向日葵
ちょっと文章のクセが強いので御注意を。
−向日葵−
序章
秋の気配、冬の足音、春の訪れ、ときたら、夏は何だろうか。
梅雨が終わり、蝉がせわしさを増す頃まで、気配を感じることは
ない。彼らは足音など聞こえる間もなくやってくる。
空を見上げると、陽炎の中でゆらめく赤い炎が僕を照りつけて
いた。しばらく物思いに耽っていたようだ。首筋がじんわり熱い。
照りつける日差しも、汗ばんだカッターシャツも、今ではずっと
昔のことのように思える。それでも、彼女がやってきたその夏は
確かな輪郭を持って僕の中に残っている。もう二度と、青い空を
あの時の気持ちで見ることはないだろう。
「間違ってない。あなたは正しかった」
そう言った彼女はどんな思いで僕の瞳を見ていたのだろうか。
僕が彼女にできることなど何もなかった。…だけど、僕の青さは
それを認められない。僕の中にあったのは、つまらない好奇心と
自己陶酔に過ぎなかった。その抜け殻に残るのは無力感だけだ。
「お前は間違えたりしない」
そう言われたのに。けれど、今はそれを間違いとは思わない。
それを認めたら、僕の中の彼女でさえ、意味を失う気がした。
次のバスまでには時間がある。思い出を懐古するくらいには。
第一章
その年は、ペルー沿岸沖で発生したエルニーニョとかいう異常
気象のせいなのか、それとも省エネ志向で全国のてるてる坊主が
絶滅の危機にあるせいなのかは知らないが、長い梅雨が続いた。
久々の日差しに目を細めると、もうカレンダーは七月のページへ
浮足立っているようだ。少し気が早いかもしれないけれど、古い
前月を破り捨てる。手動のアップデートが近づく夏を感じさせた。
階段で一階に降りる。ダイニングで母が朝食の準備をしていた。
「おはよう」
挨拶は一日の始まり。と小さい頃から言い聞かせられてきた。
だが、たいてい親がそれを無視するというのはどういう了見だ。
「優花は?」
「まだ寝てるわよ。起こしてきてくれない?」
これが朝の日課。僕の一つ年下に当たる妹は朝に弱い。そして
男の見てくれにも同じくらい弱い。再び二階に上がる。
「おい、朝だよ。起きろ」
目を開けるなり、妹は残念そうな顔をした。
「せっかくイケメンとデートしてたのに。勿体ないことしたわ」
「どう考えても、お前を起こす時間の方が勿体ない」
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目をこすりながら白米を掻き込む妹は、まるで締切に追われる
編集者のようだ。時間に急き立てられる、現代人の象徴。
「もっとゆっくり食べろよ。見てて消化に悪い」
お節介かもしれないけれど、たまには心配してやろう。
「いいけど、責任とってくれるの?」
「何の?」
「男が責任とらなきゃいけない事なんて、お腹の中の赤ちゃんか
部下の不手際くらいじゃない」
一理ある、のか?
「どちらも今のケースには該当しないと思うけど」
「ケースだの該当だの、これだから理屈っぽい男って嫌なのよ」
僕がよく言われる台詞だ。いつも通りに返事をする。
「逆に言わせてもらうと、妥当な見解を頭ごなしに理屈っぽいで
片付けるから、女って嫌なんだ」
年上の意見は大人しく聞けば良い。可愛げのない妹は、僕を
睨みつけて何か言いたそうにした。そこに的確な忠告が入る。
「お二人様、右手の時計をご覧ください」
「行ってきます」
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僕にとって、通学路を歩くことは繰り返す日々の一部であると
同時に、意識を思考だけに預けられる時間でもある。人は生きて
いるだけで多くの情報の中にいる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚…。
それは錯綜する感覚の束に囚われているようにも感じられた。
たぶん、障害を持った天才が多いのはそこに理由があるのだろう。
人よりも狭められた世界の代償に、その数少ない情報を処理する
能力が発達する。なんて、彼らに対して不謹慎かもしれない。
不思議なもので、一切の意識を思考に傾けていても雨水が川を
流れるように僕の体は決まった道を歩き、目的の場所へ辿り着く
ことができる。…はずなのだが。
「おっと」
今日はいつもと逆に曲がってしまった。珍しい。このように、
世の中は正解と間違いの二者択一から成っている。いや、分類を
することができる。そのためか、僕は人が目の前で感情を露わに
する時、これは何を間違えたのだろう、と考えてしまう癖がある。
僕には彼らの感情を本当の意味で理解できない。だから、きっと
自分が何らかの過ちを犯したのだと納得することにしている。
優花が言うように、僕には想像できなくとも責任があるのだ。
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「おい、達也。聞いてんのか?」
聞いているかいないかと言えば、聞いている。ただ、聞くのと
聴くのは違うのだと誰かが言っていた。心が入ってるかどうかだ。
「音声は確かに受け取ったよ」
僕が真顔で答えると、秀一は肩をすくめる。
「友人との大切な会話を衛星通信みたいに言うなよ」
お話になった相手は、電波の届かないところにいるか、電源が
入っていないため、答えません。留守番メッセージを開く。
「農村でメダカが少なくなってる、って話だったよな」
「日本の生態環境を危惧していないとは言わないが、少なくとも
俺はそんな話題を出した覚えはない」
彼は生物の多様性が失われていくのを黙って見ていろと言うの
だろうか。呆れながら秀一が口を開いた。
「転校生だよ」
転校生。少女漫画を開けば、五冊に一冊くらいは引っかかると
思われるベタな展開だ。女はどこか影のある美男子を、男は凛と
した美少女を想像する。どちらも『美』が付く点では、同じだ。
ラグビー男子やプロレス少女だっていいじゃないか、と僕は思う。
「それなら、昨日のHRで安田が言ってただろ」
さほど興味もなく答えたが、秀一は気にせず返してきた。
「詳しくは何も話していない。転校生が来るというだけだ」
「それでいいじゃないか。人間に一番大切なのは想像力だよ」
「安田も昨日の時点では知らなかったらしい。それなりに事情が
あるみたいだけどな。で、転校生の性別は特定できたんだよ」
「次期町長ともなると転校生のオスメスが分かるんだな」
秀一の父は地元の名士で、今は現職の町長である。一人息子の
彼はいわゆるボンボンに該当するはずだが、人当たりの良さから
それを感じさせない。そこに頭脳明晰、運動神経抜群とくれば、
先輩後輩関わらず女性が放っておくわけもなく、月に一度ベルト
コンベアー式に彼女たちはやってくる。さっさと一人に決めれば
彼女らも諦めがつくだろうにと思っているが、口には出さない。
「親父の七光りってか。で、次期県知事が得た情報によると」
「昇進おめでとう」
「転校生は結構きれいな女の子らしい」
無視された。
「プロレス少女じゃないのか」
なぜかその答えを知っていたような気がしたのは、ささやかな
期待があったのか、それとも目に見えない運命を感じていたのか
判然としない。とりあえずいつも通りの口調で返した。
「また恋人候補が増えるわけですか」
「何度も言うが、初めから候補なんていない」
これだけ女性に言い寄られても、彼の城は揺らがない。それは
単に理想が高いだけの話なのか。いや、おそらくそうではない。
まるで女性に興味がないようにも見えるが、僕は彼の家庭事情が
少なからずそれに関係していると感じている。父親の話を好んで
しないのもそのためだろうか。
「前から聞こうと思ってたんだが」
「何を」
「お前には、虚栄心とか浮付いた気持ちってものはないのか」
「もちろん、あるさ」
じゃあ何で、そう出かかったところで口を封じられた。
「虚栄心とか浮付きってのは、余裕のない時に出てくるものだ」
最大限の余裕を持ってそう言われたら、反論する気も失せた。
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朝のHRの時間が近づけば、ちらほらと現れる制服姿の数量と
比例して、ざわめきが増大する。各人が思い思いに発する言葉は
別々でも、恐らくに同じ話題を口にしていると考えたら、奇妙な
一体感を感じた。
「おはようございます」
担任の安田が現れた途端、一瞬で室内の空気が収縮した。先週
化学教師の放った時代錯誤の言葉遊び(オヤジ、とはいうまい)
の空気感もなかなかだったが、今はそれとは別の緊張感がある。
「今日は君たちにお知らせがあります」
既にお知らせされているものを改めて言う必要はないだろう。
「入ってきていいぞ」
立てつけの悪いドアが音を立てる。そこから覗く手の指先は
細く、まるで植物の茎を思わせた。朝露に濡れた、瑞々しい茎。
現われた転校生はクラスの生徒たちの期待を裏切らなかった。
「簡単な自己紹介をしてくれ」
少し見惚れたような表情で安田が言う。彼女が遠慮がちな声で
言葉を発した。全員が息を飲む。
「はじめまして。青山翠です」
彼女が言ったのはそれだけで、これから仲良くして下さいね、
などと気の利いた挨拶は無かった。
まぁ、言わなくてもそれは当然なのだが。
「とりあえず、仲良くしてやってくれ。まだこっちに越してきて
間もないようだし、色々な面でサポートできることはあると思う」
安田が彼女の代わりに無難な言葉を発して、HRは終わった。
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何人かの女子が常時よりトーンの高い声で群がり、男たちは
意識しないようにちらちらと目を向ける。僕から言わせれば、
それは『ちらちら』というより『じろじろ』なのだが。
「で、どう思う?」
他人に干渉しない秀一には珍しい質問。
「お似合いだと思うよ」
「そいつはどうも。式には呼ぶよ」
いくら麗らかな転校生とは言え彼が他人の外見を気にするとは
思えない。まして、彼女より美人な女性は彼の周りに大勢いる。
先ほどの口ぶりは、いつも秀一が何かに疑問を持った際のそれに
似ていたので、もしかしたら彼女の『事情』に関わる事なのかも
しれないと思った。いずれにしても、僕には関係ない。
僕は彼女を観察していた。もちろん、じろじろ。群がってくる
取り巻きたち一人一人に笑顔で返しているところを見ると、特別
人付き合いの苦手な一匹狼タイプでもなさそうだ。かといって、
媚びるような風にも見えない。羨望と妬みのバランスを維持する
器用さは持っているだろう。授業中、熱心にノートをとる姿勢は
知的な雰囲気とも合致するし、特別不可思議な子では無かった。
表面的には見えない何かを秀一は感じ取ったのかもしれないが、
だとすればそれは奴の並はずれた慧眼によるところだろう。ただ、
そんな簡単にこの男の城が陥落するとは思えなかった。
「秀一くん、ちょっと」
いつものお呼出しですか。隣の色男に目配せをする。読書中。
表紙は…『孫子大全』。中国の古典から兵法を学ぶのは自由だが、
まさか将来的にこの町で軍事組織でも作るつもりか。
「俺が動いた方がいい? それとも、ここで話せる話?」
さすがに慣れている様子でも、厭味に感じないのは彼の人徳だ。
「ここでいい。あのさ、この前の話なんだけど…」
「あぁ、あの事なら気にしなくていいよ。俺も不注意だったし」
「でもそれじゃ私の気が済まないから、何かお詫びくらいは…」
「いや、そこまで大げさな話じゃないよ。弁当一食くらいで腹を
立てる奴だと思われたら心外だなぁ。とにかくお詫びはいらない」
彼女にしては秀一と懇意にする好機なのかもしれないけれど、
彼にはうまくかわされた。冗談めかしているようで、末尾に断定
口調の返事をきちんと添えるところが彼らしい処世術だ。実際は
その『弁当麦茶まみれ事件』自体が彼女の策略ではないのか、と
僕は睨んでいる。腹を立てるでもなく『麦ご飯なんて給食以来』
と笑った秀一の好感度は、さらに上昇したのだった。
「そう、それならいいの。ごめんね、読書の邪魔して」
去っていく後ろ姿に、僕は心の中で声をかけた。お礼という形
で取り入るとは、なかなか巧い手を考えたみたいだけど、相手は
空き時間に粛々と中国古典を読みふける高校生だ。役者が違う。
「なんだよ」
大げさに溜息をついた僕に秀一が目つきを変えた。人相悪いな。
「いや、これから僕が背を向けた女性に何回労いの言葉をかける
かと想像したら、思わず」
「お前よりマシだろう。冷血人間」
「落ち着きがある、くらいにしないか」
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昼休みになると、他のクラスからも生徒がやってきたり、出向
いたりする。それは世界史で習った東欧諸国の解体に似ていた。
恣意的に構成された連邦が、それぞれの事情で内部分裂と統合を
繰り返す。そこには民族や宗教の衝突も、利権争いさえある。
青山翠の周りには既に包囲網が完成していた。
「あ、青山さんのお弁当美味しそう。自分で作ってるのぉ?」
と黄色い声を上げているのは、先ほどの彼女だ。それにしても
弁当絡みの話題が好きな子だな。
「うん。でも、河野さんのも可愛いよ。手作りなんでしょう?」
へぇ。午前の休み時間、彼女の前には常に行列ができていた。
その状況下で全員の名前を確実に記憶したのだろうか。侮れん。
それに、それが手作りであると言い切る理由にも興味があった。
「なんで分かるのー。確かに今日は気合い入れたんだけど…」
「さっき腕の絆創膏を剥がして塗ってたの、ワセリンでしょう?
