02 紫 草 著 『優しい言の葉』
平均寿命。
両親には長く生きていて欲しいと思う。
特に母親には近くにいて、関わっていて欲しいと思っていた。
そのことは本人たちにも伝えていたし、この時の自分にとっては本心だった。
まさか、この思いを自身で否定したくなるとは、この時には予想のできないことだった。
夫の両親とは近くに住んではいるものの、逆にあまり行き来はない。
お味噌汁の冷めない距離というやつだし、町内の行事でばったりということもあるくらい。
義母の性格はさっぱりとしており、必要があれば連絡しておいでと言ってくれるだけで、一ヶ月連絡しなくても何も言われない。
一方、自分の親は心配だからとよく電話をかけてくる。
当然、繋がらない時も多いので、その時はメールに代わる。
このところ、父の様子に文句が増えている。そんなことを言われても、自分にとっては父だ。一緒に悪口を言う立場にない。
それでも、そうだねと首肯する言葉を告げないと延々と悪口が続いていく。
折田弘恵、四十六歳。
夫と大学生の息子、そして受験を控えた高校三年の娘との四人暮らし。
介護という言葉が、現実味を帯びてきた。その時初めて、弘恵の母親は厄介な性格ではないだろうかと気づいたのだった。
実家から電話がかかってきた時。
弘恵は帰宅したばかりで、翌日に備えて途中で買ってきた食材を片付けようとしていた。
いつものようにスマホを取り出し、スピーカーを押して繋げる。
——弘恵? ちょっと家まで来てちょうだい。
ちょうど娘が、ただいまと入って来たところだった。
「何」
弘恵は人差し指を唇に当て、彼女を制す。
「急にどうしたの。いきなり言われても、仕事もあるし、無理よ」
義実家と違い、弘恵の実家は新幹線に乗らないと行けない距離だった。
——何を言ってるの。お父さんが大変なの。仕事なんて休めばいいでしょ。すぐに来てちょうだい。
「お父さんがどうしたの」
いつもなら、適当に切り上げてしまうところだが、父のことを言われると一応聞いておかなければならない。
——きっと認知よ。私のこと無視してね、ご飯も一人分しか作らないのよ。
何だ。そんなことか。
母は食事を作らない。父はいつも母の分と二人分の食事を用意して、一人で食べている。
ただそれは父から報告を受けている。
母の方が余程、様子がおかしくて、もう一緒に食事を摂ることをしたくないからと話していた。
毎日ご飯を用意してくれるってすごいことだと思う。
少なくとも、我が家では夫が作ってくれるのは、インスタントラーメンとレンジでチンの冷食だけだ。
それでも何もしない人よりはマシだと思う。
「わかった。今度、お父さんと話してみる。じゃ」
電話の向こうでは、待ちなさいと聞こえていたが無情に切った。
娘が洗面所から戻ってきていた。
「おばあちゃん、相変わらずね」
「きっとおばあちゃんなりに話したいことがあるんでしょうね。ただ今は行けないね。琴音の塾のテストが終わらないと」
ウィンク一つ残して、台所に移動した。
暫くしたら、またスマホが鳴り出した。多分母だ。
もう無視してしまおう。
次の日。
もともと義両親が我が家に来ることになっていた。
娘は高三、受験シーズンではあるものの、夏休みの一日だけ息抜きに皆で食事をしようという話になった。
娘の希望と、義両親が外食よりは家でのんびりがいいということで、自宅で焼肉をすることにした。
弘恵は仕事を休み、前日から食材を買い込み、朝から用意をする心算だった。
その日は娘も早めに起きてきて手伝ってくれる。
「焼肉をお昼にするって、ちょっと贅沢な感じ」
娘の屈託のない笑みに癒されながら、答える。
「おじいちゃんとおばあちゃんが、お肉を頂くならお昼の方がいいって言われるからね」
