逃亡者
T氏は必死の思いで逃げ続けていた。
名を変え、住み処を変え、職を変え、全国を転々としていた。なぜT氏は逃げ続けなければならなかったのか。
それというのも、地球温暖化の責任を追及する〝環境破壊者狩り〟が始まったからだった。
地球温暖化が問題視されるようになって久しい。温暖化は人間を初めとする生物や、地球そのものを危険な状況に追い込むことがはっきりとしたからだ。
オゾン層の破壊により有害な紫外線が地表に降り注ぎ、それによって免疫低下やガンなどの病気が増す。
干ばつや集中豪雨などの異常気象が頻発し、水害や農作物への被害が起きる。結果、食糧難に襲われる。
森林は砂漠化し、希少動物が次々と絶滅してゆく。
南極やグリーンランドの氷が溶け、海面が上昇し、水没してしまった島国すらある。
これらの甚大な被害をもたらす地球温暖化の原因が、二酸化炭素の過剰な排出によるものであることは明らかだ。そして人々は、その二酸化炭素を垂れ流しし続けてきた者の責任追及を始めたのだ。電力会社や自動車メーカー、石油会社、エアコンなどを製造する電気機器メーカーなどの責任者は次々と裁判にかけられ、ほぼ全員が長期の懲役刑、場合によっては死刑になる者すらあった。責任追及の手は大会社だけにとどまらず、中小企業にも及んだ。二酸化炭素を大量に排出する企業の下請け会社の責任者も、次々と裁判所行きとなった。
T氏もそのうちのひとりだったのだ。彼は自動車のエンジンの重要なパーツを製造する町工場の経営者だった。工場の造ったパーツは主に消防車や救急車など緊急車両に使われ、そのため摩耗が激しく頻繁に交換せねばならず、注文は絶えず、T氏はかなり儲けていた。そんな者が環境破壊者狩りの手を逃れられるわけがない。元請け会社の重役たちが有罪判決を受けるのを見て、T氏はすぐに工場をたたみ、失踪した。そして長い逃亡生活に入ったのだった。
新聞やテレビ・ラジオのニュースは欠かさずチェックし、身の回りに目を配り、少しでも追及の気配を感じたらすぐにその場を離れた。そして別の地で、名を変え職を変え、新たな生活に入るのだった。だが、その生活もあくまでも一時的なものに過ぎず、すぐにまた別の地へと移らざるを得ないのだった。
そんな生活も十年を過ぎ、気がつけばT氏は六十歳を越える年齢になっていた。T氏は思った。
「俺は死ぬまでこんな過酷な生活を送らなければならないのだろうか。俺ももういい歳だ。逃亡生活にも疲れ果てた。いっそのこと自殺するか警察に出頭した方が楽なのではないか……」
そしてT氏は後者の道を選んだ。出頭したT氏はすぐに検察庁に移送され、厳しい取り調べを受けた。そしてすぐに裁判所送りになった。公判は迅速に進み、ついに判決の日を迎えた。T氏は覚悟を決めて判事の判決を待った。
「主文。被告人を無罪とする……」
T氏は耳を疑った。これまでに自分が見聞きしてきた環境破壊者狩りの裁判では、被告人はまず間違いなく有罪判決を受けていたからだ。
そんなT氏の心中を知ってか知らずか、判事は淡々と続けた。
「被告人は長年において二酸化炭素を大気中に排出する行為の一部を担っていたが、その多くが消防車や救急車など、人命救助を目的とするものに使用されてきた。被告人は間接的に人命救助に携わってきたものとみなされる。そのため、被告人の行為は重罪に相当するが、人命救助と相殺され、無罪とする……」
T氏は呆然とし、続いてホッとして、最後にくやしさの感情がわき上がってきた。俺は何のために十年以上もの間苦しい逃亡生活を送ってきたのだろう。こんなことなら、さっさと捕まってしまえばよかったのだ。俺は十年を棒に振ってしまった……。
人間、往生際が悪かったり、後ろめたいことから逃げ回っていると、ろくなことにならない。どんなに嘆いても、T氏の失われた十年間はもう二度と戻ってはこないのだった。