6-1.闇に落ちたアルズは、精霊の声を聞く
アルズは果てのない冥闇を漂っていた。まるで空を覆うほどの巨大な影に呑まれたかのように、何もかもが暗く深い。黒い絵の具しか持たない画家が狂いながら描いた夜ですら、もう少し明るいだろう。
「俺は死んだのか……? 何も見えない。何も感じない。くそっ。誰か。フリッカを助けてくれ!」
『これは驚いた』
何処からともなくアルズに応じる声があった。死に瀕した老人のようにも、毬で遊ぶ童子のようにも聞こえるも不思議な声音だ。
『まさか、再び同胞の声を聞くことになるとは思いもしなかったぞ』
「誰だ? 誰か居るのか? こっちだ! 広間に敵が侵入した! すぐに来てくれ!」
『目の前の人間を救いたいか?』
「当たり前だ! お前は城の兵士じゃないのか?! 早く王女を助けろ」
『我が兵士? くっくっくっ。なんだ貴様。我を知覚できていないのか』
「お前は何者なんだ? ……ん?」
今更アルズは、左肺を抉られて呼吸すら困難だったはずなのに喋れることに気付いた。
無事であろう右腕で自身の体を触って確認しようとする。しかし右腕は動かない。いや、右腕が動いたのか分からなかった。それどころか、右腕が有るのかすら判然としない。
「なんだ……。俺の体は、どうなっている……」
『ふむ。どうやら貴様は肉体という器に長く囚われていたせいで、自分の在り方を忘れたようだな。それとも、既に人間の魂と融合してしまったか? 貴様は何者だ? 人間か? 我の同族か?』
「何を言っているんだ。お前はいったい何者だ」
アルズは困惑するしかない。自身の状況すら不明瞭なのに、語りかけてくる内容も理解不能だった。
『我が名は八咫烏』
言葉の意味からアルズが漠然と声の主を連想した瞬間、周囲そのものが蠢く。
視力を失っているはずのアルズは確かに見た。眼前で黒闇の靄が密度を濃くして、生物の臓器のようにうねり、輪郭を明確に表していく。
「喋る烏……?」
アルズは深く考えるのを放棄する。暗闇の中なのに漆黒の烏が見えているのだから、常識が及ぶところではない。
「俺は死んだのか? お前は悪魔か? 俺を死後の世界に連れていくのか?」
『我が支配するのは宇内の夜闇。死後の世界までは干渉しない。そんなことよりも良いのか。貴様が生を望む人間は今まさに殺されようとしているぞ』
「フリッカは無事なのか!」
『契約だ。我は目の前の人間を救う。代わりに貴様はこの世界に存在する精霊武具を――』
「契約する! どんな条件だろうと呑む。だからフリッカを救ってくれ!」
『良かろう。契約成立だ』
アルズの周囲を包んでいた闇が凝縮されていくと、夜明けのように周囲に明かりが戻り、現実世界が現れる。
魂の抜け殻となったアルズの瞳だけが、闇が元のあるべき場所、ルイドの甲冑へと回帰するのを映した。
城の広間に動くものは既にルイドとフレデリカのみ。王族も兵士も、誰もが四肢を大きく欠損し、自身の血で染まった床に果てている。
フレデリカは内臓の損傷が著しく、大量の出血があるため数分後には絶命するだろう。既にフラダ王国の医療技術では救えない。
しかしルイドは、女が見た目以上に軽傷で奇跡的に一命を取り留める可能性を考慮し、確実に仕留めることにした。ルイドは床に落ちているタペストリーを拾おうとする。
「安心して死ね。死に顔を晒しはしない」
ルイドは幼い頃に両親と妹の四人で乗っていた馬車を野盗に襲撃された。母は陵辱の挙げ句に、胸に刃を突き立てられて絶命した。恐怖に歪んだ死相が今でも瞼の裏に焼きついたままだ。以来、ルイドは女性の死に顔を見ると、怒りのあまり我を忘れてしまうようになった。
野盗は笑いながら母の胸からナイフを引き抜くと、それを父に渡して拘束から解放した。
「息子と娘を殺せば、貴様の命は助けてやろう」
胸を貫かれたルイドが最後に見たのは、血と涙に汚れた父の顔だった。弱い男だ。何故そのナイフで野盗の一人すら道連れにしない。ナイフを自らの腹から引き抜き、武器を手に入れたルイドは激情に身を燃やし、野盗に飛び掛かった。その後の記憶はない。街道を巡回していた騎士に救われたらしいが、ルイドは何も覚えていない。
生還した後に再会した妹の顔は酸を浴びて爛れ、右目のあった場所は穴になっていた。損壊著しい母の遺体は一目見ることもなく埋葬された。
「……?」
ルイドは刀を持つ右手ではなく左手でタペストリーを掴もうとした。そこでルイドは甲冑の左腕が消失していることに気づいた。刀が精霊武具の本体であり、甲冑は使用者の意思により装着や解除が可能だが、ルイドには解除した覚えがない。
「……なんだ? ……?!」
近距離から魔力を感じたルイドが視線をあげる。
女がうつ伏せに倒れていて、左前腕甲が背中の中央に刺さっていた。奇妙なことに、服も肌も裂けていない。前腕甲はフレデリカの体内へと溶けるようにして吸収されていく。




