第八十三話 現人神、過去を語る。
「嫌な夢……見ちまったな……」
白夜はすっかり日が落ちた村を歩き、狼男達が訓練していた草原にまでやって来ていた。
休憩時間の際、皆と座っていた場所にまで向かい、一人腰をおろして物思いにふける。
あの時見た夢。
それは遠い昔、本当に起きたことをそのまま映し出していた。
まだ白夜が小学生一年生の頃だ。
「久しぶりに見たな。『あの時のことを忘れるな』とでも言いたいのか……?」
あの頃は、それはそれは嫌に思うくらい、毎日毎日夢に出て来ていたが、最近はそれも鳴りを潜め、夢に出て来ることは無かった。――しかし、今日この瞬間にまた出て来た。
「……助けてやれなくて、ごめんな」
白夜は昔からこの夢を見て起きる度に、毎度毎度そう呟いていた。
あの少女に対して今もなお許しを請うかのように。――もうその少女とはそれっきり、二度と会うことが無かったのだが。
「……こちらに居ましたか」
すると突然声が聞こえてくる。
その声の主はこちらの世界に来て一番付き合いが長い。
その方向へと顔を向けなくとも分かる。
「……コウハクか。何しに来た?」
「わたくしは主人さまと共にあります。わたくしの居場所は、主人さまのすぐ傍にのみありますから」
そう言って白夜の隣にまでスタスタと歩いて来て、そのままスッと腰を下ろす。
「……この前は一人で勝手に出て行ったのにか?」
「この前は一人で勝手に出て行ったのに、です。今の主人さまのように」
コウハクはきっぱりとそう答え、この場所から離れるつもりはなさそうだ。
「……そうか。だが俺は『一人にしてくれ』と言ったはずだが?」
白夜は声に少し怒気を込め、重々しく問いかける。
「……その命令に従えなかった罪は甘んじて受けます。ですがわたくしはそのような命令より、わたくしが一番尊敬に値するお方に教えられた教訓の方が大切です。それに比べれば先ほどの命令なぞ、聞く価値もありません。わたくしはその教訓に従い貴方の元へ参ったのみです」
コウハクははっきりとそう答え、白夜の命令に従う気は更々無いらしい。
――ついに見限られたのだろうか。
白夜は空を見上げる。
自分よりも強かったり、賢かったり、偉かったり、威厳がある者など、今夜空に浮かぶ星の数ほど居るだろう。――コウハクが言っているのは、恐らく上にいる神様達のことだろうか。
「……そうか。神様の教えか」
「はい。その通りです」
「はた迷惑な神様も居るもんだな。ありがた迷惑ってやつだ」
「ふふっ。まさに、その通りかと」
「……何笑ってんだよ」
「いえ、失礼致しました」
白夜とコウハクはその後しばらく黙り込む。
辺りを静寂が包み、聞こえて来る音は僅かな風の音、そして白夜とコウハクの呼吸音のみ。
「……その神様は――」
すると突然コウハクが口を開く。
「その神様は、とてもどうしようもないお方なんです。どうやら持ち合わせた聖性に自覚が無いようで、たちが悪いのです。困っている人を見ると、自分のことそっちのけですぐ助けに行ってしまいます。そしてすぐに助けてしまいます」
コウハクはほとほと呆れながらもそう言い放つ。
「……へぇ。確かにたちが悪いが、凄い奴だな」
「えぇ、本当に。その方の教訓は『か弱いものを助けるのは当然』という、なんとも馬鹿らしい――素晴らしいお考えです」
「……ふーん。どっかで聞いたことあるな」
「だから、わたくしがお側に付いていないとだめなんです。でないと、また無茶をしますから」
「……そっか。だったら俺なんかの隣に座らず、さっさとそいつの居る所に早く行ってやんな」
「えぇ。だからずっと、貴方の傍に居ます」
「……」
白夜は言葉を詰まらせる。
するとコウハクの穏やかな表情が一変し、真剣味を帯びたものへと移り変わる。
「……主人さま。あの時語った夢の話は嘘ですよね? 本当は……もっと心の奥深くに潜む闇が、夢として出て来てしまったのでは?」
「――っ! お前、なんでそれを……」
白夜はピンポイントで当てられたことに驚き、ついそう答えてしまう。すると――
「あっやっぱりそうだったんですか。いえ、スキルで確認した所、いつもの主人さまとは少し違って弱々しく感じましたので、何かあったと確信はしたのですが……カマをかけて正解でした」
コウハクは素知らぬ素振りをしているが、口元が少しにやけている。
いたずらに成功した子供のような笑みだ。――いったい誰がこんな子に育てたのだろうか。
「……お前、性格悪いな」
敗残兵が吐ける言葉は程度の低い悪口しかない。
