21話-広がる波紋と勘違いの始まり
午後三時を回った。カフェ・アカシアの厨房で、俺は一人立ちつくしていた。
さっきまでランチタイムの慌ただしい音で溢れていた空間が、今は嘘みたいに静まり返っている。コーヒーの香りと、微かに残る焼きそばの匂い。木の床がぎしりと音を立てる度に、祖母がここで過ごした時間を思い出す。
コンロの前で、俺は何度目かのナポリタンと向き合っていた。
「今度こそ......」
小さくつぶやいて、フライパンを火にかける。トマトの酸味と甘味のバランス──これまでに何回調整しただろう。焦げ目をつけすぎないよう中火をキープ。ピーマンの切り方も変えてみた。
今まで散々やってきたのは、素材にこだわって、手間をかけて、「すげー料理」を作ることだった。でも、それって本当に必要だったのか?
今回は違う。余計な味を重ねるのはやめた。むしろ一歩引いて、シンプルに向き合った。祖母の手書きレシピをもう一度じっくり読み返して、自分の舌と心の記憶に素直に問いかけてみた。
そして最後の仕上げ──ケチャップをあえて焦がして、麺の上に焦がしチェダーチーズをのせる。パンチのあるチェダーに香ばしさが加わって、懐かしい味にちょっとだけ新しさをプラスする。控えめだけど、これが俺なりの工夫だ。
「よし......」
深く息を吸って、皿に盛り付ける。飾り気のない、素朴な見た目。でも、その真ん中には俺の本気が詰まってる。
「......いい匂い。これは新作?」
振り返ると、咲良が厨房の入り口に立っていた。ホールの片付けが終わったから様子を見に来たんだろう。スケッチブックを脇に抱えて、エプロン姿で微笑んでいる。
「うん。もう一度、一から作り直したんだ。......ちょっと、味見してくれる?」
「もちろん!」
咲良の即答に、俺は少しホッとした。キッチンテーブルにナポリタンを置いて、フォークを差し出す。
咲良はフォークで麺をくるくる巻いて、目を細めた。
「......あ、これ。なんか、懐かしい感じがする」
一口。ゆっくり噛む咲良の表情が、みるみる柔らかくなっていく。驚いたような、でも嬉しそうな顔。俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「うん......今度のは、"素直な味"だね」
咲良がぽつりと言った瞬間、俺の胸の奥で何かが響いた。まるで静かな水面に石を落としたみたいに、波紋がどこまでも広がっていく。
「......素直な味?」
問い返すと、咲良はゆっくり頷いた。
フォークを置いて、少し考えるような間を置いてから続ける。
「今回のはね、"届けよう"としてる味なの。構えてなくて、まっすぐで......すごく安心できる。たぶん、そういうのって、お客さんにもちゃんと伝わると思う」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸がじわーっと熱くなった。
そうか......今まで俺がやってたのは、祖母の味に寄り添うことじゃなくて、"新しさ"ばかり追いかけることだったんだ。話題になるように、個性を出そうとして、必要以上に手を加えて、変な味にしちゃってた。料理に心を込めてるフリして、実は何かをごまかそうとしてたのかもしれない。
でも今、ようやくそれを手放せた気がする。料理という表現で、初めて"等身大の俺"を出せたんだ。
「ありがとう、咲良」
自然に出た感謝の言葉。咲良は少し驚いたように瞬きしたけど、すぐに笑って言った。
「それ、演技じゃないよね?」
俺は一瞬「え?」ってなったけど、すぐに笑った。作り笑顔じゃない、力の抜けた自然な笑顔だった。
「うん、多分。今のは、俺の味だ」
咲良は満足そうに頷いて、もう一口ナポリタンを食べた。
その瞬間、厨房の空気がパッと変わった気がした。さっきまでピリピリしてた空間に、暖かい光が差し込んだみたいな感じ。木の匂いと、コーヒーの香りと、そして完成したナポリタンの匂いが混じり合って、なんだかとても心地よい。
俺の心の中で、もうひとつ確信が生まれた。
守ることと届けることは、全然違うんだ。
本当に伝えたいことは、飾らなくても、ちゃんと届く。
だからもう迷わない。
このナポリタンを、新しい看板メニューにしよう---そう思えた瞬間だった。
*
