9歳からの遅れ
人って知らない環境に飛び込んだ夜であっても寝られるんだな。
帳の隙間から朝光が差す中、僕はぼんやりと愛恵人の金髪を見ていた。とりあえず寝台から出て、箪笥の上に置かれた茶色の服を取った。愛恵人はキュッと腰の帯を締めた。
「早くしろよ。センセーは遅刻に厳しいから」
「うん……」と僕は服を広げた。「ねえ、これってどうやって着るの?」
服の構造が変だ。前開きになっていて、前の重なる部分が大きい。とりあえず羽織ってみたけど、どうすればいいいんだ?ズボンは普通に履いて、きゅっとそれっぽく帯を締めた。木戸の向こうから床が軋む音がした。
「ねえねえ、そろそろ出てきてよ」と忙しい佳月の声だ。
「ほいほーい。ちょっとだけ待てよ」と愛恵人は軽い調子だ。そして「ほんじゃ、下袴の帯を一旦緩めろよ」と顔をしかめた。
愛恵人に言われた通り帯を一旦緩めてから、上衣を愛恵人のように重ね合わせた。余った裾は下袴に突っ込んでから、帯を締めた。
「おー、イケた。ありがとう、愛恵人」
「いいよ。それより早く行こうぜ」
愛恵人はサッサと部屋を出て行った。僕も部屋から出た。隣の部屋の敢太はとうに出て行ったようだ。胸の奥が急にざわついた。これから何が始まるのか、まだ誰も教えてくれない。みんな1番奥の部屋に向かっている。1番の奥の部屋が1番広かった。体育館の半分くらいの広さがある。床は特に何も塗られていない木で作られている。
敢太と佳月が向かい合わせに座っている。愛恵人は佳月の隣に座った。えーと……、僕はどうすれば?。敢太が床をポンポンと叩いた。とりあえずそこに座った。一晩、同じ部屋で寝た上に同い年の愛恵人はともかく、年も体格も部屋も離れている敢太の隣は緊張する。
愛恵人は「センセーは?」と佳月を見た。
「沱繋切検査用のやつ取りに行ってるって」と佳月は肩を竦めた。「何事もなければ、もうすぐ戻って来る」
沱繋切……、昨日も聞いた。和伝人特有の戦う術だと聞いた。
目の前にいる美少年と美幼女を見た。愛恵人と佳月は目鼻立ちが似ている。2人ともくっきりとしたすごく綺麗な目鼻立ちをしている。愛恵人は女顔だから余計に似ている。
「ねえ、愛恵人。佳月とは従兄弟なの?」
愛恵人はぷっと吹き出した。佳月は首を傾げた。急に生暖かい空気が流れた。敢太はボリボリとこめかみを引っ掻いた。
「従兄弟じゃねえけど、あの2人はかーなり近い親戚同士だ。顔、どことなく似てるだろ」
「うん。もちろん、違うところもあるけど。佳月は綺麗なお嬢様っぽい顔立ちだけど、愛恵人は……なんだろう?」
「おい!」と愛恵人が身を乗り出した。「そこで切るなよ!」
佳月は小さな手で口元を隠してクスクスと笑っている。やっぱりお嬢様だ。でも上品なお嬢様なだけじゃない何かが滲み出ている。体力おばけなのは昨日分かったけど、それだけじゃない。なんだろう? 何かとびきり魅力的なものが滲み出ているんだよなぁ。それから愛恵人を見た。
「うん、分かった。愛恵人は華やかなアイドル顔だ」
「お、おう。ありがとう」と愛恵人は目を見開いた。「なあ、ゲン。オレってそんなにカッコいいの?」と敢太を見た。
「アイドルは知らねーけど、いい方じゃねえの?」
「何の話をしているんだ?」と低い男性の声が響いた。真道――先生――だ。
突然、空気が冷えた。佳月はシャッと姿勢を正した。敢太は平然としているが、愛恵人は緊張しているようだ。先生は脇に抱えていた重そうな灰色の機械を悠然と下ろした。
「大一。こちらに来なさい」
「はい」と僕は立ち上がった。
「これで血を出して、この吹込み口に入れなさい」と懐から出した小刀を僕に手渡した。
「え」
「これで沱繋切が測れる」
沱繋切って測るものなの? 先生は急かすように僕を睨んでいる。僕は小さく震える手を抑えて、どうにか血を出した。ちょびっとだけ出た血を吹込み口に垂らした。機械はぶーんとなり、カタカタと振動した。なに、なに?
「先生、これ爆発しませんよね?」
「しない」
先生は機械のある部分をじっと見ている。僕も釣られてそこを見た。やがてその部分は灰色から汚い茶色に変わった。
「堅塞固土か。鶴二と同じだな」と先生はまっすぐ僕を見た。「9歳からで間に合うか分からぬが、戦士として最低限の動き暗いで出来るようにまずは体力の向上と基本の型を覚えるよう」と言う口ぶりには微かな期待と、大きな諦めが混ざっていた。
9歳からって遅いんだ。僕の心にツンと小さな氷に欠片が投げられたような気分だ。先生は僕の心境に構わず、機械を片付けている。
「お前の体力は昨日の時点で粗方把握した。まず毎朝体をほぐしてから腰と膝の筋力増強、股関節と膝の曲げ伸ばし、戦陣起倒、体幹固め。それから昼食を取った後はこの道場を10周、もしくはここから蓮医隊のところまでを5往復のどちらかを励みなさい」
「すいません、もう一度言ってくださいませんか?」
「あとは佳月に聞け。二度は言わん」と先生は出て行った。
場にシーンとした空気が残った。
「怒らせた?」と僕は恐る恐る佳月を見た。
佳月は「ううん。師範は忙しいだけなの」と肩を竦め足を横に広げた。ぐにゅー、と。
他の人もやってる。僕は慌てて、体を伸ばした。子役だったから体の柔らかさにはそこそこ自信がある。愛恵人や佳月と比べ、敢太はそこまで体が柔らかくないようだ。大人に近いからかな?
