ってるみたいな、優しさと確信が混ざった視線だった。
店のガラス越しに、咲良がこっちを見ていた。
普段見せない硬い表情をしてるのが、なんとなく気になるみたいだ。
(この女性、湊くんと並んでるだけで周囲の空気を変えるような雰囲気を纏ってる...)
咲良は手に持っていた布巾を強く握りしめて、無意識に息を止めた。
女性は一礼して、静かに歩き去っていく。
俺は名刺をじっと見つめたまま、追いかけることも声をかけることもできなかった。
咲良はガラス越にその背中を見送りながら、胸の奥に言葉にできないざわめきを感じていた。
*
アカシアの照明は、カウンター奥のスタンドライトひとつだけが灯っている。
閉店後の静まり返った店内には、昼間のざわめきが嘘みたいに消えて、時計の針が刻む乾いた音だけが響いてた。
カウンター席に座って、ノートPCの画面を見つめた。
YouTubeの非公開フォルダに眠ってる、十数年前の俺--小学生の頃、天才子役なんて呼ばれてた頃のインタビュー動画。カメラの前で、ぎこちない笑顔を浮かべながら、「僕、将来は世界で通用する俳優になりたいんだ」って語る少年。
その声は高くて震えてて、どこか無理に張り詰めたようだった。
あぁ、これ、俺か。
目の前の映像は紛れもない俺なのに、どこか別人みたいに感じる。
当時はただ、求められる言葉を必死に探して、マネージャーやスタッフの顔色をうかがいながら答えてた。
その記憶が、胸の奥をじわじわと締めつけてくる。
「……よく、やってたな」
呟きが、静寂に吸い込まれていく。
これまで、この動画を見返すと「かわいそう」「もう見たくない」って感情しか湧かなかった。
でも今、画面の中の俺は「必死に言葉を探す子ども」で、「それでも前を向こうとしてた子ども」だった。
無理やり笑ってるように見えても、その奥にあった小さな勇気を、初めて素直に肯定できた。
でも、同時に恐怖も蘇ってくる。
再び、この映像がSNSに流れて、誰かの嘲笑や憶測にまみれる未来が来るんじゃないか。
たとえ事実を語ったとしても、それを切り取って、消費する人間はいくらでもいる。
「また燃やされるかもしれない」
その恐怖は、いつまでも背中にへばりついて離れない。
両手で顔を覆って、深く息を吐いた。
カウンター越しに置かれた祖母の古いレシピ帳が目に入る。
黄ばんだページの端には、祖母の丸い字で「"誰かのため"に作ること」って書かれてた。
料理も、言葉も、きっと同じなんだろう。
「誰かのために語る」--それができれば、炎上も、憶測も、怖くないのかもしれない。
でも、まだその一歩を踏み出せなかった。
ノートPCの画面を閉じると、店内は再び深い静寂に包まれる。
外では春の雨がぽつりぽつりと降り始めてる。
カウンターに肘をついて、目を閉じた。
胸の奥で、なにかが微かに形を取り始めている。
それが決意なのか、諦めなのか?
--まだ、自分でも分からないまま。
*
翌日の午後。
机の上に置かれた名刺をじっと見つめてた。
**「弁護士 矢野明日香」**
昨日、カフェの前で突然現れた彼女の名前が頭から離れない。
あの時の真っ直ぐな視線と落ち着いた声が、胸の奥に小さな波紋を残したままだった。
本当に、行く価値があるのか?
