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少し遅れはしたが、無事孤児院に着いた。
どうだろう。クロエはいるだろうかと中に入ると、お目当ての人物が子供たちに本の読み聞かせをしているのを発見した。最近、クロエも孤児院へ来る日が減っているので、会えて良かったと胸を撫で下ろす。
会衆席に座ったクロエは独特のリズムで本を読んでいる。周りにいる子供たちは五人ほど。皆、目を輝かせながら話に聞き入っていた。
「クロエ」
「リリ!」
クロエが本を読み終わるのを待ち、声を掛ける。私の声に気づいたクロエが振り返った。手を振ると、彼女は本を持ったままこちらに駆け寄ってくる。
「リリ、体調は大丈夫なの?」
「ええ。もうなんともないわ」
「良かった」
クロエとは、彼女の精霊契約の時以来会っていない。あの時は体調が良くないと言って帰ったから、ずっと気にしてくれていたのだろう。本当は体調ではなく、自分の都合だけで帰ったので、気遣ってくれるクロエに申し訳ない気持ちになった。
「それ、兄様が用意してくれた本かしら?」
クロエが持っている本に目を留める。子供向けのお伽噺が描かれたその本は、私も昔母から読んでもらったことがあり、覚えていた。
私の指摘に、クロエは「そうなの」と嬉しそうに頷く。
「ヴィクター様からお借りした本、どれも皆が知らない話ばかりで、すごく助かっているわ。今までのは皆、飽きちゃってたから」
「それなら良かったわ。兄様にも伝えておくわね」
本は高価なので、孤児院ではなかなか数を揃えにくい。それを孤児院の世話をしている人たちも悩んでいて、力になれればと思ったのだ。私や兄様が昔使っていた本が、今も活躍できるのであれば、皆が幸せ。とても素晴らしいことだと思う。
「みゃあ!」
「わ、ノエルじゃない。あなたも来てくれたのね!」
無視するなとばかりに、ノエルがアピールを始める。クロエが手を差し出すと、ノエルはその指をペロペロと舐め始めた。
「ふうん。お前、やっぱり雄なのね」
ある意味思った通りとでも言おうか、ノエルはクロエに対しては、以前までと同じ態度のままだった。
やはり、ノエルも成猫になったということなのだろうか。
人間の女性を好むというのはよくわからないが、飼い猫にはよくあることなのかもしれない。
「ノエルだ!」
「うわー! ぶさ猫が来たー!」
クロエの腕に抱かれるノエルを見て、子供たちが目を輝かせる。普段からノエルを構ってくれる、ノエルもお気に入りの子供たちなのだが、ノエルはチラリと子供たちに視線を向けると、興味なさげにぷいっと明後日の方向を向いてしまった。
まさかまさかのノエルの反応に、子供たちが絶句する。
「ノエル……?」
「え、どうしたの? 機嫌悪い?」
「シャーッ!!」
「っ!」
子供たちがノエルに手を伸ばすと、それを許すまじとばかりにノエルは威嚇を始めた。
今まで一度もノエルから威嚇されたことのなかった子供たちは愕然とし、大きく目を見開く。その目からあっという間に涙がこぼれ落ちていった。
「うわーん! ノエルに嫌われたー!」
「ノエルー! ぶさ猫って言ったから嫌いになったのー?」
次々と子供たちが泣き出していく。それを私はクロエとルークの三人で必死で宥めた。
「だ、大丈夫よ。この子、ちょっと今日は機嫌が悪くて。ねえ、ルーク」
「そ、そうです。ノエルは私にも噛み付いてきて……別に君たちだけというわけではないから」
私とルークは顔を見合わせ、互いにコクコクとうなずき合った。なんとか泣き止んでもらおうと必死だった。
クロエも焦った様子で子供たちを宥めに掛かる。
「あ、あなたたちだって機嫌の悪いときくらいあるでしょ? また別の日なら、触らせてくれると思う」
「ほ、本当?」
子供たちが、縋るような目で私たちを見てくる。ここで違うと言えば、元の木阿弥。私もルークもクロエも、全力で首を縦に振った。
