2話:祖母と秩父羊羹
日が落ちて、街灯がポツポツと灯り始めた頃、俺は駅から歩いて十分くらいの場所にある祖母の店「カフェ・アカシア」に向かった。
木造二階建ての店舗は、バリバリ昭和レトロな雰囲気。入り口の引き戸にはくもりガラスがはめ込まれてて、手書きの「本日も営業中」の札がゆらゆら揺れてる。店先の赤いテントは年季が入って色褪せちゃってるけど、通りを抜ける風に小さく波打ってる様子がなんか味がある。ガラス越しに漏れる暖かい光が、時間の流れをスローモーションにしちゃうような、めちゃくちゃ落ち着く雰囲気だった。
ドアを開けると、「カラン♪」ってベルが澄んだ音を響かせた。
店内にはダークブラウンの木目家具がズラリと並んでて、壁には色あせたジャズのポスターと古びた柱時計がペタッと貼られてる。カウンター席の奥では、丸っこい照明がふんわりした光を落として、空間全体にコーヒーのいい香りが溶け込んでた。
「湊かい?」
奥から声がして、ばあちゃんの澄江がゆっくりと姿を現した。
「……大きくなったねぇ」
俺は思わず口元がニヤけるのを止められなかった。久しぶりに会ったばあちゃんの顔には、確実に年月のシワが増えてたけど、その瞳の温もりは昔とまったく変わらない。
「お腹、空いてないかい?」
「うん、まぁ……ちょっとだけ」
「なら、ナポリタンでも作ろうかね。……その前に、これでもパクパクつまんでな」
澄江ばあちゃんは微笑みながら、小ぶりな陶器の皿に秩父羊羹をちょこんと載せてカウンター越しに差し出した。
濃い茶色をした四角い羊羹は、表面がつるりと光って、まるで小さな宝石みたいだ。秩父の老舗菓子店が作る伝統の味で、北海道産の上質な小豆をじっくり煮詰めて作られてる。砂糖の甘さだけじゃなくて、小豆本来の深いコクと香りが地域自慢の逸品なんだ。
「今日は暑かったろ?甘いもんでひと息つきな。あんた、昔これが大好きだったよねぇ」
とっさに目をパチクリさせた。「これ……超懐かしい」
「ふふ、覚えてるかい。あんたが小さい頃、この味にハマってたんだよ。これはね、思い出をかみしめる味なんだよ」
黙って一口、羊羹をパクリ。
瞬間、口の中に広がったのは--うわ、これヤバい。
まず舌に触れた瞬間のしっとり感が最高だ。歯を入れると、ぷるんと弾力があるのに、すぐにほろりと崩れる絶妙な食感。そして押し寄せる小豆の深〜い味わい。ただ甘いだけじゃなくて、小豆を炊き込んだ時の香ばしさと、ちょっぴりほろ苦い大人の風味が口全体に染み渡っていく。
砂糖の甘さも上品で、舌の上でゆっくり溶けながら、小豆の旨味を引き立ててる。後味はすっきりしてるのに、なぜか懐かしさがじんわりと心に残る。これぞ職人技って感じの、計算し尽くされた絶品スイーツだった。
遠い記憶とビビッとつながっていく。
--ああ、俺は今、本当に帰ってきたんだ。
視線をキョロキョロ巡らせると、カウンターの奥に小さな黒板が掛かってて、「本日のおすすめ:ナポリタン」って白いチョークで書かれてる。子どもの頃からずーっと変わらない、店の看板メニュー。その香りと色が、ばあちゃんの背中越しに見た光景とピタッと重なってよみがえった。
胸の奥に残ってた警戒心と照れくささが、少しずつ安堵感と懐かしさにチェンジしてくのを俺は感じてた。
ナポリタンを完食した後、カウンター越しにばあちゃんの動きをボーッと目で追ってた。やがて彼女は「ちょっと裏、行ってくるよ」って言って、手近な薄手のカーディガンを羽織って勝手口からひょいっと外へ出ていった。
椅子を離れて、忍者みたいに足音を殺してその背中を追いかける。裏手の細い路地は、空気がひんやりしてて、遠くの踏切が「カンカンカン」って静かに響いてる。
勝手口の段差にちょこんと腰を下ろして、煙草を手にしたばあちゃんがそこにいた。火先が小さく赤くゆらゆら揺れて、白い煙が細くスーッと立ち上って消えていく。その横顔には、めちゃくちゃ長い時間をくぐり抜けてきた人だけが持つ、なんか深い陰影が刻まれてた。
「……ばあちゃん、まだ吸ってたんだ」
「悪い癖ってのはね、そう簡単にはポイッと捨てられないもんさ。たまに一本だけって決めてるけどね」
そっと横に立って、街灯の光がばあちゃんの白髪をふんわり縁取ってるのを見つめた。
「まだこの店があるうちに、帰ってきてくれてよかったよ」
その一言は、夜の空気にスーッと溶けていくみたいに小さく響いた。
返事を探してるんだけど、なぜか声が出てこない。
胸の奥に、なんか説明のつかないザラザラした感じが残ってる。
--まるで、何かがスローモーションで終わりに向かってるような、そんな予感だった。
さっきまでのホッとした気持ちが、じわじわ〜っと不安にモードチェンジしてくのを、俺ははっきりと感じてた。




