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ナポリタンでは終われない  作者: yuuma
第八章:灯が消えた家

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31話-遺された部屋と知らなかった夢

挿絵(By みてみん)


静かな午後。咲良と「カフェ・アカシア」の営業を終えて、店の裏にある階段を上がった。

祖母が暮らしていた二階の居住スペース。もう誰も住んでいない、時間だけが止まったような場所だ。


古い木の床が足音に合わせてミシミシと鳴る。小さな窓から差し込む西陽が埃を金色に染めていた。


「今日で一通り片付け終わらせたいな」


つぶやくと、咲良が静かにうなずいた。

「うん。段ボール、あと三箱くらいかな」


床に積まれた空の段ボール箱。

使いかけのガムテープが転がって、既に封をした箱には「衣類」「書籍」「雑貨」なんて黒マジックで書いてある。


二人は黙々と作業を進めていた。

咲良は箪笥の引き出しを丁寧に開けて、古いセーターや手編みのマフラーを畳んでいく。

廊下を行ったり来たりしながら、重い荷物を運んでいた。


そんなとき、廊下の突き当たりにある扉に気がついた。

昼休み中の整理では手をつけなかった場所。

埃をかぶったまま、まるで存在を忘れられたような扉がひとつ。


「これ、開かないな」


取っ手に手をかけると、古い鍵がかかっている。


「そこって物置じゃないの?」咲良が振り返った。

「でも鍵が……」


ガチャリ。意外にも、鍵は簡単に回った。扉がきしみながら、ゆっくりと開く。


中は薄暗くて、小さなすりガラスの窓がひとつだけ。かび臭い空気が鼻を突く。

四畳半くらいの部屋は、まるで時間から取り残されたみたいに、手つかずのまま残されていた。


「何の部屋だろう?」


電気の紐を引くと、裸電球がぼんやりと灯る。

光が照らしたのは、化粧台、古い木製の本棚、そして壁際に積まれた段ボールの山だった。


咲良が一箱を開けて、中を覗き込む。


「これ……」


詰まっていたのは、大量の紙資料やファイル、そして何冊かのノート。


表紙には「オーディション履歴」「役作りノート」「演技練習スケジュール」なんて走り書きしてある。

「演劇?台本……?」


そのうちの一冊を手に取った。ボロボロの台本の表紙には、小劇団の名前と聞き覚えのある役名が印刷されている。


「『月影プロジェクト 第16回公演』……?」

咲良が別のファイルを開いた。中には応募写真が挟まれている。

くっきりしたアイライン、派手な衣装。写っているのは──間違いなく真理恵だった。

「女優志望だったんだ……」

咲良の声がぽつりと漏れる。

写真をじっと見つめた。今、自分の人生を再び脅かそうとしているあいつ。

過去に自分の未来を一度奪ったあの女が、こんな夢を見ていたなんて。


「知らなかった……こんな部屋があったなんて」

まるで、閉じ込められた夢の残骸みたいだった。

胸に、妙な違和感が残る。


部屋の空気が、だんだん重くなってくるのを感じた。

古い段ボールの中身は、埃まみれのスケジュール帳、劇団のパンフレット、落選通知。

どれもこれも、真理恵という女の「過去の夢」の死骸だった。


「これ……殆どオーディションの不合格通知じゃん」


咲良が眉をしかめながら封筒を差し出す。薄い紙には、印刷された文言と手書きの短い「今回はご縁がなく…」という文面。


「何十通もある……どれだけ受けてたんだろう」

それらを眺めながら、胸の奥に冷たいものを感じていた。

若い頃の真理恵は、必死だったのかもしれない。

でも、その必死さが報われなかった年月が、ここにひしひしと積み重なっている。


「こっちも……」


咲良が別の資料を取り出した。そこには自分の名前が載っている。

マネージャーとして真理恵の名前も記され、子役時代の写真、番組名、雑誌の表紙──懐かしいものが次々と並んでいた。


「俺の資料か」


思わず手に取った。あの頃、笑顔を貼りつけていた頃。

どれもこれも、自分の意思じゃなく"やらされていた"ものばかり。

でも、資料に残る写真の中の自分は、やけに生き生きとして見える。


「最初のうちは、ちゃんと管理してたんだな……」

つぶやくと、咲良が小さくうなずいた。でも──。


「……ん?」


数枚めくった先で、ファイルの雰囲気が変わった。スクラップされた記事が、一部破かれている。