閉店後のカフェ・アカシア。さっきまでの取材の騒がしさが嘘みたいに静まり返っている。
窓の外では細い春雨がしとしと降ってて、街灯に照らされた水滴がガラスをつたってゆっくり流れてる。店内は誰もいなくて、客席の椅子は全部テーブルの上に伏せられてる。掃除機をかけたばかりの床からは、香ばしい木の匂いがほんのり漂ってきた。
カウンターの内側で、一日の営業を終えた後の片付けをしていた。温かいお湯の中に手を突っ込んで、皿のぬめりを落とす。でも、手の動きにはどこか迷いがあった。頭の中は、あの取材の時間にずっと引きずられてる。
背後の棚で、軽くカタンと音がした。振り返ると、咲良が帳簿を閉じて、棚の上にあるスケッチブックをそっと戻してるところだった。疲れたように肩を落として、でも何か言いたげな感じで背中を見つめてる。
「……ねぇ、湊君。今日の取材、どうだった?」
声をかけられて、ゆっくり振り返る。咲良は帳簿の横に腕を組んで立ってた。さっきまでチェックしてた明日の仕込みリストの赤ペンを、無意識にキャップでコツコツとテーブルに打ちつけてる。
その問いに、手を止めた。水の流れる音が途切れて、店内に一瞬の静寂が落ちる。
「うん、正直、気持ちよくはなかった。何年経っても、やっぱり“元天才子役”って肩書きが先に来るんだなって、改めて思い知らされたよ」
「……でも、インタビューでは笑ってた。慣れてるなって、思った」
「慣れてるさ。子どもの頃はずっと、カメラの前では“正解の顔”をしてきたからね。でも……」
言いかけて、手元の布巾をぎゅっと握りしめた。
「でも今回は、違う意味で自分に腹が立った。“元天才子役”ってラベルを貼られても、反論しなかった。……咲良には、そんな風に見えた?」
咲良は静かにうなずいた後、そっと声を落とした。
「……あたし、湊君の“今”をちゃんと見てるつもりだった。でも今日、カメラ越しに映ってたあなたは、やっぱり“演じてる”ように見えた」
ぐっと息を呑んだ。その言葉は、心の奥底をズバリ突いた。自分でも気づかないうちに、まだ“台本”に縛られてるんじゃないか。咲良のまっすぐな眼差しは、それを完全に暴き出してた。
「語らなくても、わかってもらえる気がするんだ。……ずっとそう思ってた。でも、それって……」
「ううん、違う。“言葉にしない優しさ”が、いちばん人を孤独にすることもあるよ」
咲良の一言が、静かに落ちた。膝の上で指を組み直した。
「そうだね……。逃げてたんだ、きっと。過去を語らないことで、自分を守ってた」
沈黙が流れる。その中で、そっとカウンターを出て、テーブル席のひとつに腰を下ろした。咲良も黙って、正面に座る。
外では雨音が強くなって、窓に打ちつける粒が、まるで心臓の鼓動みたいに響いてた。
「でも、もう逃げない。“元天才子役”がどうとか、もうどうでもいい。今、自分がやる事は、この店を守ることだ。だったら、過去を手段に変えてでも---やるよ。必要なら、何だってやる。カメラの前でも、演じるでもなく、ちゃんと自分として、やってみる」
咲良は驚いたように顔を上げた。その目に、少しだけ光が戻ってた。
「……それ、今のあんたの“素”だね」
小さく笑った。もう、“台本”は破り捨てたんだ。
席を立って、静かにカウンターに戻ると、棚の上に目をやった。そこには、祖母が使ってた古い手帳が横たわってる。中には、店のこと、街のこと、お客さん一人ひとりのことが細かく記されてるんだ。
「自分のためじゃなく、誰かのために動く。それが、この店の“根っこ”なんだ」──祖母が入院前にぽつりとこぼしたその言葉が、今さらながら胸に沁みる。
その手帳をそっと取って、ページを開いた。細かな文字の中に、過去の出来事と共に、祖母の口癖みたいな優しい言葉が並んでた。「どんなに小さな仕事でも、そこに誰かの顔が浮かぶなら、それはきっと価値がある」
「演じるのは、もうやめた」と思ったその瞬間、胸にはある言葉が浮かんだ。
「過去は消せなくても、未来の意味を変えることはできる」
咲良が小さく呟く。
「それ、いい言葉だね」
「うん。……自分自身に言ってるんだと思う」
咲良との間に流れる空気が、どこか柔らかく変わっていく。静けさの中で、雨の音がいつしか子守歌みたいに優しく響いてた。
その夜、初めて「語ること」への恐れを少しだけ手放した気がした。




