12話-ぎこちない朝と笑顔のプロ
朝の「カフェ・アカシア」は、まるで俺を試すみたいにじっと静まり返ってる。
木の扉が軋む音、古いミルが唸る低い音、陶器同士がぶつかり合うちいさなちいさな音--そんな音たちが俺の耳に流れ込んで、でも、その中に自分の呼吸を溶け込ませるなんて、まだまだ無理な話だった。
カウンターでミルのハンドルをくるくる回してみる。でも角度がおかしいのか、コーヒー豆がぽろぽろこぼれ落ちて、思わず「うわっ」って声が出ちゃった。
「なんで……こんなことで……」
粉がカウンターの上で踊ってる。ミルクピッチャーを持つ手も、なんだかプルプル震えて全然安定しない。深く息を吐いて、もう一回チャレンジしようと思った、まさにその時--
「おっはよー、湊くん! あー、それそれ! 私も最初、めちゃくちゃこぼしまくってたよー」
裏口の鍵がカチャリと軽やかに回って、朝の陽射しをぜんぶ背中に背負った咲良ちゃんが現れた。エプロン姿で、まるで朝そのものを運んできたみたいに明るくて、僕はなぜかほっとしちゃった。
「ミルもピッチャーも、慣れるまではみーんなそうだから! 焦っちゃダメダメ」
その声が、変な慰めじゃなくて、ちゃんとした"先輩の体験談"って感じで響いて、なんだか胸の奥がじんわり温かくなった。
ちょっと恥ずかしくなって、曖昧に笑いながらコーヒー豆を詰め直す。咲良ちゃんはそんな俺を見て、くすっと小さく笑った。
「最初からプロみたいにできちゃう人なんて、この世にいないんだから。だいじょぶだいじょぶ」
「……そんなにヘタクソに見えてたのかと思うと、ちょっと悔しいかも」
「あはは! 私もね、最初はもっとひどかったんだよー。ナポリタン作ってる時、フライパンごと床にぶちまけちゃって、店内がトマトソースまみれになったりして」
「え……それはちょっと、大胆すぎない?」
思わず素の声が出ちゃって、気がついたら笑ってた。なんだろう、この感じ。久しぶりに、誰かと"普通に"話してる気がする。
「でしょでしょー?」
咲良ちゃんは肩をひょいとすくめて、
「でもね、それでも辞めなかったら、いつの間にか『慣れた人』って呼ばれるようになっちゃうの。まぁ、なるようになるってことよー」
なるようになる--そんな軽やかな言葉が、俺の心の重いところにすーっと染み込んでいく。理屈じゃわかってても、やっぱり気持ちが少し軽やかになるから不思議だ。
でも、その軽やかさの向こう側で、俺はまだ"できない現実"を感じてた。
このあと、初めてひとりでラテアートに挑戦することになってる。成功すれば、この朝の会話がきっと自信になる。でも失敗したら--いや、失敗なんてできない。絶対に。
カウンター越しに、ミルを握る手にぎゅっと力を込めた。咲良ちゃんの優しい声が響く店内で、俺の心はまだ、ちょっとだけ震えていた。
◇◇◇
開店してすぐ、「カフェ・アカシア」には常連さんたちのゆるやかな笑い声がふわりと広がり始めてた。
メモを手にぎゅっと握りしめて、ホールをくるくる回ってるんだけど、どうにもこうにも動きがぎこちなくて仕方ない。
手にした伝票を何回も何回も確認しながら、頭の中で注文をぐるぐる組み立てていた。
「えーっと……ホットコーヒーと、ミートソース……あ、いやいや、ナポリタンでしたっけ?」
「おいおい、それ俺じゃなくて、あっちの奥さんだよ」
おじさんの指先がくいっと示す先には、別の席の女性がにこにこ笑って手を振ってくれてる。
「あっ……ほんとにすみません!」
トレーをぎゅっと抱え直して、思いっきり頭を下げた。その時だった--低い声が、耳の端をちくりとかすめたのは。
「まぁ、元子役さんだしな。演技は上手でも、接客は素人か」
軽くつぶやかれたその一言が、俺の耳の奥に、じわりと残った。
--子役。
反射的に、聞こえなかったことにしようとした。
でも、その言葉はまるで、蓋をしてた箱の鍵を勝手にがちゃがちゃこじ開けてくるみたいで。
頭の中で「今はもう関係ないんだ、関係ないんだ」って何度も何度も言い聞かせる。
それでも、昔の映像や見出し、ネットの罵声がばらばらに混ざり合って、過去と現在の境界線がぐちゃぐちゃに曖昧になっていく。
頭では愛想笑いを浮かべたまま、胸の奥がきゅうっと急激に冷えていくのが分かる。
過去の映像、雑誌の見出し、ネットの炎上--あの時、心の奥まで焼け爛れた記憶が、鮮明に蘇ってきた。
--忘れようとしてたのに。思い出させるなよ。
この街に戻ってから、少しずつ"あの頃の自分"が忍び寄ってくる感覚があった。
今のあの一言で、それが一気に形を持って迫ってきた。
--もう天才子役なんかじゃない。俺はただ、普通の人生を生きたいだけなのに……。
そんな思考を、厨房からの明るい声がぱっと遮った。
「ナポリターン、できましたー!」
咲良ちゃんが軽やかな足取りでひょっこり現れる。立ちのぼる香りが空気をぱあっと塗り替えて、皿の縁がカウンターにちんっと触れる澄んだ音が響いた。
照明を受けたケチャップソースがつやつや艶やかに光って、ソーセージの焼き色が食欲をそそる。ピーマンの緑が赤の中でぱきっと映えて、皿全体がまるでひとつの絵みたいだった。
咲良ちゃんは髪をさらりと耳にかけて、皿を置くときも視線をぶれさせない。手首の返しや姿勢に、迷いってものがまったくない。
その背中には、「この日常を自分の手でちゃんと回してる」っていう確かな重みが宿ってた。
目が離せなかった。
あんなふうに、誰の評価や噂なんかこれっぽっちも関係なく、自分の場所で堂々と振る舞える人間がいるんだ。過去を隠す必要も、虚勢を張る必要もなく、ただ仕事をして、笑っていられる--。
「……いいな」
まだあんなふうに何かにちゃんと向き合えてない。他人の評価や視線をびくびく気にして、必要以上に慎重になって、動きが鈍くなる。
でも彼女は違う。失敗も笑いに変えて、次に繋げる強さを持ってる。それが、ただの技術じゃなくて、生き方そのものからにじみ出てるように思えた。
そう思った瞬間、胸の奥の冷たさが、ほんの少しだけやわらいだ気がした。