自分がCMに出演したときの特集記事は、途中から破り取られて、写真の部分は刃物みたいに裂かれていた。


別の資料では、赤いペンで殴り書きされた文字が、ページの端ににじんでいる。


『……調子に乗るな』

『誰のおかげでここまで来たと思ってる』

『……また失敗させればいい』


咲良が息を呑んだのが分かった。自分も、一瞬その場から動けなくなった。

乾いた紙の表面に残る筆跡は、間違いなく真理恵のものだった。


「これ……まさか……」

咲良の指先が震えている。何も言えず、ゆっくりと別のファイルを開いた。

そこにあったのは、明らかに"日記"だった。

罫線のない紙に、延々と書き連ねられた文字。他人を呪うような言葉が、インクの滲みと共に並んでいる。

『あの子の顔が、ムカつくほど綺麗』

『褒められるたびに、私のことなんて誰も見ない』

『あいつが潰れたら、どんなに楽だろう』

『子どもは残酷。私はいつだって脇役だった』

『お金でも何でもいい。私に従わせてやる』

『裏切るくらい、当然じゃない』

「これって、俺のこと……?」

思わず、声が震えた。咲良も何も言えず、ただ隣で静かに座っている。

「これ……精神、ちょっとヤバくないか……?」

咲良の低い声に、ゆっくりうなずいた。あのとき、突然姿を消したマネージャー。

気づいたら、週刊誌に自分のスキャンダルが載っていた。

 あれは偶然じゃなかったのかもしれない。この部屋に眠っていた記録は、その証拠だった。

「俺……やっぱり利用されてたんだな」

つぶやいた言葉に、自分でも驚いた。どこかで認めたくなかった感情が、目の前の記録で裏打ちされた気がする。

咲良が、手元の写真に目を落とした。

「湊くんが光れば光るほど、自分の影が濃くなるって、思ってたのかもね」

「影?」

「うん。"主役の隣にいる"って、自分の人生を受け入れるの、怖いよ。私は主役じゃないって認めるのって、たぶん、すごく……」

咲良が言葉を止めた。その声が、かすかに震えていた。

「でも、それって……俺が悪いわけじゃないよな……?」

自問に近い問いだった。誰に答えてもらいたいわけでもない。

でも、その問いは心の深い場所からにじみ出た声だった。

沈黙の中、風に揺れたカーテンの音だけが響いた。

そのとき、咲良がそっとつぶやいた。


「こんなもの……残してたって、誰も幸せにならない」

彼女は立ち上がって、日記帳を抱えてゴミ袋の方へ歩みかけ---


「待った!」


声をかけて止めた。


「証拠になる。あいつが、俺に何をしてきたかって」

言葉に宿った感情は、怒りでも憎しみでもなかった。もっと冷たい、深く沈んだ想い──裏切りを知ってしまった者の、確かな絶望だった。

咲良は、横顔を見て、言葉を失った。

---あの人の目が、変わった。いつも、どこか遠くを見ていたその目が、今はしっかりと何かを見据えている。

「俺、逃げてたのかもしれないな。全部、見ないようにして……でも、これは……」

破かれた記事の一枚を指先でなぞった。

「これは、許せない」

その言葉は、空気の中でゆっくりと重く沈んだ。誰もが見ないふりをしていた傷。

それが、今ようやく、露わになった瞬間だった。

咲良は一瞬言葉を失ったが、やがて静かに答えた。

「……見なかったことには、できないね」



倉庫の扉がきしんで閉まった。


薄暗い空間に静寂が戻る。

外の風がドアの隙間から入り込んで、埃を舞い上げる。

錆びた棚に木箱。昭和の匂いに包まれた中で、祖母の帳簿だけが静かに時を刻んでいた。


床に膝をついて、分厚いファイルをめくっていた。古びた紙にボールペンで書かれた文字。

祖母が手書きで記録した取引先のこと、常連客の好みまで、びっしりと綴られている。


ふと振り向くと、真理恵がいた。


「何の用だ」


倉庫の入り口に片手を腰に当てて、挑発的に立っている。

夕日が窓越しに差し込んで、黒いコートが灰色の空に溶け込んでいた。


「見られたくないものでもあるの?」


にやりと笑って、真理恵が歩いてくる。ヒールの音がコンクリートに響いた。

黙って立ち上がる。帳簿を閉じて、棚に戻した。


「ここは関係者以外立ち入り禁止だ」

「へぇ。関係者ね。じゃあ私はもう『外』ってわけ?」


真理恵は棚に並んだアルバムやビデオテープを指でなぞった。


そして急に真理恵が言う。


「あんた、いつもいい子ちゃん面してるけど---地下の映像、全部見た? あの頃の『裏側』も残ってたかもしれないのに。バレたら困るんじゃない、『理想の天才子役くん』にはさ」