体を伸ばしながら「私は五月四日上徳家の次代当主なのに、まだ5歳だから公なことは何もできないの」と佳月は呟いた。「だから師範と、師範のご母堂がやってくださっているの」
「どういう関係なの?」
「先生は佳月の父親の腹違いの弟だ」と敢太が代わりに答えた。「ついでにさ昨日、明子さんに会ったろ。あの人も佳月の父親の妹」
「意外な親戚関係だろ。先生と佳月は似てないし、何なら明子さんも似てない」と愛恵人は立ち上がった。
佳月は俯いている。
それから僕はヒイヒイ言いながら腰と膝の筋力増強をした。比較的天国のような股関節と膝の曲げ伸ばしをした、10回目を超えるころにはキツかったけど。倒れては起き上がってと、クラクラしながら戦陣起倒をした。ぼたぼたと汗を垂らしながら体幹固めをした。終わった〜、と僕は床に手足を伸ばして倒れた。いや、まだ終わってない。この後、走り込み……。光を取り込むためか、天井が高く大きな窓も高い位置にある。
やる意味あんのかな? だって、9歳からじゃ遅いんだろ?
「起きて、起きて、起きてよ! 大一、お昼食べようよ!」と佳月に揺さぶり起こされた。
寒い。そりゃそうだ。汗でぐっしょり濡れた中、11月に毛布も掛けずに寝てたんだから。佳月に引っ張られるように僕は道場を出た。そして、外で待っていた愛恵人や敢太の後について僕は坂道を降りた。お昼は明子さんの家で食べるものらしい。下り坂だから昨日よりはマシだ。明子さんの家が見えてきたころ僕は首を傾げた。
「なあ、愛恵人。岩ってよじ登んないの?」
「登るかよ! 岩ってあれだろ? 明子さんの家からちゃんとした道も使わず行ったとこにあるやつ」
「え」と僕は佳月を見た。
「だってさ、だってさ! あれ以上遅くなったら、ダメじゃん!」と佳月は精一杯主張した。
「あのさ、かづ。そりゃ大一も伸びるわ」と敢太は佳月の頭を軽く小突いた。「早く着こうとしたのは偉いけど、水分くらい早くあげろよ」
あの道って普段使わないんだ。僕はふと遠い目で空を見た。マジ意味わからん。明子さんの家に着いた。
「おじゃましまーす」
「どうぞー」と烈さんが出てきた。手に5通の封筒を持っている。
烈はそれらの封筒を佳月に渡した。佳月は封を開けると、ふむふむと読み始めた。どう見ても何かの書類だ。大人がタバコふかしながら読むタイプの長い手紙だ。
ドカドカと奥へ向かう愛恵人と敢太を尻目に僕は佳月の書類を覗き込んだ。
「何の手紙だ?」
「うーん、本家の方から転送されてきたやつ。出てほしい式典の招待状だったり、今の財産の状況だったり、株の状況とか」
「うーん、思った以上に大人。意味分かるの?」
僕ですらほとんど意味が分かってないのに、5歳の佳月に分かるのか?
佳月はこくっと頷いた。
「頑張れば読めるよ。読むための知識も身につけたから返信もできるよ」
僕に心にスッと1つの疑問が浮かんだ。佳月は上徳家の次代当主だから、その辺の勉強しなきゃいけないのは分かる。次代司令官として訓練もしなきゃいけないのも分かる。だけど、ハンデが大きすぎる。5歳と幼すぎるのはいずれ何とかなる。けれど……。
「女の子なのにすごいね」
「女の子だからだよ。みんなより頑張らないと私はみんなと同じくらいにはなれない。ただでさえ、年も離れてるのに」と佳月は僕を睨んだ。
「その原動力はなんなの? ほぼハズレくじを引いたようなものだろ?」
「いきなり失礼だねー」と佳月は笑った。
外で雀が飛んでいる。佳月は少し考えるように唇を突き出した。
「私とあなたがなんでこの家に生まれたのか知りたくない?」と佳月はニヤと笑った。
「知りたい」と僕は頷いた。
「私の原動力はそういうことにしてある。何で私がこの地位なのかも分からないから、頑張る。そしたらさ、大きくなってこの地位に相応しい人となれた時、分かると思うの」
奥から僕らを呼ぶ声が聞こえた。佳月はじゃ、と駆け出した。
5歳にして生まれた意味を考えていた佳月。
ちなみに腰と膝の筋力増強=スクワット、股関節と膝の曲げ伸ばし=ランジ、戦陣起倒=バーピー、体幹固め=プランクです。