大抵、火傷をするのは腕じゃなくて指先だろうし、もしかしたら
朝に急いで揚げ物でもしてたのかなって思って。それに、」
「それに?」
「河野さんって、家庭的で料理とか得意そうなタイプに見える」
なかなかやるな、と単純に僕は思った。きっと彼女は特別確信が
あって言ったわけではないだろう。それには根拠が浅い。女性が
好きな白々しい謙遜合戦(滑稽ですらある)をうまく避けつつ、
なおかつ相手の顔を立てたのだ。彼女のような気品で言われれば
悪い気はしない。どうやら頭も切れる子のようだ。
ふと、その豪華な手作り弁当は隣の男へのお詫び用に作られた
ような気がしたので、一言呟いてみた。
「かわいいお弁当、食べれなくて残念だな」
秀一は答えず、青山翠を真剣な眼差しでじっと見つめていた。
ますます気があるようではないか。こいつらしくない。
「ん、何か言ったか」
「いや、いい。それよりそんなに青山嬢がお気に召したか」
「違うんだよ」
「違うって何が。今までの女たちとは、ってことか? 泣くぞ」
「表情…、いや違うな。目が違うんだよ」
「おいおい、わざわざ詳細な解説をされても困る」
「勘違いすんな。そういう意味じゃなくて、女子と話してる時と
男を見る時の対応が不自然に違うんだ」
「思春期の女の子ってのはみんなそうだろう」
「あれだけ人当たりが良くて気が回る子が、男性に慣れていない
ってのか? まだまだ甘いな達也」
「お前みたいなプレイボーイと一緒にしないでくれ」
経験値が違いすぎる。
「なんか表現が古臭いぞお前。いや、朝も違和感を感じたんだ。
安田を見たとき、彼女はまるで怯えてるみたいだった」
「怯える…男性恐怖症ってことか。単に安田を生理的に受け付け
なかっただけじゃないか?」
もしそれが本当なら、彼女の『事情』はなかなか深刻なのかも
しれない。転校の理由もそこにあるのだろうか。
「そういう怯えとは違うような…。なんというか、困惑に近い。
理解し難いものを見たような」
「お前は知らないのかもしれないが、いつの世も高校生にとって
異性は理解し難いものだよ」
秀一は、ふう、と息を吐き出した。
「いちいち親爺臭いんだよな、お前は」
「落ち着きがある、くらいにしないか」
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今日の午後の授業は二連続で体育になっている。週末の最後に
生徒たちの鬱憤を晴らさせようという粋な計らいなのかどうかは
知らないが、今は梅雨も上がりプール週間である。男子の期待は
明らかに別方向のベクトルを向いている。登校初日の青山翠には
水着の準備などあるはずもなかった。がくり、とこうべを垂れる
男子勢を見て、落胆の音とはまさにこれだと思う。
秀一には、相変わらず女子達からの視線が付きまとう。自然と
注目されてしまうのは常のことだが、彼は同性にも好かれている。
あいつならしょうがない、皆がそう思うのは、彼にはその能力や
センスを他人にひけらかす軽薄さが微塵も感じられないからだ。
むしろストイックですらある。少しは子供らしい所を見せてくれ。
一方の青山翠は、テントの下で涼んでいた。当然だが体操服も
用意されていないらしく、制服で目を細めている。その白い肌に
日光は相応しくないと思うから、きっと彼女の水着姿を見ること
はないだろうな、と思った。他にも女の子の日を駆使してテント
を根城にしている女子生徒は何人かいた。
タイム計測が一通り終わると体育教師の合図が出て、生徒たち
は週のリセットを終えた。
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「おい、タツ坊」
この呼び方をするのは彼女だけだ。彼女と言うには少々年季が
入り過ぎている気もするが。
「なんだ、ユキ婆か。最近見ないからくたばったかと思ってたよ」
「最近見ない、ってあたしはいつもここで商売してんだよ。単に
お前がしばらくここを通らなかっただけじゃないか」
今年で八十三歳(自称)を迎えるという雪子さんは僕の帰り道
近くで駄菓子屋を営む婆さんで、家族ぐるみの付き合いもある。
高校から家に帰る上で通る必要もないけれど、今日は考えごとを
していたから、先立っての角を左折し忘れたらしい。
「お前が真剣な顔してるなんて珍しいじゃないか。学校で好きな
子でもできたんだろ」
なぜ断定口調なのか意味不明だが、この婆さんはどうも全てを
見通したように話す節がある。実際、たまに当たっていたりする
のだから、最新の監視カメラや盗聴器を駆使する八十三歳を想像
して苦笑する。
「どうやら今回の思い人は謎が多いんだ」
「分析大好き野次馬野郎のお前にはちょうどいい」
野次馬野郎とは何だ。あんたの可愛がってた野良猫を見つけて
やった恩を忘れたのか。顔をしかめると、彼女は鼻で笑った。
「それなら、ホームズに任せた方が賢明じゃないか」
「あぁ、秀一のことか。むしろ、この案件はあいつが持ちかけて
きたんだよ。名探偵からの挑戦状、ってとこかな」
「あの子の時だって、秀一君のおかげだろ」
あの子、とはその猫のことだろう。その猫は鈴を付けていて、
年の割に耳の遠くないユキ婆は鈴の音で猫の存在を確認していた。
ある日、二日間鈴の音が聞こえないことに気付いた彼女は、僕に
そのことを話した。ふと前日に秀一が言っていたことを思い出し、
僕は自転車を走らせて高架下に向かった。
「今日の朝、高架下で猫同士のケンカを見たよ。やっぱり人間と
同じで、猫業界でも決闘は高架下って相場が決まってんだな」
秀一が話していたのはこんな内容だった。やはり、金色の鈴が
鼻についたのだろうか。『おいお前だよ。今、肩が当たっただろ』
なんてやりとりがあったのかもしれない。ちょっと面貸せ、と。
「彼も自分の腕っぷしを試したい年頃なんだよ、きっと」
「そうなのかねぇ。でも、あの子は雌だよ」
第二章
じっと身を屈めていると、やがて朝になる。いつからだろう、
眠ることが怖ろしくなったのは。どこまで行っても果てない道を
歩き続ける夢を見ることもあれば、誰かに追い掛けられることも
ある。夢は一日の記憶を整理するための作業だと、誰かが教えて
くれた。あれは兄だったのだろうか。兄なら、私にどんな言葉を
かけてくれるのだろう。きっと、ただ笑って髪を撫でてくれる。
口数が少なくても、人当たりが良く、誠実で有能な兄を私は尊敬
していた。今だってそうだ。けれども、私がこうなってしまった
のは彼のせいでもある。
今日も、思い出してしまった。何かを諦めたような乾いた声。
この場所も、いずれ割れてしまうだろう。私達は逃げ続けるしか
ないのだ。どうしてもそれが嫌なら、受け入れるしか…。
嫌だ。思い出したくもない。二度とあんな日々に戻りはしない。
誰も私を救ってはくれなかった。
右腕の絆創膏。彼女の腕を見た時、私はそれが火傷だとすぐに
気付いた。周囲の肌の赤みは、私には見慣れたものだ。けれど、
その傷には何も宿っていなかった。何の悪意も憎しみも。彼女の
名前を覚えたのは、そこに少なからず妬みがあったからだろう。
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新たな客人を迎えて一週間が経ち、クラスの浮付きも収束を
見せ始めた。相変わらず青山翠の人気は衰えを見せないが、取り
巻きが増え過ぎないように工夫しているのか、女子のリーダー格
らしき女子の逆鱗には触れていないようだ。クラスの華としての
地位は確立されつつある。さすがに今週は用意してきたようで、
週末の体育は水泳というよりも体操服に着替えた青山翠の鑑賞会
に近かった。どうでもいいけど、余所見してると溺れるぞお前ら。
テスト期間で下校時刻が早まっていることもあり、少し図書館
に寄って勉強することにした。お世辞にも、我が家は集中できる
環境とは言えない。いろんな意味で。
「図書館行くけど、お前はどうする」
帰り支度をする秀一に声を掛ける。
「いや、俺はいい。一人で楽しんできてくれ」
「図書館にそんなアミューズメント性はないと思う」
いつものように門をくぐると、視界の隅に青山翠を見つけた。
彼女の家がどこにあるのかは知らない。ただ、徒歩で通っている
ところを見るとさほど遠くないのだろう。彼女から目線を切って
近くの自販機に向かう。図書館は飲食禁止。今の内に喉を潤す。
先月までのじめじめした空気とは違って、まとわりつくような
暑さが町を覆い始めている。上の太陽光線とアスファルトからの
輻射熱の板挟みになっていると、自分が調理されている気分にも
なる。だが、加熱変性を起こすタンパク質は熱にデリケートだ。
頼むから火加減には気を使ってくれ。空を睨む。
やや冷房の効いた室内に入る。ヒヤリとした空気が僕の皮膚を
引き締めた。いつになっても、この感覚には慣れない。図書館の
静寂が体感温度をさらに下げているのかもしれない。町の図書館
は蔵書数こそ多くないものの、住宅街に近い立地の良さから休日
にはそれなりの賑わいを見せている。今日は平日なので利用者は
学生がほとんどだろう。利用者カードの記入を終えて、児童書や
歴史書のコーナーを抜けると、奥に防音室がある。受験期の学生
が声を出して議論をしたり、ボランティアで定期的に開催される
絵本の読み聞かせ会に利用されたりするのが主だが、僕は使った
ことはない。秀一の言うような娯楽性はなさそうだ。
ふと、読書スペースに目を向けると、窓際の机の端に青山翠の
姿を見つけた。軽くほおづえをついて頭を傾けているその表情は
写真にすればそれなりの収益が見込めるだろう。…絵になる子だ。
僕は咄嗟に近くの書棚から本を抜き取って、極力意識しないよう
彼女の正面の席に腰を下ろした。正面から見るのは初めてだが、
クラスが沸き立つのも分かる。人形のような白い肌と流れる黒髪
にはマドンナたる格がある。柄にもなく頬が上気する気がした。
分析には本人への聞き込み調査が手っ取り早い。ついでに彼氏の
有無でも聞いておこうか? 警戒されないよう、なるべく軽快に
言ってみる。
「こんにちは青山さん。図書館はよく来るの?」
本から顔を上げた彼女は背筋を伸ばし、少し怪訝な顔をした。
「…こんにちは。あなたは誰?」
うーん。僕は何者なんだろう。思春期の男子高校生には難しい
質問だ。我思う、ゆえに我あり。とりあえず、無難な答えを返す。
「教室で君の左後ろに座るファンの一人かな」
少し考えるように指を弄んだ彼女は、先ほどの質問に答えた。
「図書館は好きなの。学校からも近いし、ここはなかなかいい。
あなたは?」
「僕は滅多に来ないけど、町の施設を褒めてもらえるのは光栄だ。
今日はテスト期間で早いから、少し勉強でもしようと思ってね」
「勉強を?」
新種の生物を発見したように彼女は首を傾げる。
「おかしいかな。テスト期間にテスト勉強をするのは、白クマが
北極にいるのと同じくらい自然だと思う。動物園よりずっと」
少し口元をほころばせて、彼女はそれを指摘した。
「初日は理系科目だけど、国語辞典でその対策を立てるのは無謀
だと思うわ。北極にTシャツ一枚で行くよりずっと」
先ほど咄嗟に抜き取った書棚は辞書コーナーだったらしい。
厚さで気付くべきだった。
「数学は言語の一種だから、まずは言葉による概念の把握から
入るのも一つの手じゃないかな」
「興味深い意見ね。参考にさせてもらうわ」
会話が途切れたら、用件は済んだ、とでも言うように再び同じ
姿勢に戻る。うーん、慣れないナンパはしないものだな。まぁ、
クラスの美少女と二三言葉を交わせただけでも良しとすることに
した。これから話しかける取っ掛かりにもなる。既に彼女の魅力
に取り込まれている気もしたが、主は野次馬根性かもしれない。