背筋が凍った。


「何の話だ」


「とぼけないでよ。あんたの泣き顔も、叫びも、誰かが録音してるかもしれないのに。澄ました顔で厨房に立ってるけど、ほんとは『バレたくない』こと、山ほどあるんでしょ」


こめかみに血が上る。真理恵の声は低くて、胸をえぐるような音色だった。


「ここは……あんたの家じゃない。ばあちゃんの喫茶店だ。俺たちの記憶の場所だよ」


「ええ、そうね。でも『もうとっくに他人の家』よ。あの日からね」


真理恵の瞳が鋭く光る。


「あんたがここにいるのは、偶然でも努力の結果でもない。ただの『なりゆき』でしょ? でも本当は違う。『選ばれた』のは私よ。本来なら私がここにいるべきだった。なのに──気付きもしないで、ずっと居心地よく座ってた。そういう役だったわよね、あんたって」


言葉が喉で詰まる。何を返していいか分からない。

真理恵は帳簿の山から一冊を手に取って、無造作に開いた。

ページをめくりながら、唇の端に薄く笑みを浮かべる。


「どうあれ、ここは法的に私のもの。母の名義はもう私の手にある。感傷なんかで抗えると思わないことね」


指先が震えた。


「あんたがこの店を『金づる』としてしか見てないことくらい、誰だって分かる。祖母の想いなんて---ひとつも受け取ってないじゃないか」


真理恵は肩をすくめて笑った。


「『想い』? 感傷? そんなもんでこの場所が守れるなら、誰も苦労しないのよ。じゃあね、『理想の天才子役くん』」


真理恵が出ていった後、その場に立ち尽くしていた。


帳簿の山、埃の匂い、ひんやりとした空気。夕暮れが窓から差し込む中で、視線を落とす。


自分が何のためにここにいるのか。誰の意思で、今ここに立っているのか。

それが、ぐらりと揺らぎ始めていた。


「この店は法的に私のものよ。母の名義も、相続の権利も、全部私の手にある。感傷なんて紙切れ一枚にもならないわ」


真理恵は口元に笑みを浮かべながら、書類を取り出して見せつけた。紙を見ることなく、彼女の目をまっすぐ見つめる。


「今の、もう一回言ってみろよ」


怒気を含んだ声に、咲良が緊張した顔でこちらを見つめる。


「何度でも言ってやる。法的手続きに入るから。近いうちに専門家が動くわ。感情でゴネても無駄よ。これは『現実』の問題だから──あなたに口を挟む権利なんて最初からないの」


