7-3.近所の少年が尋ねてくる(後の希望に繋がるささやかな縁)
翌朝、目が醒めてからアルズはベッドを降りて鏡を見ようとする。
『夢ではない』
声の方へ視線を向ければテーブルの上に置かれた鞘から烏が現れる。
「夜通し起きていたのか?」
『精霊は人間のように陽を避けて睡眠につくことはない』
「回りくどい言い方だな……」
アルズは前日の反動から気が緩んでいた。小烏丸を手に取り、掌中で回して遊びながら欠伸をする。
『階下の入り口に何者かが接近中だ』
「……? ああ、知り合いだ。問題ない」
一つ欠伸をすると、アルズは目の下を擦りながら寝室のドアへ向かう。
『寝ぼけているようだな。今の貴様は、ルイドの肉体を使用している』
「……そうか。俺の家から、異国の軍服を着た男が出てきたら怪しまれるな。逆立った赤毛と目つきの悪さも相まって、到底、引きこもりがちな画家の知り合いには見えない」
『無視したらどうだ』
「駄目だ。俺は早く父さんの腕に近づきたくて、飯を食わずに絵を描き続けて倒れたことが何度もある。居留守をすれば心配して入ってくる」
『それは人間が場を和ませる時に使う冗談というものか』
「単なる事実だ。……八咫は暫く喋らないでくれ」
『元より我の声はアルズにしか聞こえない』
(そうだったな……)
『魔力の強い者には我の姿が見える可能性がある。万が一を考慮し、我はここに残ろう。多少離れていても会話は可能だ。問題があれば呼べ』
(何も問題はない。来たのは隣の子供だ。上手いこと言いくるめる)
アルズは来訪者の目につかないように小烏丸を部屋に残し、一階へ下りる。
「アルズさん、おはようございます!」
ノックと共に外から元気な少年の声。おそらく軒下で羽を休めていたツグミやアトリが、せわしなく飛びたっただろう。
(間違いない。隣に住んでいるミッケルだ。俺の父さんが亡くなってから、隣の人が気を遣って朝食を届けてくれるんだ)
『芟除する必要があれば躊躇わずに我を使え。貴様でも、人間程度なら軽く屠れる』
(物騒なことを言うな。仲の良い、近所の子だ)
気のせいかもしれないが、八咫烏の言葉がどことなく冗談めかしているように聞こえた。だから、アルズは適当に応えた。
「入りますよ、アルズさん」
生存確認や目覚ましも兼ねているため、ミッケルには返事がなくても勝手に入っていいと伝えてある。
ドアを開けたミッケルが口を開きかけてから、体を強ばらせて動きを止めた。
不審がられないようにアルズは愛想笑いを浮かべて先に挨拶する。
「おはよう。君はミッケル君だね。アルズから話は聞いているよ」
「お、おはようございます。お兄さん、誰? アルズさんの知り合い?」
「ああ。私はコズ・リーラン。マルクラートで画材商を営んでいる。なれない乗馬服を着て馬に乗ってきたから疲れてしまってね……。部屋を借りたんだ」
とりあえずの嘘に実在する友人を利用した。
「アルズさんは?」
「夜遅くまで絵を描いていたから、今はまだ熟睡しているよ。蹴飛ばしても起きない」
「そうですか。これ、アルズさんに渡してください」
「ああ。分かった」
アルズはミッケルからライ麦パンの入った籠を受けとる。
「で、では、僕はこれで」
隣家の少年はぺこりとお辞儀をすると小走りに去っていった。
小さな背中を見送ってからアルズは独り言を漏らす。
「俺は人付き合いが多い方ではないから、他に来訪者はないはずだが……。いつまでもここには留まれない……。昨晩の内に旅立つべきだった」
『我は何度もそう助言したのだがな。貴様は精神的に疲弊していて正常な判断ができない状態に陥っていた』
「疲弊して当然だ。親友を目の前で殺されて、その仇の体に意識が移ったんだ。挙げ句に――」
愛する相手から殺意を向けられた、とは口にできなかった。愛という言葉は口にするには気恥ずかしさがあるし、殺意を向けられたことを認めたくないからだ。
「出発の準備をする……。俺の嘘を信じてフリッカの馬車を探している敵が居る。そいつらを倒さないと、フリッカの身が危ない」
住み慣れた家を去ることに抵抗はあるが、他に選択肢はない。アルズは旅に出る準備を始めた。一階は工房なので羊皮紙や石膏像はいくらでもあるが、旅に必要な物は何もない。




