10話-描かれた “素顔”
午後の陽射しがだんだん傾いてきて、店内の空気にオレンジ色のぽかぽかしたぬくもりが差し込んでいた。二階の居間からとことこと降りてきた俺の目にぱっと飛び込んできたのは、カウンターの向こうで小さく背中を丸めている咲良の姿だった。
卓上イーゼルにちょこんと立てかけられたスケッチブック。その真っ白な紙の上を、鉛筆を握った指先がすうっとゆっくり滑っている。紙の表面に光がきらりと反射して、描きかけの線をふわりと浮かび上がらせていた。
「……何描いてるんだ?」
声をかけると、咲良の肩がぴくりと小さく跳ねる。振り返った頬に、ほんのりと薄紅色が差していた。
「……あー、見ちゃう?」
わざとらしくえへへと困ったような笑顔を見せてから、スケッチブックをくるりとこちらへ向ける。
そこにあったのは--
「……俺?」
思わず声がひっくり返る。描かれているのは確かに俺だった。でも鏡で見慣れた顔よりも、肩の力がすっかり抜けて、ちょっと遠くの景色を眺めているような横顔だった。どこか、寂しそうで。
「この前ね、裏庭のベンチでぼーっとしてた時の湊。あれ、すごくいい顔してたんだよね。なんていうか……人に見せるための顔じゃなくて、本当に素でいる時の表情だった」
柔らかい声なのに、なぜか妙に芯のある言い方だった。
「……『人に見せるための顔』って……」
口にしかけて、言葉がのどの奥で詰まってしまう。
ああ、そういうことか。彼女が描いたのは、役者の仮面を脱ぎ捨てた俺--子役の頃からずっと、誰かの期待という檻の中で形作られてきた俺が、初めて一人きりになった時の顔。
「……こんな顔してたのか、俺」
知らなかった自分の表情と、やっと出会えたような、そんな不思議な感覚が胸にじわーっと広がってくる。
「そうそう。なんかね、ちょっとズルいくらい、いい表情してたよ」
咲良は照れくさそうにくすくすと笑って、スケッチブックにぱっと目を落とした。
「……俺が昔、子役やってたこと、知ってるのか?」
ついぽろりと口をついて出た問いに、咲良はにこりと口角を上げる。
「この街じゃ、そっちの方が有名なんじゃない? ……まあ、だからって別に冷やかすつもりはないけどね」
冗談半分、でも少しだけ申し訳なさそうな声だった。
何も返せなくて、ただじっと描かれた素の自分を見つめた。
閉じ込めたはずの過去が、この街ではまだぴんぴんと息をしている。背中にべったりと貼りつくような居心地の悪さと、逃げ場のないもやもやした空気の中で--絵の中の俺は、静かにこちらを見返していた。
◇◇◇
カフェの閉店後。カウンターの上だけをぽつんと照らす小さなライトの下で、俺と咲良は隣同士にちょこんと座っていた。テーブルの上には、食べかけでそのままになったナポリタンと、咲良が両手で包み込んだコーヒーカップ。店内にふわーっと漂う、焦げ目のついたケチャップの甘酸っぱい匂いが、なぜか今日は妙にくっきりと感じられる。
「ときどき夢に見るんだよね。ナポリタンの匂いだけが、やけにリアルで」
咲良がぽつりと静かに口を開いた。どこか他人事みたいな口調だけど、その奥に隠れている何かが、俺にはなんとなく分かった。
「鉄板の上でじゅうじゅう焦げてる匂い……音がぱちぱちして、空気がもわっと熱を持つあの感じ。お母さんの顔より、そっちの方がずっと思い出せるんだよね。不思議でしょ?」
咲良はふわりと小さく笑ったけれど、瞳の奥では全然笑っていなかった。俺は返す言葉をあれこれ探しながらも、ただじっとその場にいた。
「中学生の頃にいなくなっちゃって、それ以前のことも全部ぼんやり。でも、あの時の匂いだけは、体がしっかり覚えてた。あの人、最後まで何も言わずにふっと消えちゃって……」
カップの縁に指をそっと這わせる彼女の手元が、ほんの少しだけぷるぷると震えているのが見えた。
「たぶん、置いていかれたんだと思う。わざとじゃなくても、結果的には」
それは怒りでも恨みでもなくて、ただ淡々と事実として口にされたように思えた。
そっとカップを差し出した。咲良が「ありがとう」って目で応えて、すっかりぬるくなったコーヒーに口をつけた。
