アル
「可愛いなあ」
リリが乗った馬車を見送りながら小さく呟く。
つい先ほど、父に婚約者と認められた少女のことを思い出すと、自然と唇が笑みを象った。
正直に言って、彼女の姿を目にするまで、婚約などどうでも良いと思っていた。
それは別に、弟にあれこれ言われたからというわけではない。
ただ僕が、『婚約者』に対し、何の期待も抱いていなかったとそれに尽きる。
『王子』としての僕に与えられる『婚約者』
受け入れるのはそれこそ僕の義務でしかない。だから父が『これ』というのなら、それがどんな女性であれ粛々と頷くつもりだった。
だけど、弟――ウィルとのお茶会が少し長引き、さすがに女性を待たせていることに申し訳ないと思いながら急いで彼女の待つ部屋に行った時、考えが変わったのだ。
椅子に腰掛ける彼女に目を向ける。
心臓が止まるかと思った。
――こんなに可愛らしい女性は見たことがない、そう、本気で思った。
腰まである美しい金髪が光に透け、キラキラと輝いていた。
確か年は十五歳。肌は白く、頬のラインにはまだ少し幼さが残っている。
気の強そうな緑の眼差しが心をざわめかせた。
睫が長い。唇がサクランボのように艶めいている。身体の線を主張するような真っ赤なドレスは派手だと思ったが、彼女にはよく似合っていた。
日に焼けたことのなさそうな腕は、触れれば折れてしまいそうなほどにほっそりとしている。
ウィルが言った通り、文句の付けようのない……いや、実に僕好みの女性だった。
――なるほど。だから父は彼女を婚約者にすると言ったのか。
父の意図を正確に把握し、苦笑しそうになる。父は父なりに、僕のことを考えて婚約者を選んでくれたのだとそういうことなのだろう。
――確かに、その点については感謝かな。
結婚は嫌でもしなければならないし、僕の自由になることでもない。それを好みの外見の相手を用意してもらえたのだから、有り難いと言うしかなかった。
――可愛いなあ。
つい、彼女に見惚れ、声を掛けるのを忘れていたが、彼女も似たようなものだった。
驚くことに、彼女は僕が来たことに全く気づいていない。
エメラルドのような美しい緑の瞳は床を鋭く睨み付けており、ブツブツと独り言を呟いている。その目の端に涙が光っていることに気づき、僕は反射的に耳を澄ませてしまった。
「悪役令嬢なんかじゃない……私はそんなのじゃないもの」
「?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかったが、すぐに理解した。
――ああ、そういうことか。
どうやら彼女は僕と弟の茶会を盗み聞きしていたらしい。彼女の待っている場所は、僕と弟がお茶会をしていたすぐ隣の部屋だ。多分、扉が開いてでもいたのだろう。それに気づいた彼女が近づき……話を聞いてしまったと、そんなところか。
「……」
まだ僕に気づかない彼女の前に立つ。
盗み聞きについて怒る気はなかった。おそらくはこちらのミスだろうし、彼女もあんな話は聞きたくなかっただろうと思うからだ。
――そう、あんな話。
ウィルが昔から僕に何度も繰り返し話してきた『ゲーム』のことだ。
双子の弟として生まれて来たウィルは、昔からどこかフワフワと、地に足を付けていないところがあった。現実感がないとでも言えばいいのか、何をするにも『本気』を感じないのだ。
敢えて言うのなら、全部『遊び』や『冗談』にしてしまっているというか、常に一歩退いた場所からこちらを観察しているというか、そんな雰囲気を醸し出しているのだ。
「この世界は、ゲームの世界だから」
ウィルは、僕と二人きりになるとよく『ゲーム』の話をしてきた。
それは物心ついた時から、ずっと、だ。
今生きているここは、彼が生きていた前世であったゲームの世界で、自分たちは『攻略対象』。いずれ『ヒロイン』と呼ばれる女性がその『攻略対象』から一人を選び、幸せになっていく。ここは、ヒロインのための世界なのだ、と。
そんなことを弟は、真顔で語り続けた。
はっきり言って、初めて聞いた時は、当たり前だが弟の正気を疑った。
「オレは、ヒロインに兄上を選んでもらいたいんだ。だから兄上には話しておく。オレ、昔から兄上、推しなんだ。だから兄上にはちゃんとヒロインと幸せになって欲しいし、きっちりルートに乗ってもらいたいんだよ」
「……お前の言っていることは理解できないよ」
「別にそれでいい。ただ、心に留めておいてくれ」
「……」
幼い頃から天才と称されていた僕だったが、弟のこの話にだけはついていけなかった。
何度か弟が狂ったのかと本気で心配したが、彼の目はどう見ても正気だったし、僕以外にその話をするような真似もしない。普段は第二王子としてきちんと生活しているのだ。
弟がおかしくなるのは、この『ゲーム』の話をする時だけ。
それに気づいてからは、弟の話に積極的とまでは言わずとも、それなりに付き合うことにした。そうすれば弟は満足するし、拒絶すれば弟は激昂する。それを僕は経験として知っていたからだ。
弟の話は、突拍子もなく、到底信じられないことが多い。
『攻略対象』という言葉も然り、この世界が『ゲーム』だと言い張ることも然り。
半信半疑どころか、僕は一割ほども本気で信じてはいなかった。
だけど、それは当たり前だと思う。
いくら愛している魂の片割れとも言える双子の弟の話でも、さすがに自分の世界が『作られたもの』などと言われて信じられるはずがないからだ。
先ほどもそうだ。
いつも通り、いや、いつもより熱心に、ウィルは僕の今日の見合い相手のことについて話してきた。
『悪役令嬢』
ありとあらゆる悪逆を尽くす、好意の欠片も抱けない女性の話を。
その女性は、弟曰く、美しい見た目とは裏腹に、眉を顰めたくなるような行動ばかり起こす最低な人物のようだ。
そしてその人物が、よりによって、僕の婚約者であるという。
その女性と僕は婚約し続け、最終的には彼女を捨て、弟曰くの『ヒロイン』と結ばれる選択をするという。あとは、めでたしめでたし。
それが弟の願う、ハッピーエンドというものらしい。
――うん。なかなかに悲惨な話だ。
はっきり言って、白けてしまった。
だって、その女性は、父が用意した婚約者なのだ。たとえどれほど最低な女性だとしても、勝手に婚約を破棄し、別の女性に乗り換えるなど普通にあり得ない。
というか、僕がそんな真似、本気ですると思うのだろうか。
真顔で聞いたが、弟は「だってゲームだし。そういう設定なんだから仕方ないだろ」と笑っていた。
弟には、この件についてだけは話が通じない。それを改めて感じた瞬間だった。
それでも、さすがにそのままにはしておけない。そろそろ現実を見ろと弟を諫め、そのせいで彼女の元に来るのが遅れてしまった。初対面の女性と会うのに遅刻など、最低だ。
そうして可能な限り急いで彼女の待つ部屋へと向かい、リズ・ベルトラン公爵令嬢の目の前に立ったのだ。