くしくもユキ婆の指摘は的確だ。
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「お帰りなさい。お風呂? ご飯にする? それとも私?」
男なら言われたいフレーズの一つなのかもしれないが、思春期の
男子高校生には少々刺激が強い。いろんな意味で。
「母さん、それは息子に対する出迎えじゃないと思う」
「あら、ちょっと前まで私の母乳を吸ってた子がよく言うわね」
かなり前だろ。誤解を招くからよしてくれ。今日はすき焼き、
と歌うように言って、奥のダイニングへ帰っていく。優花はまだ
帰っていないようだ。三人で暮らすには少し広すぎるリビングに
カバンを置き、食卓に腰を落ち着けるといつものように世間話が
始まった。
「店長が、美映子さんがいるとハムの売れ行きがいいって誉める
から、今日はずっと店頭販売の手伝いしてたのよ。やっぱりね、
手始めに客の肌艶とかを褒めつつ、ビタミンB群でさらに綺麗に
なりますよって横文字が決め手だわ。豚肉は豊富です、って」
快活で弁の立つこの母親なら、接客や販売はお手のものだろう。
もしかしたら余計なものまで買わされたかもしれない、と思った。
売り込まれた人に同情の念を覚える。
「今のは若い子へのマニュアルだけど、年の人には健康話ね」
いずれにしたって栄養学の知識を披露するのだろう。結婚前には
大手の食品会社に勤めていた母が、今だにスーパーのパート職に
甘んじているのは、なるべく時間に融通の利く場所で、家族との
時間を持つためなのかもしれない。金銭的にさほど困窮している
わけでもなく、俗に言うパート女性よりは軽めのシフトである。
『父さんがたくさん残してくれたからね。あんたが高校に行ける
のもそのおかげなのよ』母はよくそう言った。
僕は父の顔をほとんど覚えていないが、親戚からはおおらかで
立派な人だったと聞いている。小さい頃から、僕の顔は父によく
似ているとも言われた。
「ところでさ、男性恐怖症の女の人ってそんなにいるもんなの?」
少し年上の意見も聞いてみよう。
「達也、その雰囲気で女の子に近づいたらアウトよ。ただでさえ
冷血漢に見えるんだから。でも、母さんは本当は優しい子だって
分かってるからね。まずは親が信用しないと子供はグレるわ」
実の母親にも冷血扱いか。少し性根を考え直そうかと落ち込む。
「既にグレかかってると思う。それはさておき、もしそうなら、
知らない奴なんて願い下げのはずだよな。いたって自然だった」
「あんたから話しかけたの」
「そうだけど。今日図書館で見かけたから」
「秀一君あたりを連れていけば良かったのに。自分から行動する
なんて珍しく積極的ね。それとも彼を連れていくと彼女を取られ
ちゃうから? それなら母さんが品定めに行かないと」
こんな母親が品定めに行ったら、いつの間にやら結婚まで取り
付けられてしまいそうで恐ろしい。少し真剣な顔になる。
「あんたみたいなのが話しかけて大丈夫なら、恐怖症ってほど
ひどいわけでもないでしょう。やっぱり、そういう心の病気は
過去に何度か男から暴行やイタズラを受けたりしてる子なのよ」
最近、プリクラに男だけで入るのが禁止されていると聞いた。
一時期には、そこで男が待ち構えて女性にイタズラをする事件が
流行ったらしい。周囲の音が比較的大きく、密室でもあるそこは
くだらない思い付きをする彼らにとって格好の仕事場だったのだ。
「やっぱり、安田への生理拒絶説が有力か。ご愁傷さまです」
「教師が女子生徒に手を出すのは黙っておけないわね。達也君の
出番じゃない。もしかしたら、ありがちな展開であんたにも好機
があるかもしれないわよ。あぁ、図書館の彼…って」
「大した話はしてない」
「どうせそんな様子で淡々と話したんでしょ。それでいいのよ」
「普段は熱くならなそうなところがまた、って?」
「そう、ギャップ萌え、よ」
どこでそんな現代用語を覚えたのだ。呆れていたら、玄関から
優花の声がした。
「お母さん、なんか今日お兄ちゃんが図書館できれいな女の人と
話してたって塾で聞いた」
優花の塾には何人か同じ高校の人間が通っている。壁に耳あり。
「そうなのよ。今も達也から恋の相談を受けてたの」
恋の相談は頼んでいない。勝手に妄想で話し始めただけだ。
「もし週刊誌に撮られてたら困るわね。母親にもインタビューの
依頼とかくるかしら」
断じてないと思う。別に芸能人ではない。
「血の通っていない兄がやっと恋の素晴らしさに目覚めたのね」
彼らは僕の全人格を否定している。
「落ち着きがある、くらいにしないか」
第三章
週明けの月曜、普段の登校時刻よりも少し遅れて教室に入ると
常時よりもざわめきが大きいことに気がついた。
「何かあったのか」
隣の席で化学の教科書を開いている秀一に尋ねてみる。
「直接聞いたわけじゃないが、断片的に聞こえてきた話をつなぎ
合わせるとこんな感じになる」
先週、僕が青山翠と図書館で話した金曜日に、優花と同じ塾に
通う女子生徒の一人が帰り際不審者から声を掛けられたらしい。
言葉を発する間もなく、男は彼女の手首をつかんで、…笑った。
幸い、すぐさま手を振りほどいた彼女は近くの書店に駆け込んで
最悪の事態は免れたが、男は姿を消していた。何しろ手がかりが
少なく、男は未だ見つかっていないという。
この程度の事件なら田舎町でもさほど珍しいものではないが、
女性にとって、帰り道の不審者や電車の中の痴漢という危険は
ニュースで紹介される殺人犯よりも断然リアリティがある。
「怖いよねー。青山さんみたいに綺麗な人は狙われる確率上がる
んだから。気を付けないと」
女子の一人が話しているのが聞こえた。口ぶりには少なからず
妬みが含まれている気もしたが、それを気にも留めないように、
青山翠は微笑んだ。
「やめてよ、そんなお世辞言うのは。でも、本当に怖い」
彼女には珍しく感情のこもった声だったので、少し意外だった。
先日の話し振りから察するに、自分の身を守る行動力と聡明さは
持った子だと思う。それ以前に、一人の女の子だということか。
隣に目線を戻したら、いつの間にか教科書が古典に変わっていた。
相変わらず読むの速いなコイツは。
「お前の愛する、いや、お前を愛する女性たちの危機に、古臭い
恋文なんて読んでていいのか」
「達也、未だ恋を知らず、焉んぞ愛を知らん」
どうやら漢文の単元だったらしい。それにしても、孫子といい
やたらと中国が好きな奴だ。
「孔子の格言を悪用するのはどうかと思う」
「悪用はしていない。応用だ。それを言うならお前のほうだろ。片思いからの発展は、悪人から守ってやるのが定石だ」
どうやら青山翠のことを言っているらしい。続けて言われた。
「露骨に見過ぎだよ。お前みたいな奴だと本気に見える」
確かに、気になると周りが見えなくなる性分から、最近はかなり
彼女の方ばかり見ていたかもしれない。けれど…、
「それは割とお前にも言えると思う」
むしろ、コイツの場合は本人のうかがい知らないところで先方
に迷惑を掛け得る。女の手綱を引ける立場にいることはゆめゆめ
忘れないでもらいたい。
「まぁいい。それに、お前の妹も年頃だろ。帰り道とか送り迎え
してやった方がいいんじゃないか。どうせテスト期間だし」
「たぶん、優花は嫌がるだろう。冷血漢のエスコートじゃどっち
が不審者か分からない、とかな」
秀一は思い切り噴き出して、笑ったままの顔で言った。
「達也、お前は妹にもそんな謂れを受けてるのか」
「…お前も含めてな。それに、あいつはお前に送ってもらった
方が喜ぶと思う。先日、お兄ちゃんの良いところは秀一さんの
友達だってことくらい、と衝撃的な言葉を頂いたばかりだ」
彼は大げさに肩をすくめた。
「兄の面目丸つぶれ、か」
「どんな名医でも元の顔に復元するのは難しいだろうな」
**********************************************************
その日は図書館に寄らず真っ直ぐ家に帰った。母はまだ帰って
いないようだ。代わりに優花の靴がある。
「今日は塾じゃなかったのか」
リビングで雑誌を読む年頃の妹(秀一曰く)に声を掛ける。
「あ、お兄ちゃんか。うん、今日は休みにした。どうせテスト
対策授業だから問題集やるだけだしね。家でもできる。あと、」
妹には珍しく言い淀んだので、戸惑いながら尋ねる。
「あと?」
「翔子が今日は行かないって言ってたから」
「翔子ちゃんって、あの、たまに遊びに来る子か」
「そう、いつもお兄ちゃんがいやらしい目で見てるあの子」
いつ誰がそんな目で見た。こういう軽口は母親譲りである。
最近は一人でさえ扱いづらい母が二人に増えたような気もする。
「風邪か? 今の季節には珍しいな」
「ううん、お兄ちゃんも聞かなかった? 例の不審者の話」
そうか、やはり年頃の女の子には怖いものなんだと一人で納得
していたら、少し声を小さくして優花が言った。
「実は、被害者の子って翔子なのよ。私は朝に聞いたんだけど」
そういうことか。昼間の学校ならまだしも、さすがに夕方からの
塾に昨日の今日で行くのは怖いだろう。
「それは大変だったな。何でも、いきなり声を掛けられて手首
をつかまれたんだって?」
少しデリカシーがなかったかもしれない。表情を暗くする。
「翔子は少し温室育ちなところがあるから、こういう危ない目に
初めて遭ったことにかなりショックを受けてるみたい。帰り掛け
家に寄ってきたんだけど、気持ち悪いって言ってた」
「気持ち悪い? 吐き気って意味じゃないよな」
なにが気持ち悪いのだろうか。まぁ、それは不審者に話し掛け
られたら気持ち悪いのも当然か。
「なんかね、その男に掛けられた言葉が変なの」
「どんな?」
「『俺の顔が見えるか?』って言われたみたい。不気味でしょ?」
顔? 目撃情報を恐れているのか? 仮に『はい、見えます』
と言ったら『忘れてくれ』とでも頼むのだろうか。『見えない』と
言ったら見逃してくれるのか。全く目的が見えない。
「暗くて顔はよく見えなかったらしいけど、何かおかしいよね」
もちろん、変質者は往々にしておかしいのだが、そのベクトルが
よく分からない方向を向いている。ホームズに情報提供をしたら
何か分かるだろうか。
「そうだな。まぁ、しばらくは夜に出歩くなよ。どうしてもって
時には俺がついていってやるから」
さっきまでの暗い面持ちから、少し顔をほころばせる。
「冷血漢もたまには優しいのね」
予想とは違うニュアンスだが、本質的には同じような反応だ。
エスコート拒否とまではいかなかっただけマシとする。ならば、
こちらの反応はどうだろうか。
「なんなら秀一を呼び出して送り迎えしてもらってもいいぞ」
なるべく冗談めかして言ってみた。
「うん、なんかすごくコンビニ行きたくなってきた気がするわ。
あ、まだ呼ぶのは待って、化粧直してくるから」
僕の兄としての存在価値は、本当にあの男の友達というだけだ
と確信を持った瞬間だった。
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しばらくの間、近辺の女子生徒は夜に出歩けない日が続いた。
警察が定期的に巡回していたこともあり、その男が再び現れる事
はなかった。もちろん、それは良いことだ。しかし、僕の中では
その男の言った『俺の顔が見えるか』という言葉が引っ掛かって
いた。
「何で顔なんだろうな」
優花から聞いた話を教えると、秀一は首をひねった。しばらく
考えたように天井を見上げて、
「普通はこうじゃないか」
と切り出した。
「非凡な才能の持ち主が普通を語るか」
「まぁ確かに俺には異常者の気持ちは分からないが、往々にして
問い掛けっていうのは相手の意見を求める以外の目的もあるだろ」
それ以外の目的?