白夜はコウハクに対して、恨めしそうにそう吐いた。
「……わたくしのスキルでも人の心は広く、全てを把握しきることは出来ません。ましてや主人さまのような、広き御心を持つお方の深層心理を把握しきることなど、到底出来ません」
コウハクは残念そうにそう語る。
「……買い被りすぎだろ」
「いえ、そんなことは決してございません。しかし、主人さまはあの時、心の奥深くに閉じ込めてある、トラウマのような記憶を夢に見ていたのではありませんか? あの時にのみ、少しだけ顔を覗かせていた記憶がありました。全ては把握仕切れませんでしたが……」
「……見たのか。お前」
白夜は声を低くし、怒りを込めてコウハクにぶつける。
「……はい。少しだけ」
「……あっそう」
心底不機嫌そうに、そう言い放つ。
「……俺の嫌な過去の記憶を見て楽しかったか? 俺があの子を救えなかったことに対して幻滅したか? ……さぞ、かっこ悪かっただろうな。お笑いだっただろ?」
白夜は怒りに我を忘れ、コウハクに対して次々と問い詰めてしまう。
すると――
「――いえ、やはりとても素敵なお方だと思い直しました」
と、コウハクが言い放つ。
「――っ! 綺麗事ばっかり言ってんじゃねえ! 俺はあの子を助けることが出来なかった! それどころか俺まで――笑いたきゃ笑えよ! いい奴ぶってんじゃねえぞ!」
白夜はついに感情のブレーキが破壊され、コウハクに対して怒鳴りつけてしまう。
「……その言動から推測するところによると、貴方もひどい仕打ちを受けたのですね?」
コウハクは静かにそう言った。
「……何が言いたい?」
「益々貴方のことを尊敬しました。と言いたいのです」
(俺のことを……尊敬する……だと? 何言ってんだこいつ!)
「……っ! あぁっ! 尊敬するだろうなぁ! 助けに入ったにも関わらず、返り討ちにあったんだもんなぁ! 大人しく助けが来るのを待っていればいいものを……そりゃあ素晴らしい馬鹿が居たもんだと尊敬もするだろうなぁ!」
「えぇ! 尊敬しますよ! あの子が襲われそうになった時、即座に連絡したは良いものの、周りには人影が無く、彼女を魔の手から救うには時間を稼ぐしかないと、勇気を振り絞って大悪に立ち向かう貴方のことを!」
「――っ!? お前っ! どこまで知って――」
ふわっ。
すると突如、白夜の視界が無くなり、目の前にふわりとした感触がかかる。
「……ぐすっ。辛かったですよね。あんなに殴られて……蹴られて……意識が朦朧とするまで……暴力を振るわれて」
その原因は、コウハクが白夜のことを優しく抱擁していたからであった。
「……なんで、お前が泣いてんだよ」
白夜は少し呆れながらも、コウハクに問いかける。
「ぐすっ……決まってます……わたくしと主人さまは……一心同体ですから。主人さまの悲しみは……わたくしの悲しみです」
――一心同体。
コウハクは白夜が前に言った言葉を返してきた。
「……そうか。俺のために泣いてくれてるんだな」
白夜はコウハクの頭を優しく撫でる。
「……ありがとなコウハク。お前は優しいな」
「あるじざま……」
コウハクは白夜から少し離れ、せっかくの可愛らしい顔をグシャグシャにしながら白夜のことを覗き見る。
「おぉ、良し良し。せっかくのかわいい顔が台無しだぞ?」
「――っ! あるじざまあああああああ!」
するとコウハクが大声でワンワン泣き始め、白夜の胸に顔を埋める。
「はいはい。俺の代わりにいくらでも泣いてくれ。……まったく、普通逆じゃないか?」
「だっでぇ! だっでぇ! ……ぐずっ! あんなの……ひどずぎまず……!」
「よしよし。もう終わったことだ。気にすんな」
「ぐすっ! うえええええん!」
(まったく、泣き虫なやつだ。でも……)
「――ありがとうコウハク。おかげで元気出てきたよ」
白夜はそう言って、コウハクをしばらく宥め続けるのであった。
しばらく宥めていると、やっとコウハクが落ち着いてきたので、白夜が自分の体からコウハクを引き剥がそうと肩に手を置いた時――
「……できるならあの男に対して、この世のありとあらゆる苦痛を心行くまで味合わせてやりたい。一生死ぬことが出来ないまま……ずっと……ずっと……延々に……」
コウハクが最後にそう、地獄の底から這いずり出て来たかのような低い声でポツリと言った。――思わず白夜は鳥肌が立つ。
白夜はコウハクに対して先ほど言った『お前は優しい』という言葉を、心の中でそっと撤回するのであった。