迷いはあった。
でも昨夜、地下金庫で見た過去の俺--怯えた表情の子役時代の映像が、まだ心に引っかかってる。
このまま逃げ続ければ、真理恵の言いなりになって、咲良の描いたスケッチも守れない。
「……行くしかないか」
俺はコートを羽織って、店の鍵をかけた。営業を再開できる状況じゃない。
今は誰もいないアカシアの店内に、心の中で一言だけ詫びる。
西秩能駅からローカル線に乗って、池袋で山手線に乗り換える。
休日明けの車内は思いのほか混んでて、窓際に立ちながら、ポケットに入れた名刺を指先でなぞった。
「矢野明日香……」
その名前を呟くだけで、昨日の彼女の瞳が鮮やかに浮かぶ。
人を見透かすようでいて、決して攻撃的じゃない、あの不思議な眼差し。
あの人なら、何かを変えてくれるかもしれない。
そんな考えが芽生えること自体、俺には久しくなかった。
電車は秋葉原を過ぎて、神田駅に滑り込む。
ホームに降りると、湿ったビル風が頬を撫でた。
スマートフォンで住所を確認しながら歩いて、落ち着いた外観のオフィスビルの前に立つ。
「……ここか」
入口のプレートには「矢野法律事務所」って刻まれてた。俺は息を整えて、ガラス扉を押し開けた。
受付の女性が顔を上げる。
「ご予約はございますか?」
「昨日、矢野さんに名刺をいただいて……望月湊といいます」
名刺を見せると、女性はすぐに奥へ取り次いだ。
「矢野がお会いできますので、どうぞこちらへ」
案内されて、俺は応接室のドアの前で深呼吸した。
ノックの後、「どうぞ」って声が返る。
「お待たせしました、望月湊さん」
立ち上がった矢野明日香は、昨日よりも落ち着いた装いをしてた。
淡いグレーのジャケットにシンプルなネックレス。
でも第一印象と同じく、視線の奥には揺るがぬ芯の強さがある。
「遠いところをありがとうございます。お掛けください」
軽く会釈して、ソファに腰を下ろした。
事務員が紅茶を置いて下がると、矢野さんは言葉を選ぶように話し始めた。
「昨日は突然失礼しました。でも、あなたを見て、少しでも力になりたいと思ったんです」
視線を下げて、ポケットから名刺を取り出す。
「……正直、こういう場所は慣れてません。それに、俺のことなんて、なぜ知ってるんですか?」
矢野さんは小さく微笑む。
「昔から、あなたの名前は記憶にありました。子役時代の姿も覚えています」
そう言われて、背筋が無意識に強張る。
「……あの世界のことは、もう思い出したくないんです」
声が低く、重くなった。
「叔母は昔、俺を都合よく利用した。あの時、TVや週刊誌で叩かれたみたいに、また全部壊される気がするんです」
矢野さんは俺の言葉にすぐには返答しなかった。
紅茶のカップに口をつけて、数秒の沈黙を置いた後、静かに言った。
「放置すれば、彼女はますます強気に出ます。でも、あなたが一人で抱える必要はない。私はあなたの盾になることができます」
視線を合わせて、試すように尋ねた。
「……どうして、そこまで?」
矢野さんは短く息を吐いて、俺を真っ直ぐに見た。
「私は、あなたに借りがあるの」
淡々とした一言が、部屋の空気を震わせた。俺は眉を寄せる。
「借り……?」
矢野さんは少しだけ目を伏せて、それから柔らかく言葉を続けた。
「理由はさておき、私はあなたの力になりたいだけです」
喉の奥に言葉が詰まるのを感じた。
矢野さんの瞳には、作り物めいたものが一切ない。ただそこに、静かな意志と誠実さが宿ってた。
矢野さんは軽く姿勢を正して、俺を見据えた。
「真理恵さんの件、放置すればいずれ法的な争いになるでしょう。でも、あなたが一人で戦う必要はないわ」
返す言葉を探したけど、何も出てこなかった。視線を落とすと、咲良の悔しげな表情が脳裏に浮かぶ。
このままじゃ、誰も守れない。
小さく息を吐いて、呟くように言った。
「……少し考えさせてください」
矢野さんは微笑を浮かべた。
「判断は早いに越したことはないわ。でも、今すぐ答えを出せとは言わない。決めるときが来たら、私に任せて」
小さく頷いて、名刺を胸ポケットに戻した。
今はまだ決意を言葉にできないけど、胸の奥で何かがわずかに動き始めてた。