「例えば、耳の遠い人に『私の声、聞こえますか』って尋ねると
するだろ? そういう時、その目的は相手が声を聞けるかどうか
というより、これから話したいことがあるっていう意思表示だ。
聞いてくれ、って。もしくは今までの話が理解できたかの確認」
なんだか回りくどくて分かりにくいが、ようするに、相手の意見
を聞くという行為は、暗に相手へ行動を促すためにも用いられる
という趣旨だろう。
「つまり、男は相手に自分の顔が見えるかどうか知りたかった
のではなく、自分の顔を見て欲しかった、ってことか」
「そういう可能性もある、ってことだ」
だが、
「犯罪者が自分の顔を見て欲しいっていうのは、捕まりたいって
願望なのかな」
先日、ニュースで取り上げられていた十代の青年は、数人もの
女性を暴行し、殺害まで至った動機を『死刑になりたかったから』
と語ったという。もう生きてても意味ないから、と。世の中から
必要とされない命を絶ち切る為に、なぜ生贄が必要なのだろうか。
自分はそれだけの価値があると示したかったのかもしれない。
「異常者ならあり得るだろ。もともと、そういう犯罪はそいつの
強すぎる自己顕示欲を発端としていることが多いからな」
いずれにしても真意は分からない。それに、ただの不審者だ。
「別に、まだ何か起こったわけじゃないしな。忘れよう」
**********************************************************
その日の帰りは、少し話がしたい気分だったので、図書館へと
足を向けた。図書館は好きだと言っていたし、なんとなく今日も
いるのではないかと思ったのだ。ますます強さを増した日差しに
辟易しつつ、歩を進める。
書棚の隙間から、先日と全く同じ姿勢で本を読む青山翠の姿が
見えた。窓際の机の端という位置も変わらない。窓からほのかに
射す光が端正な横顔を照らしている。さながらギリシアの彫刻…
などと気の利いた形容をした方がいいのかもしれないが、僕には
彼女を表現する語彙が不足していた。
「そう言えば、いつも君は何を読んでいるの?」
多少唐突な話題だが、この前と違って初対面ではない。なぜか
彼女は怪訝な顔をして、こう切り返してきた。
「あなたは?」
え、こっち? なかなか手綱を握らせてくれない。女版秀一。
「僕もさすがに今日は辞書じゃない。来週の生物対策に図鑑を」
彼女は納得がいったというように頷き、少し微笑んで言った。
その笑顔は反則だと思う。イエローカード。警告。
「生物では言葉による概念の把握って手は通用しないの?」
「生物はやっぱりイメージだと思う。イメージによる概念の把握」
僕も自然と口元がほころぶ。
「それで図鑑なのね。私はいつも図書館では詩集を読んでるわ」
詩集。それは彼女にぴったりハマる気がした。いや、でも、
「今はテスト期間だろ。勉強しろよ」
わざとらしく肩をすくめて見せると、彼女はまた微笑んだ。
だからそれは反則だって。レッドカードまであと一枚。
「詩の世界から、古文に通ずる『あはれ』の心を学んでるの」
「本居宣長が聞いたらきっと喜ぶよ。だけど」
「だけど?」
「古文のテストは今日終わったばかりだ」
彼女は笑顔を消して、わざと高飛車に見えるよう目を細めた。
「学問は実用に堪えないことが多いものよ」
彼女の多彩な表情を見ていると、少しは僕に心を許してくれて
いると思えた。少なくとも、クラスの女子達に向けたお客様用の
顔ではない、などと考えるのは調子に乗り過ぎだろうか。
「ところで、最近は外を歩くのが怖いことになったね」
僕がそう切り出すなり、目に見えて彼女は表情を暗くした。
「そうね」
レッドカード退場は免れたが、笑顔を奪ってしまったようだ。
続けてフォローする。
「でも、いつもはこの町もそんなに危なくはないんだ。地域の
防犯体制も整っているし、民家に駆け込めばかくまってくれる」
浮かない表情を変えずに彼女は呟いた。
「うん。こういうのは、どこでもあることだしね」
どこでもあることだから、怖いのだ。人間は自らの想像の範疇
にあることを一番恐れる。イメージできないことは、困惑をする
他ない。そう言えば、
「妹から聞いたんだけど、男は『俺の顔が見えるか』って声を
掛けたらしいんだよ。どちらかというと変質者タイプなのかな」
その台詞を聞いた途端、彼女は大きく目を見開いた。そして、
顔を引き攣らせながら尋ねてきた。
「その男って、どんな雰囲気だったか、分かる?」
この子は何かを知っているのだろうか。
「いや、僕は何も聞いていないし、暗かったから相手の顔は見え
なかったみたいだ。手掛かりは声が男だってだけ」
少し顔色が悪い。いたずらに怖がらせてしまった。デリカシー
がないのは僕の悪いところだ。二度目。
「そう」
含みを持たせた言い方に、何か知っているのか、と尋ねようか
とも思ったがそれこそ冷血漢なのでやめた。この子に言われたら
立ち直れないかもしれない。
「大丈夫、すぐに捕まるよ」
僕の言葉など聞こえていないように、目線を机の上に向けて、
彼女は俯き加減で何かを考えるようにした。これ以上は話すべき
ではない、と判断したので、僕はさほど興味のあるわけでもない
図鑑に目を落とす。クラゲは軟体動物ではなく腔腸動物。へぇ。
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何時間が経っただろうか。図鑑を見飽きた僕は数学の問題集と
化学の参考書を経て、ペン回しの技術向上に努めていた。ふと、
顔を上げると青山翠がこちらを見ている。
「どうしたの?」
尋ねたら意外な答えが返ってきた。
「商店街の通りまででいいんだけど、送ってくれない?」
女性からエスコートの依頼。優花、お前は男を見る目がない。
利用者カードを返却して、ひんやりとしたノブに手をかける。
外はもう日も暮れかかっていた。それでも館内よりは暖かい。
彼女と僕は図書館を出ると並んで歩き出す。美人と肩を並べて
歩くのは、悪い気はしないが多少緊張をする。注目される野次馬
がいるわけでもないのに。週刊誌に撮られたらどうしようか。
彼女はと言えば、特別何を言うでもなく、何かを考えるように
しながら俯いていた。そんな顔をしないでくれ。まるで周りから
女を泣かせてるように見えるだろ。風評被害。商店街の近くまで
差し掛かる寸前、いつもの声でお呼びがかかった。
「おい、タツ坊」
そうだった。ここにはこの婆さんがいた。
「今日はずいぶん別嬪さんを連れてるじゃないか。お前には勿体
ないくらいの」
「後半は否定しないけど、一応ただのボディーガード」
「お前にガードできるのは白熱灯に群がる蛾くらいのもんだろ」
確かに、僕はどちらかというと細身で頼りないかもしれない。
「いや、カブトムシとかでもイケると思うよ」
彼女の方を見やると、いつの間にか笑顔が戻っていた。退場。
「お誉めに預かり光栄です。私のわがままで王子様にエスコート
して頂いてます」
相変わらず口のうまい子だ。なぜ僕の周りにはこういう強かな
女性が多いのだろうか。それとも、僕が弱いだけか?
「お姫さまはわがまま言うのが特権だよ。こんなダメダメ王子で
良かったらいくらでも使ってやってくれ」
「遠慮なく」
あんたは別に僕の祖母ではないし、許可権ないだろ。初対面の
ユキ婆と青山翠の息が驚くほど合っていることに少し慄いた。
「あたしも、若い頃は爺さんから大事にされたよ。もうあの人は
あたしにぞっこんだったからね」
八十三にもなってぞっこんとは何だ。ユキ婆の夫はかなり前に
亡くなっている。煙草を吸う人ではなかったが、肺ガンだった。
こんなことなら吸わせてやるんだった、と見当違いの後悔を呟く
ユキ婆の目には、涙が滲んでいた。
「ユキ婆のとこの爺さんも、若い頃はモテたんだろう。母さんが
言ってた。案外、ユキ婆の方がぞっこんだったんじゃないのか」
彼女は少し遠くを見るような目をして、ゆっくりと言った。
「そりゃそうさ、両想いならぬ両ぞっこんだったよ。あたしも、
若い頃には雪のような白い肌の雪子って町の評判でねぇ。色んな
男が寄ってきた。でもあの人はいつもむすっとしてて。絵を描く
のが好きだったんだ。丘の上で私の絵を描いてくれてさ、それが
爺さんなりのプロポーズだったんだろうね。…もし、」
堰を切って溢れ出す思い出を並べるように喋った後、ユキ婆は
口をつぐんだ。少し間を置いて空を見ながら、穏やかに呟く。
「もし、死ぬ時には…最期には、やっぱりあの丘の上がいいね」
彼女の目には、今もどこかにある丘と、その頃の二人が映って
いるのだろう。あの日彼女の目に滲んだ涙には、確かにその二人
が宿っていたのかもしれない。
「素敵な夫婦だったんですね」
青山翠は静かに言って、少し、瞬きをするようにした。そこに
涙の色を見た気がするのは、彼女を美化し過ぎているだろうか。
「まぁ、辛気臭い話はこの辺にしようか。さ、馬車馬はさっさと
お姫様を送っておやり」
気付くと、王子から一気に馬へ格下げされている。
第四章
まさか、こんなに早くこの場所が見つかるとは思わなかった。
親戚にも、友人にも一切の情報を残さず町を去ったはずなのに、
あの男はこの町まで嗅ぎ付けてきた。
もしかしたら、私の知らないところで母の中にはほんの少しの
心残りがあったのかもしれない。それが、再びあの男を呼び寄せ
たのだ。この町は、どこかあそこに似ている。
汗をかくグラスの中で氷が溶けていくように、少しずつでも、
嫌な思い出はその密度を薄めていくはずだった。私も、あの頃の
自分に戻れることを信じていた。少なくとも、あの彼の前でなら
昔のように笑うことができた。彼は少しだけ、似ている。
これから、あの男は私の前に姿を現すはずだ。私はそれを予感
している。そして、その時の私はどうするのだろう。
いや、どうすればいいのだろう。
繰り返し聞こえるあの声に、私の耳はもうどんな空気の振動にも
電気信号を送らなくなるのだろうか。感覚が一つずつ失われて、
私の脳が受け取るものは、やがて自身の心臓の鼓動だけになる。
冷え切った部屋に一人きりでいる恐怖は、そのときの孤独に最も
近いのかもしれない。
**********************************************************
テスト期間も終盤、残りは芸術関連のテストのみとなった。
大学受験を推薦で乗り切ろうと画策する生徒とそうでない者との
温度差が最大になる頃である。内申を稼ぐには、芸術のテストは
比較的おいしい。僕はと言うと、どっちつかずに音楽の教科書を
眺めている。箱根の山は天下のけん。瀧廉太郎。けんって何だ。
「おい、見たか? 総合成績、もう外に貼り出されてるぞ」
上位三人くらいは見に行くまでもなく、周囲から聞こえてくる
話だけ聞いていれば把握できる気もした。
「秀一は論外として、まさかの穴馬が二位に付けるとは」
全国偏差値や内申点が学生の知性を測れるかどうかは甚だ疑問
だが、高校という狭い世界に限るなら、それは一定のステータス
になる。それが社会に出た後も通用すると勘違いした人間は多い。
「おめでとう、穴馬君」
秀一がにやけた顔で目を向けてくる。今、この顔を全校生徒に
公開すれば、この男の人気も少しは翳りを見せるだろうか。
「お前の立場では、それは嫌味以外の何物でもない」
「本気出さない奴が俺と勝負しようなんて百年早い。嫌味なんて
言う必要性すらないな」
僕は、基本的に物事に対して熱くなるタイプではない。それは
秀一にも言えることだが、彼は卓越した才能にも決して陶酔する
ことがない。恥をかくべき時は恐れずに泥を被るし、必要ならば
決断を躊躇わない。僕は、友人の一人でありながらその泰然自若
とした姿勢に憧憬の念を持っているのかもしれない。ないない。
「特に、生物の大躍進には目を瞠ったよ。お前、確か一番苦手な
