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儂は鼠である

 その猫は、アルコールランプの置かれた小さく丸いテーブルの近くに無造作に丸められた毛布の谷間に居た。先程一寸した事件はあったが、それ以外はずうっと丸まって眠っている。文学界の由緒正しい慣例に則り名前はまだない。昨日の夜ご主人様が拾ってきた。儂は驚いた。


 昨日ご主人様は、新宿駅地下中央東改札の前で、犬の様に立って人を待っていたのだと云う。そりゃそうだ。儂のご主人様は犬だからな。犬が犬の様でなければ、それは最早犬ではない。数年前にご主人様が人から犬になられたのもそれが原因だが、未だにそのことをお忘れになるようだ。


 事故か何かで電車が遅れていたようだ。時間は夜の七時過ぎ。改札から次々と溢れ出る人、人、人。偶に犬、猫。律儀なご主人様は待ち続けた。犬が人を待つのは渋谷駅が由緒正しい場所ではあるが、ご主人様はそのことを歯牙にもかけず待ち続けた。小一時間待ち続けた頃、待ち人から電車が遅れ今日は行けないと連絡が入り、哀れなご主人様は諦めて帰ろうとしたらしい。


 その時、ご主人様は自分の隣で一匹の猫が佇んでいることに気付いた。つい今しがたまで人間であった片鱗を随所に示してはいたが、その時は間違いなく猫だった。己の分際を弁えぬご主人様は猫に話しかけた。電車が遅れては邂逅も何もあったものではないですな。


 猫は己の天敵である犬に話しかけられおおいに恐れ慄いた。と云うのが常であるはずだが、その猫は違った。猫は目に涙を浮かべて答えた。私は人を待っているのではありません。己の不確実で儚い未来を待っているのです。これは何と哲学的なことを仰る。一体どうされたと云うのですか。


 その猫はつい今しがたまで夜の世界で働く人間の女だった。電車が遅れ、店の定める出勤時間に間に合わず、改札を出た途端に猫に変わってしまった。この姿では出勤することも帰宅することも叶わない。未だ己の身に起こったことが信じられず呆然と立ち尽くしているのだと云う。


 ご主人様はその猫を哀れに思い、この荒屋に連れて帰って来たと云うわけだ。その後、何やら人間の男と女が営むようなことはやっておったがな。


 さて主人公の儂は鼠だ。それなりの年月をこの世知辛い世間で生き抜いてきた。儂はご主人様のように人間はおろか犬や猫にすらなったことはない。産まれた時からずっと鼠だ。数年前から今のご主人様の家に居付き、終の住処と信じてきた。その儂ですら、突然の来訪者とその顛末は端倪すべからざる出来事であった。


 先程この猫が目覚め、儂に襲いかかってきた。昨日まで人であったものが猫の本能を露わにするとは何と変わり身の早い所業だ。この家を終の住処と信じていたが、この突然の無礼な来訪者によって本当に終の住処となる所であった。今、儂は九死に一生を得て天井裏の隙間からこの無礼な猫を観察しているところだ。儂の安息を奪った仇、どうしてくれようか。


 さてこの猫は実に魅力的で誘惑的な姿形をしている。四本の御足は長くのび、尻尾は魅力的に張り出し、毛並みは艶やかに手入れされている。耳にはキラキラと輝く飾り物が施され、その寝姿は隅にも置けぬ愛くるしさだ。人から猫に変貌を余儀なくされたとは誰が思うものか。


 儂は惑わされた。儂を襲うことがなければこの家に居つくことを許してやっても良い。ここはその美しい猫首に鈴を付けるのが正しい作法であろう。儂は近所の店から鈴を盗むことを算段した。このご時世、鈴を置いている所などない。あるとすれば近くの神宮に並べられている御守りだ。儂は罰当たりではあるが、そこから鈴のついた御守りを頂こうと考えた。それほどに魅力的な猫だった。儂の命を狙う危険な存在であったとしてもだ。


 その時、その猫が人間であった片鱗を示す道具の一つである携帯型の遠隔会話装置が震え、無味乾燥な音が流れた。猫は器用に前脚で操作し、遠い世界からの声を聞いた。


 昨日の無断欠勤は不問にする。今日のシフトは確実に出勤するように。


 突然、猫は人間の女に変貌し家を出ていった。儂は先程の気の迷いを恥じた。安息の時間が戻ってきた。


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