クロエが子供たちの背中を押す。
「そ、そうだ。そろそろお昼寝の時間じゃない? 先生がベッドの用意をしてくれているから、早く行かなくっちゃ」
クロエの言う先生とは、孤児院に務めている人たちのことだ。現在は十人ほどがいて、交代で子供たちの世話をしている。
「でも……」
昼寝の時間だと分かっていても、ノエルが気になるのだろう。グズグズとする子供たちだったが、結局はクロエに押し切られた。
「良いから! またリリがノエルを連れてきてくれるから、その時、遊べばいいじゃない」
「……また、連れてきてくれる?」
「も、もちろん」
さっと空気を読み、頷いた。連れてきた時、ノエルがどういう反応をするのか考えると怖いが、今はこう言うより他はない。
私が頷くと、ようやく子供たちは納得し、泣き止んだ。
ぐずりながらも、寝室のある部屋へと歩いて行く。
「お休みなさい」
クロエが子供たちに声を掛ける。私とルークも同じ言葉を口にした。子供たちは泣きはらした顔で、だけど笑顔で「お休み」と言ってくれる。
「……ふう」
全員が部屋を出たところで力が抜けた。
近くの会衆席に腰掛ける。クロエからノエルを受け取り、私は彼を睨んだ。
「ノエル、駄目じゃない。いつも遊んでもらっていたのに、あんな態度を取っては嫌われてしまうわよ」
猫に言っても仕方ない。分かってはいたがそう言うと、ノエルはプスッと膨れた様子で「ニャア」と答えた。
あまりのタイミングの良さに、目を丸くする。
「……なんか、『嫌なんだから仕方ない』みたいに聞こえたんだけど」
聞いていたクロエが複雑そうな顔で言う。ルークも微妙な顔で頷いた。
「……私にも、そう聞こえました」
「……私もよ」
三人で顔を見合わせる。
「前からそういうところがあったんだけど、最近のノエルって本当にこちらの言っていることを理解しているんじゃないかって思う時があるの」
最近思っていたことを告げると、ルークが眉を寄せつつ否定した。
「お嬢様、ノエルは猫です。それはさすがに考えすぎだと思いますが」
「そ、そうよね。私もそう思うわ」
誰かに否定してもらいたかったところもあり、私はホッとしつつもルークに同意した。クロエも「さすがにそれはないと思う」と言ってくる。
全員の意見が一致したことで、なんとなくこの話は終わりにしようという空気になった。
さて、それではどうしようかと思ったところで、クロエがそっと手を挙げる。
「? どうしたの?」
「ちょっと良いかな。今言う話ではないと分かってはいるんだけど、時間がなくて。その、リリに相談があるの」
「私に? ええ、良いわよ」
なんの相談だろう。
急に小声になったクロエの態度に怪訝に思いつつも頷く。クロエがチラリとルークを見たことに気づいた私は、彼に言った。
「ルーク、少し離れていて。女同士の話を立ち聞きするのは無粋だわ」
きっと、男性には聞かれたくない話なのだろうと察したのだが、クロエは明らかにホッとした顔になった。私の命令に、ルークは素直に頷く。
「分かっていますよ。扉のところにおりますので、お話がお済みになりましたらまたお呼び下さい」
「分かったわ。ノエルを連れて行ってちょうだい」
「……私に抱かれてくれると良いのですけど……いてっ」
嫌だと言わんばかりにノエルはルークの指を噛んだ。ちょっと笑ってしまったが、さすがに真剣な話をするのにノエルを抱いたままではいられない。
私は、まるで人間に言い聞かせるかのようにノエルに言った。
「ノエル、駄目よ。……大事な話があるから、邪魔をしないでちょうだい。ルークと向こうで待っていて。お願いよ」
「……ニャア」
「えっ……」
ルークの顔が唖然としたものになる。
ノエルは私の言葉を聞いた後、不機嫌そうに鳴きつつも、ルークの腕の中へと飛び移ったのだ。思わずその顔を見る。ノエルの表情は『心外です』と書いてあるようだった。




