09 不安
コン、コン、と扉を叩く音が聞こえて、私は急いで椅子から立ち上がった。
「⋯⋯失礼する。ミア・フォルスターさんはいるだろうか」
「⋯⋯ごめんなさい、ブランシュ卿~。あの子は今外してるんです。用なら伝えておきますね」
眉を下げて答えたカトリナに、リアムは無表情を崩さずに、頷いた。
「⋯⋯少し会って話したかっただけだ。もし戻ったら俺が来たことだけ伝えておいてほしい」
「はい。かしこまりました」
カトリナは受付係らしく微笑んで、来た道を戻っていくリアムを見送った。
「らしいわよ? これで良いのかしら」
「うん。ありがとう」
「何かあったの? そんな所に隠れて」
呆れたような声色のカトリナの声が聞こえる。
私は机の下から這い出た拍子に、ゴン、と頭をぶつけた音が聞こえた。痛みは無い。
「何やってるのよ⋯⋯」
私はぶつけたらしい頭を押さえながら、先程放ってしまったペンを拾い、席に戻った。
「ちょっと今、できれば会いたくなくて」
「昨日のデートは上手くいったんじゃないの? 私がせっかく選んだ勝負服を着て行ったのに」
「あはは⋯⋯」
眉を寄せるカトリナに私は苦笑いで誤魔化した。
リアムは私との恋人の振りをしているよりも、ずっと綺麗な、将来のある女性と付き合った方が良いのではないか。私がリアムの枷になってはいないだろうか。
そんなことを考えていたら、夜はよく眠れなかった。
昨日の歌劇を見てからか、歌姫に会ってからか、気持ちがぐちゃぐちゃのままだ。
どうしてもリアムの顔を見る気にはなれなかった。
「早く仲直りしなさいよ」
「うん⋯⋯喧嘩じゃ無いんだけどね」
「ふーーーーん」
カトリナは頬杖をつきながら、じとりとした目で私を見たが、追及するのはやめたらしい。
しばらく私を観察していたが、あ、と目を丸くして、私の腕を指差した。
「痣と傷ができてるわよ」
「え? 本当だ」
「まさか⋯⋯彼の怪しい性癖じゃないわよね」
「違うよ!」
ここはリアムの名誉のためにしっかりと否定しておかなければならない。
最近の私は感覚が鈍いせいで注意していないとよく物にぶつかるし、ぶつかったとしても気がつかないのだ。痣と傷はそのせいだろう。
「そそっかしい性格は気をつけなきゃ駄目よ。嫁入り前の身体なんだから」
「そうだね」
うんうん、と表面だけ頷く私に、カトリナは何を思ったのか、ふぅ、と深い息を吐いた。
────
「⋯⋯ディート」
「何だ? どうしたリアムー」
訓練の時間の隙間を縫って静かに声をかけてきたリアムに、ディートは、珍しい、と手を止めた。
「ミアとのことなんだが⋯⋯もう四日会っていないんだ」
「え? 何、喧嘩?」
「喧嘩じゃない、と思う」
ディートがよくよくリアムの表情を観察すれば、表情筋が動いてない中でも、困惑と不安が見てとれる。
「四日、てことは、俺と考えたデートプランが駄目だった?」
「いや⋯⋯」
リアムは否定したいが、原因が分からない以上否定できない、と言葉を詰まらせる。
「うーん? ま、そうだな。俺は昼の時間少しだけ会ってるが、ミアの方も落ち込んでる⋯⋯ってか悩んでる? あと落ち込んでるせいか反応悪いんだよなぁ。肩叩いて呼んでも気付きにくかったり⋯⋯」
「そうなのか」
リアムはさらに表情を曇らせる。
ミアが落ち込んでいるのも知らなかった。避けられているのか、会いに行っても一度も顔を会わせることができていない。
毎日、仕事帰りに会っていたのも、ミアの方からカトリナを通して断られている。
「分からないなら聞くしかないだろうなぁ」
「だが、避けられてるみたいで」
会うことすらままならない、と溢せば、ディートは、にやり、と唇の端に笑みを乗せた。
「そういう時こそ、俺を使えよ! 昼、ミアに会いに行くぞ」
なぜ、早く仕事を終わらせたい時ほど、上手く行かないのか。午前の積み上げられた仕事を、ようやく終わらせたのは鐘がなる少し前だ。
昼食を持って駆け出すディートをリアムは急いで追いかけた。
「あれ? 今日は遅かったんだ⋯⋯ね?」
きょとんとしたミアの瞳にリアムが映る。
カトリナは先に仕事に戻っていて、ミアは一人だ。
「え⋯⋯」
なんで、と。ミアが呟く。
と身体を背けて、立ち去ろうとするミアの手を、リアムが掴む。転びそうになった身体を抱き締めるように受け止めた。
「リアムさん⋯⋯もう休憩終わりますから⋯⋯」
か細い声がリアムに聞こえると同時に鐘が鳴る。
リアムはゆっくりと華奢な身体を離すと、ミアと視線を合わせた。
「今日は門の前で待ってる」
ミアは微かに頷くと、するりとリアムの傍を抜けて仕事に戻っていった。
────
リアムを避け続けて四日目、とうとう向き合わなければいけない時が来たようだ。
私は暗い気持ちで仕事を終え、時計を見上げた。
リアムの将来のために、すぐにでも身を引くべきか。
私の人生最後の望みを優先させるのか。
気持ちの整理はまだついていない。
四日たっても、もやもやと身体の奥底に巣食う不快感は消えてくれなかった。
「じゃあ、カトリナ、先に帰るね。今日はリアムさん待たせてるから⋯⋯」
「ちょっと、大丈夫なの?」
「だいじょぶ⋯⋯」
私の不安が表情に書いてあるのだろう。カトリナは顔をしかめて聞いてくる。私は力無く返事をして、一歩一歩門の方向へ向かった。
私が門までたどり着くと、リアムは先に着いて待っていたらしい。
気まずくなる前にと、私は口を開く。
「⋯⋯帰りましょうか?」
「⋯⋯良ければだが、今日は少し出かけないか?」
無表情に少しの不安を滲ませて、リアムは私の返答を窺う。このやりとりに私は、ふと既視感を覚えた。
立場は逆だが、リアムと初めて出かけた日、誘った言葉だ。
「⋯⋯はい。どこに行くんですか?」
「今日は、見せたい景色がある」