科目だったろ」
僕は中学生の頃から生物分野が嫌いだった。酸素原子の結合や
台車の運動のように、シンプルな基礎法則に従う対象に比べて、
植物の構造や人間の消化器官は複雑過ぎる。ようするに、面倒な
ことは嫌いなのだ。
「たぶん、今後の人生でこれ以上真剣に生物図鑑を読み込むこと
はないと思う」
「なんだ、今さら図鑑の面白さに目覚めたのか昆虫少年」
そのフレーズに、どこかで聞いた台詞を思い出した。
「やっぱり、蛾だけじゃ頼りないからな。カブトムシ辺りからも
守ってやらないといけない」
「何の話をしてるんだ」
**********************************************************
この高校では、理科系の授業は別教室で行われる。以前の学校
では実験のある時以外はクラスで授業をやっていたから、多少の
面倒さを感じる。実際、物理や化学の授業をするために理科教室
を使う意味はないし、白衣を着る必要もない。要は雰囲気だ。
「私、ちょっとお手洗い行ってくるね。先に行ってて」
廊下を歩いていたら、声をかけられた。
「君、C組の転校生だよね。ちょっといいかな」
「何か用ですか?」
口ぶりからすると、他のクラスの男子のようだ。
「いや、すぐ済むからさ」
すぐ済む、と言うからにはそうなのだろう。
「でも、ちょっと立て込んだ話だから、移動しない?」
男はわざとらしく親指を横に向けて、左手で私の手首を掴む。
「ちょっと」
「まぁいいからいいから。別に変なことするわけじゃないって」
これだけ強引に女を連れ回す時点で十分な横暴だろう。密室に
連れて行かれたらまずいな、と思ったが、さすがにそこまで芸の
ない男ではないらしい。特別棟の渡り廊下の隅で手を離された。
「ちょっと手荒なマネになってごめん。やっぱりこういうのは、
静かなところがいいかと思って」
それはあなたの都合でしょう。今さら紳士ぶるところも滑稽だ。
「手短にお願いします」
「俺さ、テニスプレーヤーの割に直球でしか言えないんだけど」
直球の割に回りくどいが。
「きっと、俺のことなんて知らないと思うけど、君を初めて見た
時に一目惚れしました。友達からでいいから、知り合いになって
くれないかな」
私が転校してきて、まだ一ヶ月も経っていない。一目惚れなら
行動に移すのが早過ぎるだろう。ずいぶん堪え性のない男だ。
自分は軽薄ですと言っているようなものではないか。
「お断りします」
ごめんなさい、とは言わない。こちらに非はないはずだ。
「…」
男が言い淀む。そこに偶然通りかかった女子生徒が声を掛けた。
「氷川くん、そこで何してるの?」
彼女は私を目で確認するなり、少し慌てたように手を振った。
「あ、ごめんなさいっ…。私、気付かなくて…」
彼女は私に言ったのだろうが、代わりにその氷川と呼ばれる男
が答えた。
「いや、別にいいんだ。もう、用は済んだから」
どうしてもそれを既成事実にしたいらしい。姑息なやり口だ。
彼女がいるうちに、はっきりと否定をしておく必要がある。口を
開こうとしたら、氷川の言葉に遮られた。
「俺も、彼女みたいな子に話しかけられるとは思わなかったよ。
もちろん、まだただの友達だよ? ね、青山さん」
わざとらしく肩をすくめた彼は、微笑んだように思えた。
どうやら機転も利く男のようだ。全く感心はできないが。
「そうなんだ…。青山さんみたいな人なら氷川君にお似合いだよ」
そう言って、彼女は小走りで特別棟に駆けていった。どうやら
氷川に気があったようだ。彼は知ってて利用したのだろう。
「これで、晴れて友達になれたわけだ」
「あなた、こんな手で何が得られると思ってるの? 楽しい?」
怒りを隠さず言う私に、彼はゆっくりと答えた。
「そんなの、―――――――――でしょ」
**********************************************************
音楽の教科書を一通り(何をもって終わりなのか分からないが)
読み終えた時、隣で秀一が大きく伸びをした。
「おい、達也。次、移動教室だぞ」
欠伸と情報発信を同時にするな。正直、何を言ってるのかよく
分からない。もう一度聞き直してみる。
「もう一回言ってくれ」
「Next session will be held in experimental room, you should stand up」
「いや、英訳しろとは言ってない」
流暢な英語は結構だが、いちいち勘に障るやつだ。まぁ、他の
人間にこういう悪ふざけをすることはないから、ある程度僕らの
間には信頼関係と呼ばれるものがあるのだと思う。
「とにかく、あの化学教師は時間にうるさそうだから、早めに
行動するのが得策だってことだ」
言えている。先日の絶妙な空気感を作り出した時代錯誤の言…
(みなまで言うまい)は明らかに時間の無駄だった気もするが。
「そうだな。ちょっと待ってくれ。耳栓を持っていこう」
「それじゃ話が聞こえないだろ」
「オヤジギャグから学ぶべきものは何もない」
**********************************************************
特別棟に向かうには、本校舎から渡り廊下を渡って特別棟へと
移動する必要がある。僕らのC組はちょうどその渡り廊下の角に
当たる場所にあるのでさほど距離があるわけでもないが、多少の
面倒さを感じる。その角に差し掛かると、柱の影になった辺りに
二人分の学生の姿が見えた。何をしているのだろう。
「おい、あれ青山じゃないか?」
秀一がそう指摘するので、目を向ける。確かに、男の後ろ姿の
奥に紛れもなく青山翠の顔があった。その表情は能面のようで、
何の感情も示していないようだった。僕は直感的に、その感情が
怒りだと思った。もしかしたら、彼女が男と二人きりでいる事に
少なからず嫉妬していたのかもしれない。彼女が不機嫌だと思う
ことで納得をしたかったのだ。
「あれは…氷川か。青山、面倒な奴に目を付けられたみたいだ」
秀一が苦虫を噛み潰したように言って、続けた。
「氷川は、うちの部でもなかなか頭の切れる奴なんだが、どうも
女遊びの過ぎるところがある。なまじっかモテるからな」
「お前と似ているようで対極の位置にいる奴なわけだ。少しだけ
爪の垢でも煎じて飲ませてもらえばいいんじゃないか」
秀一は小さい頃から続けていたから、という理由でテニス部に
所属している。別にサッカーでもバスケットでも構わなかったの
だろうが、チームプレイより個人の方が自分を追い込めるという
ことも理由の一つらしい。僕にはよく分からない気持ちだ。
「むしろ、あっちが煎じて飲む側だろ」
なるほど、よほどに浅薄な男のようだ。秀一が他人に不快感を
表立って示すことはなかなかない。青山翠は大丈夫だろうか。
こんなやり取りをしている間に、通りかかった女子生徒が二人
に近づいて何か話した後、足早に特別棟へ向かった。泣きそうな
表情で。見送った後、氷川とかいう男が大げさに手振りを交えて
何か話した様な気がした。その瞬間、青山翠の表情が、一変する。
すぐさま氷川を突き飛ばし、こちらに向かって駆けてきた。
すれ違いざま僕の方を一瞥すると、悲しいような、蔑むような
目が僕の瞳を捉えた。目線を前に戻し、彼女は特別棟に消える。
「どうしたんだ、青山があんなに取り乱すなんて」
秀一は疑問を隠そうともしない。僕に問い掛けたのだろうが、
僕の網膜にはしばらく彼女の表情が焼き付いて離れなかった。
少しだけ、胸の奥が鈍く痛んだ気がした。
**********************************************************
耳栓を準備してきたものの、今日は先日のテストの返却と講評
をするだけだったので、出番はなかった。『今回は非常に出来が
良かった』と言う化学教師はさも自分の功績だとでも言うように
満足気だったが、今回振るわなかった生徒の立場はどうなるのか
とも思った。何人か、頭をうな垂れて呟いている。『死んだ…』
「青山は転校してきたばかりだが、よく頑張ってくれたな」
青山翠が教壇に答案を取りに来ると、化学教師はそう言った。
彼女は答えるでもなく答案を受け取って、元の席に戻る。やはり
氷川と何かあったのか。いずれにしても僕には関係ない、はずだ。
「あれはどう見るべきだろうな」
秀一が僕の顔を覗き込んでくる。
「気になるんだろ?」
近い。と言って振り払う。
「寝静まってから現れる蚊の気配くらいには、気になる」
「それは気になると言うより気に障る、だろ。なんだ、お前も
嫉妬するんだな冷血男」
「Shit!」
「達也、耳栓を貸してくれ」
**********************************************************
芸術科目とは言えテストはテストである。必要かどうかは別と
しても、テスト期間は一応続いている。そもそも、本当に必要と
されるものなんて世の中にはほとんどない。
今日も図書館に寄ろうか、と思ったが、やめた。彼女がそこに
いたとしても、うまく話をできるとは思えなかった。自分の中に
これほど波風を立てられたのは初めてだった。惹かれている事を
自覚させないほど、鮮やかに心は奪われていた。あれ、心どこ?
商店街の近くに差し掛かって、交差点を直進する。今日は左折を
忘れたわけではない。
「なんだい、辛気臭い顔して」
「そんなに辛気臭い顔してるか」
ユキ婆は、ふるふると頭を振って手を横に広げた。
「大統領から世界の終わりを知らされた国民みたいな顔してるよ」
世界の終わり。初めて人と積極的に関わりたい、という気持ち
が世界の始まりだとしたら、そうかもしれない。
「世界はどうして滅ぶんだと思う? 宇宙人の侵略かな」
「たぶん、大統領の方から宇宙人と取引きするんだろう」
なるほど、やはりそれが正解かもしれない。
しばらく立ち尽くしたまま、蝉の声を聞いていたら、頃合いを
見たのかユキ婆が口を開いた。
「どうせ、この前のきれいな子のことなんだろ?」
だから、その断定口調は何を根拠にしている。女の勘、だとか
言うなら僕も女に生まれれば良かったと後悔する。
「そうなのかな。自分でもよく分からないんだ」
そう、これは本音だった。別に、僕は女性の外見に心惹かれる
ようなことはないし、あぁ、きっと男ならこういう態度されると
喜ぶんだろうな、などと客観的に眺めてしまう。それでも、何を
間違えたのか知らないが、何人かは僕に歩み寄ろうとしてくれた。
けれど、僕は彼女たちに答えることができない。その距離を踏み
越えることの恐怖なのか、それとも独りよがりな美学か。
「私には、あなたが分からない」
彼女たちはみな、そう言って去って行った。悪いのは僕だ。
秀一のように強い芯を持った人間でもないくせに。人を愛せる
資格、というものがあるならば、僕にそれがあるはずはない。
「お前は分からないんじゃなくて、分かろうとしないんだよ」
「僕は、いつも間違えてばかりだ」
「達也」
聞き慣れない呼び方に、戸惑う。
「お前は間違えたりしない」
大丈夫だ。そう続けて、ユキ婆はいつもの皴がれた顔に戻る。
「まぁ、あんたみたいなのじゃ万に一つの可能性もないけどね」
残念。とでも言うように、箒を手に取り掃き掃除を再開する。
潰れてしまえ、こんな店。
「もう少しマシな励ましの言葉はないのか」
この婆さんらしい。自意識も存在しない頃から見られていたら
僕よりも僕のことを分かっているのは当然かもしれない。ふと、
箒で掃く手を止めて、彼女が言った。
「じゃあ、隕石があたしの頭に当たるくらいの確率」
「いっそ当たればいいと思う」
第五章
「休みの日くらい、どっか行かないの? 邪魔なんだけど」
煎餅を齧りながら優花が言う。え、邪魔って、存在がですか?
