11話-もう少し、ここにいたい
桜のつぼみがぷっくり膨らんだ小学校前の坂道で、俺はピタッと足を止めた。
「うわぁ、マジで全然変わってないじゃん」
思わずぽろっと声が漏れる。サビサビの鉄棒も、ひび割れまくったコンクリートの校舎も、まるで時間が止まってるみたいにそのまんまだった。
ランドセルを背負った小っちゃい子たちが「おはよー!」なんて元気いっぱいに駆け抜けていく横で、俺はなんだかふわふわした気持ちになってた。朝からなぜか胸がそわそわして、気がついたらここまで歩いてきちゃったんだよな。
「あの頃は毎日ここ通ってたのに……」
懐かしさと、ちょっぴり切ない気持ちがぐるぐる混ざって、胸の奥がぎゅーっとする。
そのとき──
ブルルルル。
ポケットのスマホが震えた。
「んー……?」
画面に知らない番号。なんか嫌〜な予感がしながらも、通話ボタンをポチッと押す。
「はい、もしもし……?」
『明石澄江さんのご家族の方でいらっしゃいますか?こちら桜峰病院の──』
えっ?
一瞬、世界がシーンと静まった気がした。鳥のさえずりも、風の音も、全部ぷつんと消えてしまったみたいに。
『お祖母様が、ご自宅の階段から転倒されまして……大腿骨骨折で緊急搬送されています。これから手術の準備に──』
「ええええええ!?」
思わず声が裏返る。手に持つスマホががたがた震えてる──いや、震えてるのは俺の手だった。
『数ヶ月の入院が必要になると思われます。すぐに病院へお越しいただけますでしょうか?』
「は、はいっ!すぐ行きます!」
ピッ。
通話が終わったあとも、ぽけーっと立ったまま。
「うそでしょ……マジで?」
手のひらがべたべたに汗で濡れてる。心臓がドキドキ暴れて、頭の中が真っ白になっちゃった。
留学の話も、これからの進路も、全部が一瞬でめちゃくちゃになったみたいで──
目の前の小学校が、ゆらゆら揺れて見えた。
翌朝。桜峰病院の廊下は消毒液の匂いでむんむんしてた。
「うげぇ……病院の匂いって、なんでこんなに胃がきゅーってなるんだろ」
気付くと個室の前で、何回も深呼吸してた。手のひらにじわっと汗がにじんで、ドアノブを握るのもビクビクしちゃう。
コンコン。
「ばあちゃん……?入るよ」
「どうぞ」
か細い声が聞こえて、そーっと扉を開ける。
真っ白なベッドシーツにくるまれたばあちゃんが、まるでお人形みたいにちっちゃく見えた。カーテンの隙間からさしこんでる朝日が、ふんわり部屋を包んでる。
「あら、湊。来てくれたのね」
ばあちゃんの声は、いつもよりずいぶんかすれてたけど、俺を見つめる目はいつもみたいに優しかった。
「大丈夫……って聞くのも変だよね。痛い?」
ベッドの横の椅子にちょこんと腰掛けて、ばあちゃんの顔をじーっと見つめた。思ってたより顔色は悪くないけど、足の包帯と点滴の管が、今回のヤバさを物語ってる。
「まぁ、それなりに痛いけれどね」
ばあちゃんがにっこり微笑む。でも、その笑顔の奥に諦めみたいなものがちらっと見えて、俺の胸がぎゅーっと締めつけられた。
「でもね、湊。もう歳だし……これが潮時ってやつかもしれないわね」
「え……?何が?」
「お店のことよ。もう十分やったでしょう?潮が引くみたいに、私も少しずつ──」
「やめてくれよ!」
思わず声がでかくなっちゃった。ばあちゃんがびっくりした顔をする。
「そんなこと言わないでよ……」
胸の奥がぎゅうぎゅうに痛い。あの温かい『カフェ・アカシア』が、ばあちゃんの手で終わっていく……そんなの、絶対考えたくない。
そのとき、咲良の言葉が頭の中でぱっと蘇った。
『置いていかれたんだと思います、私。わざとじゃなくても、結果的に』
ああ、そっか。
今まで何にも考えてなかった。ばあちゃんのことも、お店のことも、咲良のことも──全部を当たり前だと思って、自分のことばっかり考えてた。
なんだか、胸の奥で何かがゆっくりと動き始めてるのを感じた。
◇◇◇
「ねぇ、湊くん……」
咲良の声が、しーんと静まりかえった店内にぽつんと響いた。いつもならナポリタンを焼くジュージューって音やコーヒーマシンのシュー!って音で賑やかなはずの「カフェ・アカシア」が、まるで時の止まった映画みたいに静寂に包まれてる。
入口の「休業中」の貼り紙が、そよ風でひらひら揺れる暖簾越しに透けて見えた。なんだか、お店そのものが息をひそめてるみたいで……俺は無意識に、手に持ったコーヒーカップをぎゅっと握りしめた。
「店……本当に閉めちゃうの?」
