05 デートのち雨
「ミア」
「リアムさん? どうしたんですか?」
仕事終わりに現れた人物に、私は驚きから目を見開いた。
つい最近呼ばれるようになった名前呼びもまだ慣れないが、それよりも。
仕事終わりは門の前で会うのが常で、リアムが私の仕事場に来ることは滅多に無い。
「⋯⋯いつも君を待たせているだろう? 今日は迎えに来た。⋯⋯待たせていると他の⋯⋯に⋯⋯」
小さく呟いた最後の方はよく聞こえなかった。
それでも、リアムの方から行動してくれたことが嬉しい。
「ちょっと待ってください! すぐ片付けます!」
ばたばたと机の周りを片付ける私の肩に、ぽんと、カトリナの手が置かれる。
「良かったわね⋯⋯! 上手くやりなさいよ」
こそこそと私の耳元で囁いて、お先に! と笑顔で退勤していった。
「お、お待たせしました⋯⋯」
私が待たせる側というのは新鮮だ。壁に寄りかかっていたリアムは駆け寄ってきた私には気付き、手を差し出した。
手を握る恋人の練習も毎日のことで、最初の頃のように頭が沸騰するような感覚は無い。
代わりに、手の温もりとじんわりとした幸福感がある。
「⋯⋯帰るか?」
「はい。あ、良かったら今日は少し出かけませんか?」
せっかく早い時間に会えたのだ。もう少し一緒にいたい。
断られたなら仕方ない、と窺い見る私に、リアムは意外にも頷いた。
「⋯⋯ああ。どこに行く?」
「良いんですか!? じゃあ、大通りまで行きましょう!」
────
綺麗な夕焼けだ。
商店街は、昼の店の店じまいと夜の店の支度が入り交じり、どこか雑多な雰囲気がある。
私とリアムは手を繋いだまま何をするでもなく、通りを歩いていた。
「⋯⋯悪いな。気が利かなくて、出かけてもどうすれば良いのか分からない」
「私は一緒に過ごしているだけで嬉しいですから、何も気にしなくて良いですよ。しかも、誘ったのは私ですから。私こそリアムさんに申し訳無いです。何か計画がある訳では無くて⋯⋯」
「いや⋯⋯俺は」
否定の言葉を伝えようとしてくれたのだろう。
リアムの優しさを改めて感じて、私は自然に微笑んだ。
ぽつり、ぽつり、と会話をしながら歩いていると、辺りが暗くなってきた。飲食店の灯りがつき、どこからか音楽が聞こえてくる。
私はある一角で、わぁ、と思わず声を上げた。
もう閉店した衣料品店の硝子越しに見えるドレスが夜の中で光っている。
白を貴重としたレースのドレス。どういう布なのか、夜の中でわずかな灯りを反射してキラキラと輝いている。
もう一生着ることの無いウェディングドレスのようで──。
「⋯⋯そのドレスが気に入ったのか?」
ドレスに夢中になっていた私は、急に聞こえてきたリアムの声にびくりと身体を震わせた。
「え? あ、いや。私も女の子ですから⋯⋯可愛いドレスが気になってしまっただけですよ。それだけです」
「そうか。ミアの髪色にも似合うと思ったが」
いたって自然な動作でピンクブラウンの髪を掬われて私は、かぁっ、と頬に熱が集まるのを感じた。
対するリアムはきょとんとした目で見ている。
無自覚なのか。恐ろしい。
気恥ずかしくて、私は慌ててドレスから目を反らし、偶々目に入った歌劇の宣伝を指差す。
「そ、それより、あの歌劇! 面白そうですね!」
「⋯⋯?」
かなり不自然な切り出しだったが、リアムは私の指差す宣伝が張られた壁に目を向けてくれた。
『世界一! にゃんと美しい歌姫の物語!』
「⋯⋯⋯⋯にゃん?」
宣伝の誤字だろうか。無愛想な顔で口に出すリアムに、私は吹き出しそうになった空気を必死に耐えた。
「どうした?」
「⋯⋯ぃえ、何でもないです。⋯⋯えと、夕食にしましょうか」
くるりと方向転換しようとしたところで、バランスが崩れ、身体が傾く。
一瞬地面の感覚が分からなかったのだ。自分では足が空を掻いたような気分だった。
「⋯⋯っ!」
「あ」
私はしっかりとした腕に抱き止められていた。
思ったよりも強い力で引き寄せられ、リアムの身体に包まれているような体勢。