「いや、今を時めく女子高生がテレビ見ながら煎餅齧ってるのも
休日の過ごし方としてはどうかと思う」
うるさいわね。そう膨れて、乱暴にテレビを消す。いや、僕も
見てたんですが。
「あらあら、兄妹の仲が大変よろしくて母としては嬉しいわ」
「お母さん、お兄ちゃんが優花を苛めるの。なんとか言って」
この家で虐げられているのは間違いなく僕だ。断言できる。
「達也、あんたは本当にデリカシーないんだから」
それは否定できないが、そういうあんたにも相当ないと思う、
そう出掛かったところで電話が鳴った。
「はい、はい…。それで? …すぐに行きます。達也も連れて」
常に見ない母の暗い顔は、事態の深刻さを予感させた。
「達也、急いで外に出る支度しなさい」
「どうしたんだよ、何があったのか教えてくれ」
母さんは小さく息を吸い込んで、一息に言った。
「雪子さんが、倒れた」
**********************************************************
町内には小規模な診療所がいくつかあるが、救急車で運び込む
ことのできるような場所ではない。隣の市内にある病院に向かう
までの間、母はしきりに自分の腕をさすっていた。母がこんなに
狼狽するのは初めてかもしれない。タクシーのフロントガラスに
滴が落ちる。
病院には、静寂があった。外の光も届かない暗い廊下の端には
黒革の長椅子と赤いランプが見える。TVドラマのセットの様に
まるで現実味がなかった。息子らしき人に会釈し、母と僕は隣に
腰を下ろした。
「容体は、どうなんですか」
耐えきれないように母が尋ねると、彼は大きくうな垂れた。
「クモ膜下の出血は一秒一刻を争うらしいんです。もし、酒屋の
鈴木さんが軒先で倒れてるのを見つけてくれなかったら…」
「お医者様はなんて?」
「難しい手術になる、と言っていました。もし万が一助かっても
重い障害が残るだろう、と」
部屋の空気が質量を増す気がした。アインシュタインが言った
ように質量がエネルギーならば、それは僕らの心が発したものだ。
しばらく沈黙が続いた後、彼がゆっくりと口を開いた。
「母は、達也君や美映子さんの話をよくしました」
「はい」
母の答えは、分かっている、という同意にも、そうですか、
という感嘆にも聞こえた。
「美映子さんが、達也君と優花ちゃんを女手一つで育てるのを
本当に心配しているようでした。きっと、あの子ならいい人が
すぐに見つかるだろうに、とも」
明るく、人当たりの良い母が、近所の世話好きおばさん達から
しきりに見合い話を持ちかけられているのは知っている。それを
『私には勿体ないわ』とやんわり断る母には、僕たちへの負い目
があるのかもしれない。けれど、リビングの写真立ての中に佇む
父の笑顔を見つめる母の瞳を見ていると、その理由は別にあると
感じていた。
「私の心は、あの人の棺の中に置いてきたんです」
これからもずっと。そう呟くと、母は僕に微笑んだ。
「あんたが大きくなったらあの人に似るかしら」
「気持ち悪い目で見ないでくれ」
**********************************************************
病院の外に出ると、いつの間にか大粒の雨が白いコンクリート
を濡らしていた。あの太陽のような婆さんには、似合わない。
ユキ婆は、助からなかった。けれど、重い障害を残して、口も
聞けず目も開かない彼女を見たくなかった。それだけが、唯一の
救いだと信じるしかない。母は、人目を憚るでもなく嗚咽を溢れ
させていた。化粧が台無しだ。こういう時、僕には母の直情さが
羨ましい。感情を押し殺して心に蓋をすることは簡単だ。それが
胸の中で軋む音を、僕は感じている。ひび割れたそこから、血が
流れ出すのをただ眺めるだけでいい。
葬儀はしめやかに行われた。単調なリズムで響く木魚の音には
心地良ささえある。人が感情を共有する上で必要なのは、簡略化
された旋律なのだろう。念仏に思念が宿るなら、旋律には死者の
痛みを癒すことができるだろうか。ユキ婆の一人息子は、立派に
喪主を務めあげた。隣で彼を支える妻も、本心から彼女のために
涙を流しているようだった。
正面を見ると、昔の、いや少々若すぎるユキ婆の姿があった。
常日頃こぼしていた、本人たっての希望だったらしい。葬式では
とびきり若い写真を、と。…あながち嘘でもなかったか。
**********************************************************
立ち上っていく煙を見送って、僕は踵を返した。あの空には、
彼女の居場所があるだろうか。まぁ、あの図々しさがあるなら、
あっちでも駄菓子屋の一つや二つくらい経営できるだろう。
ふと、前方に人影を見ると、ユキ婆の息子さんが何かを持って
僕の方に近づいてきた。
「達也君、ちょっといいかな」
「はい」
僕が頷くなり、彼は手に持った白い封筒を僕に手渡した。
「これを、君に持っててもらいたいんだ」
手紙にしては厚みがある。
「何ですか?」
「母の骨なんだ。納骨の為にいくらかとっておくものなんだけど」
「なんでそれを僕に」
もちろん納骨に余ったほんの一欠けらだろうが、親族でもない
自分にそれを譲る理由が分からない。
「実は僕もよく分からない。でも、母がそう望むと思ったんだ。
母は君をもう一人の息子のように思っていたみたいだから」
断る理由はない。一礼して、僕は再び歩き始めた。
**********************************************************
休日にはそれなりの賑わいを見せていると思ったが、そこまで
ごみごみとしているわけではなかった。その日、僕は、気付くと
図書館のエントランス前にいた。
ひんやりとした空気に身震いしながら、奥の書棚に目を向ける。
彼女は今日も同じ場所で、詩集を読んでいた。…いや、必ずしも
詩集とは限らないのだが。先入観。
彼女は、いつかのように正面へ腰を下ろした僕に気付くわけでも
なく、髪を横に流して俯いている。相変わらず、罪な子だ。
「こんにちは。今日も詩集なのかい」
努めて明るく話しかけると、彼女は僕の目を見た。
「あなたは、何も読まないのね。図書館なのに」
図星を衝かれた。ごまかす必要もないので、正直に答える。
「僕は、図書館を君との待ち合わせ場所だと思っている」
彼女は少し笑って、口先を尖らせる。
「あら、それはデートのお誘い?」
「そうとってもらって構わない。この前は君の頼みを聞いたから
早めに借りを返してもらわないと利子が膨れ上がるばかりだ」
「気付いてないかもしれないけど、それは軽い恐喝よ」
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あの日のように肩を並べて歩く。慣れたからなのか、緊張感は
ほとんどない。彼女も同じだと信じたい。氷川の件はポジティブ
に自己処理(事故処理に近いかもしれない)する事にした。どこ
に向かっているのか、そしてなぜそれをしなくてはならないのか
ということを彼女に説明してはいなかった。それは僕自身でさえ
それを本当に理解していないからかもしれない。
商店街の通りに差し掛かったところで、彼女が先に口を開いた。
「あのお婆さんは…?」
シャッターの閉められた駄菓子屋の中に問いかけるようだった。
彼女は僕が答えないことに気付いて、表情を暗くした。…あぁ、
僕はまた君の笑顔を奪ってしまった。やや間を置いて、言った。
「亡くなったんだ。脳卒中だった」
言葉が途切れると、蝉の声が耳を塞いだ。たった数週間の命を
叫び続ける彼らなら、僕たち人間の感傷は贅沢と思うだろうか。
「…そう」
ありふれた慰めの言葉を言うでもなく、彼女は呟いた。彼女は
彼女なりに、僕とユキ婆の時間と自分がこの町に来てからの短い
時間のバランスをとったのだろう。僕にはその優しさが痛かった。
「君と一緒にユキ婆と話した時のこと、覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
あの日、目を細めて空を仰いだユキ婆は、溢れだす思い出を
僕たちに託すように話した。そして、最後の思いも。
「ユキ婆は、どうして欲しいのかな」
誰に向けてでもなくそう呟くと、彼女は真っ直ぐ僕の目を見た。
「あなたがしたいことが、あの人の希望だと思う」
あぁ。そうだ。この瞳だ。僕はその時、やっと気付いた。僕が
彼女に心を奪われたのは、白い肌でも、端正な顔立ちでも、細い
指先でもない。この揺るぎない瞳だった。僕の中に眠っている、
決意と意思を持った瞳。それが、欲しかった。
「ありがとう。僕は、その言葉を君の口から聞きたかったのかも
しれない」
そう言って、僕は彼女の手首を掴んで駅の方へと向き直った。
咄嗟に、掴んでしまった手を離す。彼女は微笑んだ。
「あなたなら、嫌じゃない」
**********************************************************
この町に、丘と呼ばれるような場所はない。平坦な盆地である
この地域には今にも昔にもユキ婆の言う丘など存在しなかった。
母から聞いた話が正しければ、彼女の通っていた学校は隣の市に
あった。駅で三駅分の切符を二枚購入し、僕らを運ぶ箱の到着を
待つ。昔はこんなに長い距離を歩いて通っていたのかと思うと、
僕たちは本当に苦労を知らない。
目的の駅に着いた時、彼女が問いかけてきた。
「手掛かりとかは、あるの?」
もちろん、手掛かりもなしに君の手を引きはしないさ。
「ユキ婆の通っていた学校がこの市内にある。丘があるとすれば
この近辺だと思ったんだ」
調べたところによれば、この辺りは戦時中にかなり大きな被害
を受けたらしい。建造物がほとんど西洋建築なのはそのためだ。
敵は主要な駅や港に爆弾を落とすことも辞さなかったようだから、
彼女たちの丘もその被害を受けていないとは言い切れなかった。
こんな機会がなければ、自分の住む地方の過去を知ることはない
だろう。確かに、市内の中央から少し外れたところに小高い丘が
存在したことが分かった。今は閑静な住宅街の一角である。
「少し歩くよ」
そう言って歩き出すと、彼女は日差しに目を細めた。夏も本番
という陽気だ。華奢な女の子には少し辛いかもしれない。
「自販機で冷たいものでも買おうか」
お好きなものをどうぞ。そう言って手を広げて見せると、
「遠慮なく頂くわ」
彼女は僕に微笑んだ。この笑顔が買える自販機と言われれば、
クラス中の男が殺到するだろう。缶のプルトップを押し上げる。
炭酸の香りが鼻をついた。隣では有名なメーカーの清涼飲料水を
口に付ける彼女がじっと遠くを見ている。少し、見惚れた。
「なに?」
「いや、清涼飲料水の清涼さを全身で体現できていると思う」
「CM出れるかしら」
彼女がそう嘯くので、僕も返す。
「出演料の30%は僕への返済に回してくれ」
ボディーガード料は高い。カブトムシ対策の努力だってした。
「いったい利子幾らに膨れ上がってるのよ」
**********************************************************
小さな子供や親たちが散歩をしているのを眺めながら、静かな
住宅街を抜けると、視界が一気に広がった。そこには、もちろん
もう丘はなかったが、代わりに黄色い光が溢れていた。
「眩しい」
彼女はそう言って、僕の前に足を踏み出した。国同士のパワー
ゲームに翻弄された思い出の地は、戦闘機の爆撃で失われた時間
を確かに取り戻していた。
そこには、目を覆うほどの光を放つ向日葵畑が広がっていた。
「ここが、その丘のあった場所なのね」
彼女は目線で僕に促して、畑の奥に向かって歩き出す。植物の
匂いを感じながらしばらく進むと、少し開けた場所に辿り着いた。
「ここでいいだろう」
僕は後ろポケットから白い封筒を引き出し、その中から彼女を
取り出した。目の前の彼女は静かに頷いて、僕の渡したスコップ
で小さな穴を掘り始める。そこに、彼女をそっと納めた。
「見えるかユキ婆。あんたらの若かった頃とはずいぶん変わって
しまったけど、これはこれでいいものだろう?」
頭の上で彼女が笑った気がした。余計なことしやがって、と。
**********************************************************
しばらくの間、そこに立ちつくしていた。これで、僕の役割は
終わった。余計なお世話かもしれないけど、どうせ、もう小言を
聞くこともない。そう思ったら目の端に熱い何かが込みあがって
きた。何だ、これは。
「こういう時は、泣いてもカッコ悪くないと思うよ」
彼女は静かに許可を出した。もう、それで限界だった。膝から
崩れ落ちると、僕らの作った小さな墓に僕は声を上げて泣いた。
「今度は何を間違ったって言うんだ」
もう声にはなっていなかった。…初めから分かっていた。僕は
世界を冷めた目で眺め、全てを分かった気になっているだけだ。
何かを自分の思い通りにするための強い意志を持てない僕には、
その思い通りにならない現実を受け止める勇気さえも無かった。
顔を上げると、彼女は僕の近くに腰を下ろしてこちらを見ていた。
こんな顔、見ないでくれよ…。
彼女は、ゆっくりと僕の顔を自分の懐に押し付けて、華奢な腕で
静かに僕を抱きしめた。
「間違ってない。あなたは正しかった」
許しを乞うように、僕は彼女の腕の中で嗚咽をもらし続けた。
**********************************************************
どれだけ時間が経っただろうか。柔らかい光に包まれていた。
黄金の太陽はその角度を変え、向日葵を灼熱の色に染める。
「…ねぇ」
泣きやんだ赤子のように、彼女の温もりに包まれながら、僕は
彼女の問い掛けに答えた。
「うん?」
「私、勘違いしてた」
「何を」
「ううん、こっちの話」
こんな女々しい奴なんて、がっかりだよな。
「すまない。今日は君に甘えてばかりだ」
「ここの場所代は高いわよ。借金、これでチャラね」
男は女性に温もりを求めると言うが、料金制とは知らなかった。
それにしても、まさかこんな不様な姿を彼女に見られるなんて。
もうお嫁に行けない。
静かに息を整えて、なるべく明るい声色で言った。
「華奢な割に、力あるんだね」
「何ならこのまま絞め落としてもいいのよ」
第六章
気付くと、暦は七月の終わりを指していた。夏休みが始まって
秀一に会う機会も減る。いや、別にあいつと付き合っているわけ
ではない。断じてそんな趣味はない。
彼女とはと言えば、向日葵畑に二人で行った以来、特別進展が
あるわけでもなかった。今までのように、図書館でたまたま顔を
合わせればたわいもない話をするようなことはあったが、それは
友達以上、恋人未満の距離感を保っている。何より、相変わらず
彼女は僕と積極的に接触しようとしない。図書館でも、彼女の方
から僕に話しかけてくることはない。僕としては難しい舵取りを
迫られているわけだ。
「いらっしゃい。優花ならリビングにいるよ」
チャイムが鳴り玄関を開けると、例の事件で名前を知ることに
なった翔子ちゃんが軒先に立っていた。暖色のフレアスカートが
女の子らしい。…まずい。これでは、また優花にいやらしい目で
見ているなどと冤罪をかけられる。
「こんにちは。お邪魔します」
彼女はそう言って靴を脱いで、本当に自分は邪魔者だとでも
言うように、丁寧に揃えた。温室育ちってわけでもない。
**********************************************************
「かっこいいよねー」
「うんうん。やっぱ男は顔だよー。いや、でも…も捨てがたい」
完全なガールズトークには全くついて行けないが、とりあえず
最近話題のタレントやら同級生やらの講評とそれに関する議論を
しているらしい。リビングの隅で本を読んでいる僕には、自分の
領域を必死で確保するくらいしかできない。
「お兄ちゃん、翔子が話あるって」
また、邪魔なんだけど、と言われるかと思ったので焦った。
「俺に?」
優花の前だけは一人称を変える。情けないほど声が上ずった。
「えっと、お兄さんって秀一先輩のお友達なんですよね」
どうやら、彼女はテニス部のマネージャーをしているらしい。
いちいち人に手間をかけさせる友人だ。
「そうだけど、俺には何にもできないよ」
何にも、というところに強勢を置いたのだが、彼女の目的は
そういうことではないようだった。
「いや、違うんです。秀一先輩に相談したいことがあって」
あんまり違わないと思う。というか、なぜ僕には相談しない?