カウンターの向こうで、咲良がふわっとタオルを畳みながら振り返る。いつものボブヘアが、午後の陽だまりでキラキラ栗色に輝いて見えた。でも、その瞳の奥には、不安の影がゆらゆら揺れてる。
コーヒーをごくっと飲んだ。香ばしい苦味が舌に広がるけど、なぜかいつもより遠い味がした。まるで、自分の感覚と現実の間に薄いフィルターが一枚挟まってるみたいだった。
「俺が決めることじゃないよ。ここは……ばあちゃんの店だから」
そう言いながら、自分でも気づいた。また壁を作ってる。距離を置こうとしてる。こういうとき、俺はいつもこうなんだ──
「でもっ!」
咲良の声が、いつもよりちょっと高くなった。
「澄江さんは今、入院してるじゃない。誰かが動かなきゃ、ホントにこの場所が……なくなっちゃうよ?」
その声には、焦りと悲しみがごちゃ混ぜになって震えてた。咲良の手元には、手書きのノートが広げられてる。そこにはびっしりと、ナポリタンやカレーライス、自家製ケーキのレシピが、愛おしいほど丁寧な字で書かれてた。
「……全部、覚えてるんだ」
目を細めて見つめると、咲良は小さく、でもしっかりとこくんと頷いた。
「ほとんどね。澄江さんが作ってるの、ず〜っと見てたから。玉ねぎを炒める時間も、トマトソースの隠し味も、ナポリタンの麺の茹で加減も……ぜーんぶ」
彼女の声には、強がりっぽい響きがあった。でもそれ以上に、この店への確かな愛情がじんわり滲み出てて──俺の胸が、きゅーっと締めつけられる。
「でも接客や仕込みは? いくらなんでも全部一人じゃ──」
「だから!」
咲良がぱっと顔を上げた。栗色の髪がふわりと揺れて、その瞳がまっすぐ俺を見つめてる。怯えと、それをやっつけようとする強い意志が、同じ瞳の中でぐるぐるしてた。
「だから、手伝ってほしいの……」
そしてぽつりと、まるで独り言みたいに、咲良が呟いた。
「店がなくなるの、ヤダなんだよ」
その声には、子どもみたいな素直さがあった。計算も演技もない、ただまっすぐな想いが込められてて──
「ここってさ……私にとって、ただの場所じゃないんだ」
咲良の指先が、カウンターをそーっと撫でた。
「あの厨房のコーヒー豆の香りも、ナポリタンを焼いてる時の鉄板の音も、お客さんたちの笑い声も……ぜーんぶ残っててほしいの。なくなるって想像しただけで、なんか……」
言葉がぷつんと途切れた。咲良は唇をぎゅっと噛んで、それ以上を飲み込んだ。
何も言えなかった。心のどっかで「一時的なら、手伝ってもいいかも」って声がひそひそささやいてるのに、それを言葉にする勇気がどうしても湧いてこなかった。
午後の陽だまりの中で、二人の沈黙だけが静か〜に流れていった---
◇◇◇
きしきしと古い階段がぎしぎし軋みながら、俺は店の2階にある仮住まいの部屋へ戻ってきた。
午後の陽射しが、薄いカーテン越しにほわ〜んと差し込んでる。質素な六畳の部屋は、一時帰省だから生活感もほとんどない。ローテーブルの上には、ノートパソコンと何枚かの紙がぺらぺら散らばってた。
その中の一枚---航空券の予約確認メールを印刷したやつを、俺はじーっと見つめた。
「来月には、予定通り……何の問題もない、はずだった」
声に出してみても、胸の奥でざわざわする迷いが消えるわけじゃない。
窓の外からは、のんびりした住宅街の午後が聞こえてくる。小鳥のピーピーって鳴き声、近所の小学生たちのキャッキャッて笑い声、遠くで聞こえる車のブンブン音──いつもの平和な昼下がり。
でも、俺の心だけが、なぜかざわざわと波打ってた。
祖母・澄江の「潮時かもしれないねぇ」っていう、諦めっぽい呟きが耳の奥でリピート再生されてる。そして咲良の「店がなくなるの、ヤダなんだよ」っていう、あまりにもストレートな想いも──
深くはぁ〜って息を吐いた。肺の奥から、重た〜いため息がふわりとこぼれ落ちる。
『継ぐ覚悟があるわけじゃない。長くいるつもりもない。でも……』
昔の記憶がぱっとよみがえる。子役として脚光を浴びてた頃、ある日を境に大人たちが手のひらを返したように冷たくなった、あの日々。称賛が沈黙に変わって、好意が無関心に変わって、温かかった世界が一瞬で氷みたいに冷え切った──
あの記憶の痛みを、もう誰にも味わわせたくない。
特に、咲良には。
「今だけでいい……今だけは、ここに残ろう」
その言葉が、自然に胸の奥からぽろっとこぼれ落ちた。
窓の外では、やわらかな春風にゆらゆら揺れる新緑の葉っぱが、午後の陽光をキラキラ反射してる。その光景が、不思議とやさしく、温かく見えた。
まるで、「それでいいんだよ」って言ってくれてるみたい---