「おばあちゃんが、お肉は昼ってお医者様に言われたって言ってたよ」
そうなの、と少し驚く。母娘の会話は穏やかに続く。
いつもは受験生だから、と無駄な話はしないようにしている。ただたまにはこういう時間、必要ね。
「琴音、早いな」
野菜を切っていると、夫が起きてきた。
「おはよう」
しかし実は全然、早くない。
「お父さん。もうすぐおじいちゃん達、来ると思うよ」
琴音のその言葉に反応するように、インーフォンが鳴った。
琴音と夫が玄関に向かう。
しかし、そこで誰か別の人の声が聞こえる。
何だろう。何か、争うような感じ。
弘恵は手を止め、玄関に向かう。
「お母さん‼」
そこにいたのは夫の両親に加え、弘恵の母親だった。
彼女は弘恵の姿を見つけると、大きな声で言い放った。
「私、もうお父さんと一緒は嫌。ここに住むわ」
とりあえず皆に家に入ってもらい、居間のソファに落ち着いた。
ただ食卓に用意してあるものを見て、母は金切声を上げ、自分を邪魔者扱いするのかと弘恵を責めた。
お父さんの悪口が始まり、もう帰らないと言い切った。
弘恵も夫も途方に暮れる。
自分の母親なのに、いい加減にしてくれと怒鳴りそうになった、その時。
「お困りですね。ここでは若い人が困るでしょう。よろしければ我が家にいらっしゃいませんか」
穏やかな義母の言葉があった。
「でも」
と続けそうになった母の言葉を遮るように、今度は義父から、
「それはいい。若い者に迷惑をかけるのは好ましくないですからな」
母は何も言えなくなったようだった。
「おじいちゃんと喧嘩でもしたの?」
琴音が母に言葉をかける。
「そうなのよ。ご飯作ってくれなくなってね。掃除と洗濯も自分の分は自分でするから、私にも自分の食事を作れって」
「よかったじゃん。自分のことだけでいいなんて、お母さんが聞いたら羨ましがるよ」
思わず、矛先が自分に向いたことに気づいた夫。
しかし賢明にも何も言わずに娘に託した。
「ここに住んで、掃除も洗濯もご飯作るのも、全部おばあちゃんがやってくれるの」
それは、と口ごもる母。
「年寄りばかりだが、うちに来てもらったとしても、当番制にした方がいいかなと思いますがな」
母は、楽をしたい人だ。
最低限のことはする。でも、それ以上のことはしない。特に料理は言い訳をしながら放棄する。
「帰ります」
小さくそう言うと立とうとした。
「せっかくなので、焼肉食べていかれませんか」
息子たちが呼んでくれたんですよ、と義母が食卓を指した。
「お腹すいたね。お肉、焼こう」
琴音の言葉を合図に、皆が食卓を囲むことになった。
そのまま一泊だけして母は帰っていった。
義両親がいてくれて本当に助かった。
何より、殆んど何も話していないのに、母のほぼ全てを理解してくれた彼らに感服する。素晴らしい洞察力だ。
「この先、片親になったら同居や介護の話が出てくるよね」
暫く経った頃、少し話してみようと居間に三人が揃った時に語り掛けた。
「そうだな。どっちも一人っ子だからな。避けて通れない問題だ」
「父はね。施設に入るから心配するなって言うの。ただお母さんが残されたら大変よね」
キッチンから麦茶を持ってきてくれる琴音。
「そうなってから考えたらいいんじゃない? 折田のおじいちゃん達、本当におばあちゃんを引き取るつもりだったらしいよ」
え?
「そんな話、いつしたの」
「昨日、メッセした」
ありがたいこと。
親四人。
どの順番に何が起こるか。全く想像もつかない。
でも皆で助け合うことはできるかもしれない。何より、世の中が介護に対して援助をしてくれるようになっていることが救いだ。
それでも今はまだ、子供たちの将来を大切に考えていたい。
ただいつかやってくる、その時までに心の準備だけはしておこう。
【了】 著 作:紫 草