ちょっと男のプライドが顔を覗かせた。
「俺で良かったら、話聞くよ」
そこに優花が口を挟む。
「お兄ちゃん介して秀一先輩に伝えると、伝達ミスあるから」
いや、そうじゃなくて。
「伝えるっていうか、俺が相談に乗るって意味なんだけど」
なんとか返すと、優花は話にならないとでも言うように両手を
広げた。外国人がジョークを言うように。
「お兄ちゃんなら、その辺の石ころにでも相談した方がマシよ」
「お前、俺もさすがにそろそろ実力行使に出るぞ」
「お母さん、このケダモノをどうにかして」
あらあら。お茶菓子を運んできた母が彼女に言った。
「ごめんね翔子ちゃん。落ち着きのない子たちで」
「いえ、兄妹で仲良いんですね」
優花は僕をギロリと睨んで、チッと舌打ちをした。おい、それ
彼氏に見られたら絶対逃げられるぞ。
「そうなのー。小さい頃は達也の手を繋いで離さなかったのよ」
顔を赤らめた優花は乙女に戻っていた。お前はカメレオンか。
***********************************************************
「お兄さんも、私が変な男から声掛けられたのはご存知ですよね」
「知ってる。もちろん秀一も」
彼女は少し恥じらうような顔をして続けた。こんなところでも
奴の威光は健在だ。本当にうらやましい奴だな。
「そのとき言われた変な言葉も?」
「うん」
「私、最近夢で見て思い出したんですけど、その男、私が手首を
振り払った後に何か言ったんです」
夢にまで出てくるのか。きっと、周りから見たら大したことの
ない話でも、彼女の中には深い傷を残したのだろう。
「そいつは何て言ったんだ」
「待ってくれ、とか」
「それだけ?」
彼女は少し考えた後、思い出したような顔をした。
「ミリ」
センチ、キロ、ミリ。桁を表わす記号。ミリはマイナス三乗。
だが、釈然としないのは、なぜそこに秀一が関わるのか。
「それが秀一に相談したかったこと?」
「そうです」
「どういうこと?」
僕はそこを確認しておく必要があると感じた。そこで、優花が
余計な口を挟む。
「鈍いわね。そんなの、秀一先輩と話をする機会が欲しいからに
決まってるじゃない」
すかさず母が声を真似て言う。
「決まってるじゃない」
やはり、敵は二人だ。どんどん似てきやがって。そこで彼女の
方からフォローが入る。
「いえ、もちろんそういう気持ちもなくはないですが、秀一先輩
から言われてたんです。その時のことを詳細に教えてくれ、って」
なるほど、秀一には翔子ちゃんの名前も話したかもしれない。
それでこの子に接触したわけか。
「あいつも案外、野次馬根性があるんだな」
そう言うと、優花が教祖を否定された信者のごとく反論する。
「お兄ちゃんみたいな汚い馬と先輩の白馬を一緒にしないで」
「白馬の野次馬なんて初耳だ」
**********************************************************
その日も、さしてやることもないので図書館で本を読んでいた。
あの図書館で読みたい詩集は大体読み終えてしまったから、時代
小説にも手を出してみる。下心として、ここにいれば今日も彼に
会えるかもしれないという期待はあったのだろう。この場所は、
彼との待ち合わせの場所だから。
少しずつ、この帰り道も私の体に馴染んできた。故郷に帰ると
感じる懐かしさは、体に染み込んだその匂いが共鳴するからだと
思う。ここがいつか私の故郷になればいい。そう思った。
商店街を抜けてあのお婆さんの駄菓子屋を眺める。彼にとって
彼女がどんなに大きな存在であったか、それはあの日、彼が私の
目の前で見せた涙が教えてくれた。けれども、私はそれと同時に
彼の心の一部を確かに占める彼女の存在に、胸の痛みを覚えた。
彼は、私が死んだらあんな風に涙を流してくれるだろうか。
馬鹿な想像だ。私は彼の何でもない。それに、私にそんな資格は
与えられていない。今の生活だってきっと長くは続かないのだ。
かりそめの時間を本物だと信じれば信じる程、失った時の痛みは
私の心を鋭く射抜くだろう。受け入れることを放棄した私には、
逃げることしか許されていない。…あるいは拒絶するか、だ。
**********************************************************
いつものように玄関を開けると、見慣れない革靴が乱雑に履き
捨てられていた。…まさか。胸の鼓動が激しくなる。恐怖で足が
動かない。まるで金縛りにあったように、私はしばらく玄関口で
立ち尽くした。意を決して、ダイニングの扉を開く。
「おう、やっと帰ってきたか、翠」
やはり、そうか。あの不審者の事件を彼に聞いた時から、嫌な
予感は止まなかった。それでも、こんなに早く。
「会いたかったぞ。何だ、そんな顔をするなよ」
私は強い意志を持って男を睨みつけた。そうでもしなければ、
その恐怖に耐える自信がなかった。奥を見れば、部屋の隅には
目を赤くした母の姿がある。きっとこの男にまたひどいことを
されたのだろう。
「何でこの場所が分かったの」
「この辺りに移ってきたってことは、母さんが教えてくれたんだ。
家の場所はなかなか時間がかかったなぁ。高校をしらみつぶしに
回れば、お前を見つけるのは簡単だったよ」
尾けたのか。というよりも、やはり手がかりを与えたのは母だ
ということに憤りを覚えた。ずっと一緒だと誓ったのに。
部屋の隅で呆けている母の方に目を向けると、母は許しを乞う
ように繰り返していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい…」
それは私になのか、この男にか。
「本当に久しぶりだな、こうやって話をするのは。俺のこと、
忘れてなかったか?」
ふざけるな。忘れるはずはない。何度、悪夢にうなされて目を
覚ましただろうか。私の中の涙はもう枯れてしまったと思った。
「…もうあんたには負けない」
なんとか絞り出した声は、自分で聞いても滑稽なほど弱々しい。
目の前の男は立ち上がって、私の方にゆらりと近づいてきた。
「つれないな」
私の中の糸はもう切れる寸前だった。それが断ち切られた刹那、
操者を失ったマリオネットのように、崩れ落ちてしまうだろう。
私は部屋の奥に逃げ込む。男がゆっくりと口を開いた。
「ほら、俺の顔が見えるか?」
「――――――――――――――。」
ずしり、と鈍い音がした。
***********************************************************
「母さん、ちょっと出てくる」
そう言って玄関に向かう。母は怪訝な顔をした。
「どこ行くの?」
「ちょっと、秀一に会ってくる。なんか嫌な予感がするんだ」
奥から声がした。
「白馬の王子様によろしくね」
白馬の野次馬様な。小屋に置いてある自転車を引っ張り出して
秀一の家へ急ぐ。急ぐ必要もないのに何だろう、この焦燥感は。
徒歩と自転車では、流れていく景色の濃度が違う。そこに趣を
感じる人もいれば、野に咲く花には見向きもしない人もいる。
生き急ぐことで見失うものの大切さに気付けないまま、一生を
終える人がいるのはそういうことだろう。時間は平等ではない。
「どなたですか」
インターフォン越しに柔らかい声がする。秀一の母親だろう。
和を体現したような人だ。
「秀一君は、御在宅ですか?」
「あら、秀一のお友達? ちょっと待っててね」
彼女が秀一を呼ぶ声がする。相変わらず立派な家だ。
門から出てきた秀一は、突然の訪問に驚いたようだった。
「どうしたんだ達也。お前にしちゃ珍しい」
僕は息をゆっくり整えて、翔子ちゃんから聞いた話を伝えた。
「ミリ。ねぇ」
彼は首をひねり、意味が分からないな、と手を振った。
「それはいいんだが」
秀一はそう切り出して、何かを考えるようにこめかみを触った。
「うん?」
「青山翠の謎が解けたかもしれない」
「それってあれか? 男と女で態度が違うっていう」
むしろ、その言葉をそっくりそのままこいつに言いたい。
「そうだ。言っとくが、俺は違うからな」
「謎、ってほどでもないだろ。お前が単に男慣れしてるはずって
決め付けてるだけでさ。男と喋るの恥ずかしいのは当然だって」
秀一は納得しない。代わりに、
「いや、やっぱりおかしい。彼女は、おそらく」
「おそらく?」
「―――――――――いない」
**********************************************************
秀一が確信を持ったのは、部活の帰り際のことだった。
テニスは短距離走だ。持久力以上に瞬発力がものを言う。相手の
際どいリターンに少し無理をして食らい付いてしまったようだ。
足首が痛い。部活を早退し、商店街近くの診療所に向かった。
ふと気付くと、正面から青山翠の姿が見えた。普段は通らない
道を歩けば、クラスの華に出くわすこともあるらしい。あいつに
教えてやろうか。敵を知り己を知れば、百戦して殆うからず。
「青山さん、夏休みは楽しんでる?」
まぁいろいろと女子との関わりがあるせいか、彼女とは十分に
面識があるはずだ。警戒はされないだろう。
「…」
予想に反して、俺を一瞥するなり彼女は怪訝な顔をしてきた。
おいおい、俺ってそんなに嫌われてるのか?