「匂いって、記憶と結びつきやすいって言うよ。心理学で"プルースト効果"って呼ぶんだけど……昔の情景が、感情ごとどばっと蘇るんだ。理屈じゃなくて、感覚で」
咲良は一瞬だけぱちっと驚いた顔をして、すぐにふっと視線を落とした。
「……やっぱ、そうなんだね。私、あの匂いに触れるたび、なんだかほっとするの。意味なんて分からなくても」
しんとした沈黙が落ちた。けれど、重苦しくはなかった。
「ねえ、湊くん」
咲良がひょいと顔を上げる。
「私ね、絵で"居場所"を作りたいの。ギャラリーとかじゃなくて、普通の場所に、そっと置かれてるような……そんな絵が描けたらって思うんだ」
ちょっぴり自嘲するように笑いながらも、咲良の目にはきらきらと静かな決意が灯っていた。
「夢って言えるほど立派なもんじゃないし、叶うとも思ってなかった。でも、最近少しずつ……"伝わるかも"って思えるようになってきたの」
その言葉に、なぜか胸がじんわりと温かくなった。
この子の絵を、もっともっと見てみたい。彼女が描く誰かの居場所に、俺も一緒にいたいって--。
カウンターの明かりが、テーブルの上をふわりとなぞるように揺れていた。
沈黙がしばらくふわふわと続いたあと、俺は口を開いた。
「……咲良って、今どこに住んでるんだ?」
咲良はぱちぱちと驚いたように目を瞬かせて、それからカップをそっと置いて答えた。
「この近くのアパート。バス通り沿いの、小さいけど日当たりのいい部屋。一人暮らしだよ」
その言い方が、なんだか誇らしげで、でも少しだけ寂しげだった。
「自分の場所って、大事だよな」
ぽつりと俺が言うと、咲良はにこりと小さく笑った。
「うん……だから、いつか自分の絵で"誰かの心の居場所"を作れたらって、思ってる。ギャラリーとかじゃなくて、もっと普通の場所で」
その言葉に、一瞬だけふっと迷いが滲んだ。でも、すぐに目の奥にきらっと確かな光が宿る。
「夢って言うにはふわふわしすぎてるけど……でも、描き続けてれば、きっと誰かに届く気がするの。最近はね、そう思えるようになってきた」
彼女のそのキラキラした瞳を見ているだけで、胸の奥が静かにぽかぽかと温まっていくのを感じた。
片付け終わった厨房に、換気扇のブォーンという音だけが響いてる。俺は食器を拭くふりをしながら、祖母――澄江の背中に向かって切り出した。
「なあ、ばあちゃん……咲良って、昔からこの店に来てたの?」
澄江はタオルをぎゅっと絞りながら、口元をやわらかく緩ませた。
「そうねぇ……小学生の頃からだったかしら。放課後になると、よくカウンターの端っこにちょこんと座ってね。スケッチブックを膝に広げて、ず〜っと何かを描いてたのよ」
俺の心臓が小さく跳ねた。思わず身を乗り出してしまう。
「……何を?」
「『誰か』を、よ。いつも、誰かを描いてた」
祖母の声は、まるで宝箱から大切な思い出を取り出すみたいに、愛しそうに響いた。
「地下の倉庫にもね、あの子、勝手に入りたがって……でも私は止めなかった。絵の具の匂いが大好きだったみたい。たまに、床にごろんと寝そべって天井を見上げながら、ぶつぶつ何か呟いてたっけ……まるで空想の友達と話してるみたいにね」
「……倉庫にまで?」
咲良があの地下にいた――その事実が俺の胸にぽんと落ちて、なんだか複雑な気持ちになった。まるで、俺の知らない彼女の秘密基地があったみたいで。
「あの子はね、ずっと『誰か』を見てたのよ」
澄江の言い方には、何か深い意味が込められてるみたいだった。そして急に、言いかけた言葉がぷつんと途切れたように、祖母は静かに口をつぐんでしまった。
「……実は咲良のお母さんはね……」
何かを言いかけて、そのまま沈黙。祖母の背中がほんの少し小さく見えた。
言葉の続きを聞きたい気持ちと、無理に聞くべきじゃないって気持ちが胸の中でせめぎ合ってる。でも、ばあちゃんがそれ以上話さないと決めたなら、きっと理由があるんだろう。話すべき時が来れば、きっと教えてくれるはずだ。
その夜、祖母の言葉――「あの子は誰かをずっと見ていたのよ」――が胸の奥で静かに響き続けた。まるで、まだ開かれていない扉の向こうから、誰かの声が聞こえてくるみたいに。