その言葉に、倉庫の隅の木箱を強く握った。

乾いた木肌が手のひらにざらりと食い込み、節だらけの表面がじわりと痛む。

それでも指先に力を込めたまま、真理恵の背中を睨みつけていた。


怒鳴ることも罵ることもせず──ただ、自分の中で何かを必死に繋ぎ止めていた。


「それが……あんたのやり方かよ」


絞り出すような声だった。怒りをぶつけるのは簡単だった。

けれど目の前の女は、それすらも軽く受け流す準備ができている。

そう思うと、唇を噛みしめるしかなかった。


「そうよ。感情で動いてばかりだから、あなたは何も守れなかったのよ」


真理恵の声には勝ち誇った響きがあった。

それでも真理恵の視線を外さず、言葉の代わりに店の出入口を静かに指差した。


「ここは俺の居場所だ。ばあちゃんの想いも、咲良との時間も、全部ここにある。だから──帰れ」


真理恵はしばらく沈黙したままこちらを見つめた。

でもやがて踵を返すと、何も言わずに扉へ向かい、取っ手に手をかける前にこう言い残した。


「好きにすれば。どうせすぐ終わるから」


扉が閉まると同時に、重い沈黙が店内を包み込んだ。

その場に立ち尽くし、しばらく言葉を失った。

迷いが胸に沈んで、扉が閉まった後も重く居座り続けていた。


守らなきゃ、なんて思ってた。ばあちゃんのため、咲良のため──だけど。

口に出そうとした言葉は喉で凍りつき、声にならなかった。

真理恵の残した冷たい響きだけが、頭の奥でこだまし続けていた。


   *



閉店後の「カフェ・アカシア」は、昼間の賑わいが嘘みたいに静まり返っていた。

厨房からは洗い物の水音だけが、時々ぽちゃんと響く。

暖色の照明がゆるやかに店内を照らす中、咲良はカウンターの端に並んだグラスを一つずつ丁寧に拭いていた。


「……やっぱり、真理恵さんが継ぐのかな」


突然、咲良の声がぽつりと落ちた。その語尾には冗談の軽さも、皮肉もなかった。

グラスを拭く手が止まる。


「なんやかんや言っても、実の娘さんだし……血のつながりって、やっぱり強いもんね。なんか、居場所がまた一つ、なくなってく感じがする」


シンクで手を止めた。食器にかかる水の音が止み、代わりに空気が少しだけ重くなる。

咲良の言葉が、背中を貫いた。


彼女の“居場所”──その一言が、まるで自分のことを指してるみたいで、胸の奥がずきんと痛んだ。


「……俺も、同じだよ」


やっと絞り出した声は、まるで自分の影と話してるみたいだった。どこか虚ろで、魂の入ってない響き。


咲良はそれ以上、何も言わなかった。無理に笑うことも、励ますこともしない。

ただ、少しだけ姿勢を崩して、カウンターの奥に腰を掛ける。


「……ほんとは、湊くんが継げたらって、思ってた」




照れも、期待も、押し付けがましさもない声だった。

ただ事実だけを告げるように、それだけを言った。


視線を下げたまま、黙って皿を拭く。

小さな皿を布で撫でるように、ゆっくりと、同じ場所を何度も擦る。

その動きに、答えを言葉にする代わりのような迷いが滲んでいた。


「……俺は、最初から留学前の一時しのぎのつもりだったんだ」


小さく息をつきながら、皿を洗う手を止めずに続けた。


「そう思って始めたのに……店が人気になっていくうちに、まるで自分が継ぐんだって錯覚してただけなんだ」


スポンジを握る指先に、わずかに力がこもる。


「続けるほどに、ばあちゃんの痕跡が強くなって……俺には、それを受け継ぐ資格も、覚悟もない気がしてさ」


濡れた皿を伏せたまま、かすかに首を振った。


「俺は……ここに居させてもらってただけなんだよ。居場所だと思い込みたかっただけで、本当は違ったんじゃないかって、最近……思うんだ」


まるで諦めみたいに。まるで自分を納得させようとするかのように、声はかすれていた。

咲良の視線が横顔に刺さる。強がりでも、意地でもない、“弱さ”を真正面から見られている──そんな気がした。


きっと咲良も、どこにも本当の居場所を持てず、誰かの期待や立場の中で揺れながら、それでも必死に立ってきたんだろう。

だからこそ、弱さを、逃げずに受け止めてくれているように思えた。


「……ねえ、湊くん。もし、全部やめたくなったら、ちゃんと“逃げて”ね」


急に、咲良が言った。


「本当に無理なときは、自分を守る方を選んでいいと思う。私、そういうの、ちゃんとできなかったから。ずっと我慢して、自分がいなくても平気なフリして……結局、何も残せなかった」


その言葉に驚いたように目を上げた。咲良が、こんなふうに自分のことを語るのは珍しかった。


「……咲良こそ、どうするの?」


やっと聞くと、咲良は少し黙って、笑わずに言った。


「……わかんない。でも、ここがなくなったら……きっと、すごく寂しい」


グラスを拭いていた手が止まる。ぴたりと止まり、静けさの中に、冷たい夜気みたいな沈黙が広がった。


やがて、厨房の奥から風が吹き抜けたように、小さな音が鳴った。外では、枯葉が一枚、店の前のタイルをすべる音がした。


二人の間にあったはずの、確かな温度。あれは今、どこにあるんだろう。

すぐ隣にいても、手が届かない場所に置き去りにされたまま、そっと色を失っていく。


居場所が失われる不安は、ただ誰かのせいじゃなく。

選べない自分自身への怒りであり、悲しみであり、絶望だった。


言葉が、もうこれ以上見つからない。


「……片付け、終わったら、先に上がっていいよ」


かすかに響いた声。咲良は黙ってうなずき、グラスをそっと棚に戻した。

この夜、二人は言葉を交わすことなく、それぞれの“孤独”だけを抱えて、灯りの消えたカウンターに背を向けた。


2階の部屋に上がると、障子の向こうは静まり返っていた。


畳の上に正座し、祖母の位牌の前に手を合わせる。

その隣に置かれた遺影──いつものエプロン姿で微笑む祖母を見つめながら、ぽつりと声を漏らした。


「ばあちゃんは……最後に言ってくれたけど……俺、本当に継げるのかな」


返事はない。


その代わりに、部屋の蛍光灯が一瞬だけ明滅した。気まぐれな電圧なのか、あるいは何かの返事なのか──わからなかった。

うつむいたまま、こぼれるようにつぶやく。


「俺は……何一つ守れない。何一つ……」


肩が小刻みに震えた。けれど涙は出なかった。泣くには、もう疲れすぎていたのかもしれない。


ただ、そこに座り込んだまま、遺影をじっと見つめ続けた。


耳に届くのは時計の針の音だけ。

まるで世界から切り離されたみたいな静寂の中、立ち向かえない自分という事実と向き合っていた。


夜の気配はますます濃く、重く、静かに部屋を包み込んでいった。





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