「今日は試合中に足挫いちゃって、いきつけの診療所に行こうと
してたんだ。ここが青山さんの家?」
表札に青山、とある。表札と言っても後付けの簡単なものだ。
俺の言葉を聞いて、彼女は納得がいったというように口を開いた。
「家まで嗅ぎつけるなんて、みっともないのね、氷川くん」
氷川?なぜここであいつの名前が出てくるのだ。俺とあいつを
見間違えることなんてありえない。身長が違い過ぎる。何より、
いくら視力が悪いとしてもこんな近距離で間違えるだろうか。
「氷川? いや、俺は新堂。新堂秀一。何回かクラスで顔合わせ
なかったっけ? 河野さんの件とか」
彼女は、しまった、とでもいうように表情を一変させた。
「あ…、ごめん、新堂くんね。もちろん覚えてるよ。私、視力が
悪くてあんまりよく見えなかったの。ごめんなさい」
視力が悪いならば、どなたですか? が普通だ。あんな確信を
持って発言することはできない。あるいは、何か別の要素が俺を
氷川だと勘違いさせた、と考えるべきだろう。それは…、何だ。
「青山があいつに言い寄られてるのは知ってる。お前なら心配も
ないだろうけど、気を付けろ。あいつはうちでも危ない部類だ」
テニス部。それが氷川と俺の共通点だ。もしや…。服装、か。
今の俺の出で立ちは、まさにテニス部のそれだ。
「大丈夫。私には図書館の王子様もいるしね」
王子は今頃、どこで何をしているのやら。
「いつになっても本気を出さない、眠れる森の王子だ」
*********************************************************
「いや、やっぱりおかしい。彼女は、おそらく」
「おそらく?」
「俺たちの顔が見えていない」
顔? そう聞くと、秀一は先日の出来事を僕に話した。
「顔は見えないのにウェアーのロゴが見えるなんておかしいだろ。
普通、人は相手の目を見て話すもんだ」
確かに、そのメーカーはテニス用品の最大手で、ロゴを見れば
すぐにテニス関連の商品だということは分かる。
「それに、彼女ははっきり俺の顔を一瞥したんだ。俺を忘れてる
わけもない」
「後半は少しイラっとした」
「最近、お前血色が良くなったな」
それにしても、そんなことがあり得るのだろうか。
「何らかの心的要因があるんだろう。過去に、男からひどい目に
遭わされたとか、信じていた男から信頼を裏切られたとか」
心的要因だから、女の顔は見えるのか。
「それに、氷川に問い詰めたら、この前渡り廊下で青山に突き飛
ばされた時は、『俺の顔見れば分かるだろう』って言ったらしい」
俺の顔…。
「きっと、それがトラウマの一端に触れたんだろうな。その男が
何かひどいことをして、青山に言っていた言葉なのかもしれない」
待ってくれ、ミリ。みり…、翠。ありふれた名前ではない。
「おい、秀一。青山の家の場所教えてくれ」
戸惑ったように秀一が言う。
「え、あぁ別にいいけど、どうしたんだよ急に。突然愛の告白を
する気になったのか?」
「もしかしたら、翠が危ないかもしれない」
無意識に、名前で呼んでしまっていた。
「もう気分は恋人モードか」
**********************************************************
確かに、おかしいことは何回もあった。担任の安田を見る時の
困惑した目、氷川を突き飛ばした後で僕とすれ違った彼女の表情、
図書館でも彼女が僕に声をかけない理由。彼女には、恐らく男の
顔が見えないのだ。担任がどんな目で転校生を迎えているのか、
僕がどんな顔で彼女を見ていたのか、そして…、そこにいるのが
僕なのかどうかさえ。僕は彼女の様々な表情を見た。微笑む顔、
悲しい顔、怒ったフリをする顔…。けれども、彼女の瞳に映って
いたのはのっぺらぼうの僕だった。美人の隣で浮足立った顔も、
おどけた顔も、あの向日葵の丘で泣き腫らした顔もだ。
彼女は、顔のない人形の僕をただ黙って抱きしめてくれていた。
翔子ちゃんに近づいた不審者は、暗闇の中で彼女を青山翠と
勘違いしていたのかもしれない。
「俺の顔が見えるか」
それが男と彼女の合言葉だったのだ。そして男は手首を掴んだ。
図書館の脇の路地を自転車で駆け抜ける。今は道端の『をかし』
なんて、必要ない。秀一に説明された辺りで自転車を止めると、
青山、という表札が見える。ホームセンターに売っているような
引っかけるタイプのものだ。
**********************************************************
一息にきてしまったものの、別に彼女に危険が差し迫っているか
どうかは分からないし、それに僕が関わるべきかも分からない。
だが、先ほどから治まらない胸騒ぎが、僕を駆り立てている。
逡巡していると、家の中でゴトリ、と嫌な音がした。咄嗟に、
玄関のドアノブをひねる。…鍵はかかっていない。開いた扉の
奥で、何かがうずくまっているのが見えた。…人だ。
「お邪魔します」
一応、礼儀として言って、僕はダイニングへ足を踏み入れた。
そこには、だらしなく座り込んだ中年女性と、紅潮した顔で涙を
流し続ける青山翠の姿があった。その手は…鮮血に染まっている。
僕は横たわった男性の胸から流れ出す血を一瞥した後、彼女へと
向き直った。
「何が、あったんだ」
「私がやったの」
震えるように彼女が言う。初めて聞いた声だった。
「とにかく、その刃物を置くんだ。危ない」
「全部、ぜんぶリセットするの! だから来ないで!」
彼女は、自らの首元にナイフを向けた。
***********************************************************
私の家族は、おしなべて平均的な、これといって特別なことも
ない家族だった。家は裕福でもないし、生活に困るほど貧乏でも
ない。主婦の母と会社員の父、兄と私の二人兄妹の四人家族。
父は、成績も優秀で人望の厚い兄を手塩にかけて育てた。私は
比較的聞き分けの良い方だったので、特に手間もかからない子、
くらいにしか思っていなかっただろう。本当は私のことも誉めて
欲しかった。それでも、家族は幸せだった。いつまでも、これが
続くと思っていた。
私が中学に上がった頃からだろうか、父は私と兄を比べる様に
なった。成績としてはさほど悪い方でもなかったけれど、余りに
兄が優秀過ぎたのだ。模試を受ければ県内で三本指に入り、大学
入試も難関中の難関と呼ばれる試験を突破して志望校へ進学した。
私はそれを単純に喜んだけれど、一方で、兄のようにはなれない
もどかしさが自分の中にあった。そして、それをつつくように、
父は何かと私に言うのだった。
「翠、お前は女だから別に勉強ができなくてもいいんだ」
屈辱だった。まるで、私が性別という覆せない前提を盾にして
努力を怠っているような口ぶりだった。それでも、兄は違った。
「父さんはああ言ってるけど、俺は翠に才能があると思ってる。
俺にできるのは、くだらない公式やパターンの再現だけだ」
そう言って髪を撫でてくれる兄は、私の憧れだった。しかし、
その兄は突然、私たち家族の前から姿を消した。…自殺だった。
将来は医者か、弁護士か、と期待をされていただけに、参列した
喪服姿の親戚たちも落胆の色を隠さなかった。私は、その表情の
下で彼らが笑っているような気がした。…本当に安心した、と。
兄は、なぜ自ら死を選んだのだろう。くだらない公式やパターン
の繰り返しに飽きたのか、それとも、死の向こうにそれを超える
何かを見出したのか。いずれにしても、彼が私たち家族に残した
傷は大きかった。
父は荒れた。平凡な会社員である彼にとって、優秀な兄は正に
蜘蛛の糸だったのだろう。芥川龍之介が描いた地獄は、糸という
希望を一度見てしまったからこそ地獄たり得る。断ち切った時の
絶望はその何倍にも増幅される。営業の成績も悪化し、職を失う
寸前だった。それでも、私たち家族は父の稼ぎに頼るしかない。
そんな父の為に私たちができることは、その不満のはけ口になる
ことだけだった。
もともと強くない癖に酒へ逃げ道を求めた父は、幾度となく、
母と私に暴力を振るった。それが止んだ頃、その言葉を吐き出す。
「俺がどんな思いであいつを育てたのか、誰も分かっちゃいねぇ。
お前らはどうだ? 俺は今どんな顔してる? ほら、見てくれよ」
そう言って私の顎を掴み、父は私の体を求めるのだった。
私には、父の泣き顔とも笑顔ともつかない悲しげな表情を直視
することができない。母は必死で私のことを守ってくれたけれど、
やがてそれもなくなった。人は、絶望すると抵抗さえもしない。
私の中で、感情と言う感情は失われていった。学校で友達と話を
していても、どこか膜で隔てられたような感覚がある。やがて、
私の中の何かが小さく弾けた。私には、もう男性の顔が見えなく
なってしまっていた。変わってしまった父の顔を見るたびに痛む
心が、自らの目にフィルターをかけたのだろう。
ある日、男が会社に行っている間、私と母は家を出ることを
決心した。二人だけでずっと一緒に生きていこう。そう誓った。
前々から準備は進めてあった。必要な書類や、最低限の荷物を
持って、あの男には何の証拠も残さずにそこを去る。こうして、
リセットボタンは押されたはずだった。
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その町は、私たちが住んでいた町にどこか似ていた。海のない
盆地や、都会とも田舎ともつかない町並み。町はずれの図書館。
元々、本を読むのは好きだったから、暇があればそこに通って
読書をした。本の世界に浸っている限りは、兄も、男のことも
全て忘れられる。登校初日、男子の一人が孫子を読んでいた。
あんな堅い本読む高校生って本当にいたんだ、と自分と比較して
苦笑する。私には何が必要だろうか。必要なのは、蜘蛛の糸だ。
そうして開いた一冊の詩集には、希望が溢れていた。短い言葉に
込められた想いに想像を巡らせることは、私にとって唯一の救い
にも思えた。
彼に出会ったのは、その詩集を読み終えようかという頃だった。
突然、目の前の男の子から話しかけられた。
「図書館はよく来るの?」
制服姿の彼は、おそらく同じ高校の人間だった。相手は私の顔
を知っているようだから、同じクラスなのかもしれない。彼は、
おどけたような話し方や声、仕草がどこか兄に似ていた。大した
話はできなかったけれど、漠然と彼にまた会いたい、と思った。
しばらく日が空いた後、図書館で再び彼に話しかけられた。
「そう言えば、いつも君は何を読んでいるの?」
彼だ。そう思った。けれど、そこまで確信は持てない。そこで
「あなたは?」
と返すことにした。あなたは誰? というつもりだったのだが、
彼は質問を逆に返されたと思ったらしく、今日は辞典ではないと
言った。この前の辞書を思い出して、おかしくなる。これで確信
した。あの時の彼だ。
その日も、たわいもない会話だったけど、久しぶりに頬が弛緩
する気がした。彼の前でなら、自然に笑える。何もかも忘れて。
けれど、彼の口から先日の事件の詳細を聞いた瞬間、背筋が凍り
付いた。その男が言った言葉、間違いない。乾いた声が蘇った。
帰り際、彼に送っていってくれないか、と頼んだのは、どこか
兄に似た彼が、あの男から守ってくれると思ったのかもしれない。
しかし、それは私のエゴだった。彼には彼の世界があって、強い
部分も弱い部分も持った男の子だ。兄とは違う。彼は、私の前で
泣いた。あの向日葵畑で、初めて私は本当の彼に恋をした。
それでも、もう取り返しは付かない。私の前には赤く染まった
男の体が横たわっている。もう、終わりにしなくてはいけない。
終章
そのバスは、腰の曲がったお婆さんと汗を拭く会社員、そして
僕の三人しか乗っていなかった。お婆さんは、穏やかな顔をして
外の景色を眺めている。今年も向日葵は黄色い光を放っていた。
あの日と同じように。一瞬、お婆さんの顔がユキ婆と重なった。
「なんだよ、タツ坊」
ふと、そう言われた気がして一度瞬きをすると、お婆さんは
立ち上がって降りるところだった。会社員が彼女に手を当てて
支える。どうやら、親子のようだ。停留所で一緒に降りた。
「素敵な息子さんですね」
誰に言うでもなく呟いて、バスの料金を確認する。三百十円。
両替が必要だ。運転手の隣にある両替機に千円札を押し込む。
何とはなしに運転手が話しかけてきた。
「お客さん、一人ですね」
「ええ。付き合いの良い友人も少なくて」
「いやそうじゃなくて、このバスです。商売あがったりですよ」
「あぁ、最近は一家に一台車ですからね。そのうち一家に一機の
プライベートジェットって時代が来ますよ」
「それは困る。ジェット機の免許、今から間に合うかな」
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運転手に会釈してバスから降りる。目の前に一面の向日葵畑が
広がっていた。あの時と全く同じ、目を覆うほどの黄色だった。
「眩しい」
あの日、彼女が呟いたのも、こんな言葉だっただろうか。
月日は思い出を少しずつ風化させ、やがてその色を奪っていく。
僕の中の彼女は、その輪郭だけ残して色褪せていった。彼女には
その僕の瞳さえ、見えていなかったのに。
ふと周囲を見渡すと、道の向こうに小さな女の子を見つけた。
雄弁に行進していく彼女の後ろを母親らしき女性が追いかける。
「ちいちゃんね、あのおはながすき」
自称ちいちゃんは僕の方を指差して、満面の笑みで母親の方に
向き直った。ちいちゃん、残念ながら僕は花じゃないんだ。
「あれはね、『ひまわり』っていうのよ」
「ひまーり」
惜しいぞ、ちいちゃん。
「ひまーり、おひさまみたい」
そうね、と頷きながら、彼女は僕に会釈した。いやいや、僕は
太陽でもないんですよ、お母さん。
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やがて、僕の視界の中には巨大な建物が現れた。高くそびえる
白い塀の中で、罪を抱えた少女達が自らを罰する場所。その周囲
に広がる太陽のような花々は、彼女達への皮肉のようにも感じた。
目の前にいる看守と目が合う。行っていい、とでも言うように
目線で促された。今日は彼女の母も来ているはずだ。ゆっくりと
踏みしめるように歩く。白い砂利が音を立てた。
奥で重々しい扉が開き、二つの影が近づいてくる。一つの影は
僕の存在に気付いたのか、歩みを止めた。もう一人に促す。
彼女は何一つ変わっていなかった。植物の茎のように細い指も
端正な顔立ちも、意志の強い瞳も。この一年、僕は一生分の後悔
をした。そして、間違いじゃなかった、と思えるようになれた。
彼女は僕の前に立って、静かに言った。
「一年ぶりね」
懐かしい声。しばらく言葉に詰まった。
「本当に長い一年だったよ。観測隊を待つタロとジロのように」
「北極にいる白クマほど自然な表現じゃないわね」
「相変わらずだ」
「相変わらずよ」
僕は切り出した。
「今も、見えないのかい」
彼女は少し俯いたようにして、顔を上げた。
「いいえ。今は、見えるわ」
彼女が続ける。
「やっと、あなたを見つけた」
「がっかりさせてすまない」
僕は大げさに顔の前で手を振る。
「冷血漢、ってわけでもないじゃない」
「落ち着きがある、くらいにしないか」
彼女はクスリと笑う。
「私の顔ばっかり見て自分は見せないなんて不公平よ、青山君」
青山達也。僕の名前。初めて彼女を見た時から、自分の一部を
彼女の中に見ていたのかもしれない。
「同じ名字なんだから名前で呼べよ」
そうね。彼女は頷く。一歩、僕は彼女に近づいた。
「達也君、私は」
言い終えるのも待たず、僕らは唇を重ねた。
おわり