耳元に感じた息に身体の熱が上がるような気がする。
「あ、ごごごめんなさい! 大丈夫です!」
「⋯⋯本当か?」
ゆっくりと離されて、私は足にしっかりと目を向けながら一歩、一歩、動かした。
大丈夫だ。歩けない程ではない。
感覚も鈍っているだけで、集中すれば感じる。
まだ、大丈夫。
「大丈夫! ありがとうございます」
慌てて私は頭を下げる。下げた頭の上から空気が揺れた音がした。
「ふは。案外そそっかしいんだな」
無表情を崩して、苦笑している。あのリアムが。
私は言葉を返すことができなかった。
心臓がドキドキしてうるさい。
リアムから目が離せない。
やっとの思いで、行きましょうか、とだけ言って、私たちは小洒落たレストランに入った。
互いにパスタを選び、次々と口に運んでいく。
私は上品さを無くさないよう意識しながらも、食べ進める手が止まらなかった。
クリームソースのもちもちパスタは私の大好物なのだ。
幸せに顔を綻ばせる私を、リアムがじっと見つめる。思えばこの視線も最初と比べ柔らかくなったように感じる。
「美味しいですか?」
「ああ」
会話をする間にもリアムの皿はすぐに空になった。相当な量が乗っていたが、さすが騎士、鍛えているだけあって、食べる量が必要なのだろう。
食べ終わり、もう帰る時間だ。
名残惜しさに足を引きずられながら、ゆっくりと寮までの道を歩く。良いところの出だが、リアムも寮暮らしをしているらしく、帰る方向は一緒だ。
最近は部屋の前まで送ってくれているが、自分の寮も近いため、あまり手間は無いと聞き、安心した。
「ありがとうございます。楽しかったで⋯⋯──す?」
ポツ、ポツと雨が降ってきたと思ったら、どうしようかと考える間も無く土砂降りの雨が降ってきた。
幸せな気分だったのに、何てことをしてくれるのか。
「ミア! こっちに!」
リアムに手を引かれ、花屋の店先、屋根がある部分へ身を滑らせた。
「わ、すごい雨ですね」
風は無いが、ザアザアと叩きつける雨が、屋根を打つ音が大きく聞こえる。ポタポタとピンクブラウンの髪から垂れる水滴を私は残念そうに目で追った。
リアムに会うからと整えてきた髪は雨のせいで乱れ、額や首に張り付いてしまっているだろう。
「そうだな。⋯⋯っ!」
リアムが私を見て、急に顔ごと視線を反らした。
「⋯⋯何ですか? ⋯⋯ぁ!?」
私が視線を下に向ければ、濡れた白いシャツから透けた下着が見えていた。何てことは無い、色気もなにもないただの黒い下着だ。
だが、リアムの反応はいけないものを見てしまったかのように過剰で、私の中で羞恥が込み上げてくる。
でも、ちょっと待って。前が透けてるってことは。
急に身体が冷たくなった。
今日の下着は背中をどの辺りまで隠しているだろう。私のタフトル病の痣は肩甲骨の間の辺りにある。
シャツが透けて模様が見えるかもしれない。見えないかもしれないが、万一、リアムに見えるようなことがあってはいけない。
私はリアムから背中を隠すように向きを変え、今度は不安と恐怖からドキドキとうるさい心臓を押さえて、無理矢理笑顔を作った。
「あ、あの。リアムさん。今日は送っていただかなくて大丈夫です。一人で帰りますね」
「今か? 雨がひどい。濡れるぞ」
顔を背けていたリアムでも私の態度を不自然に思ったようで、微かに眉をしかめる。
「いえ! ちょっと今すぐ、一人で帰りたくて」
ごめんなさい、と。付け加える。
あまりにも必死で怪しまれるだろうか。
身を小さくする私に、リアムは何を聞くこともせず、無言で自分の上着を寄越した。
「あ、ありがとう、ございます」
優しい。上着を背中に羽織って、リアムの熱を感じた。
「⋯⋯気をつけて帰れ。返すのはまた今度で良い」
「⋯⋯本当に、今日はありがとうございます。リアムさん、また明日!」
私は笑顔でいつもの挨拶をして、夜の雨の中飛び出した。
知られたくない。
心配させたくない。
負担になりたくない。
三十日ちょうどでこの恋も終わるんだよ。
幸せな記憶のままで終わりたい。