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「いいよ。君には関係ない話だし。だけど、君が僕の妃になった時は、きちんと考えてね。今はまだいい。だけど、妃になった時、今みたいな行動をされると困るんだ」
「妃の行動は、アルの意志だと考えられるということですよね。分かります」
「うん。そういうこと。理解が早くて助かるよ」
アルが笑顔で頷く。
――ああ、これではまるで本当に彼と結婚するみたいではないか。
笑ってしまう。
ついさっき、私は彼に相応しくないと思ったばかりなのに。
ここまで自分に言い聞かせても、結局私はアルと結婚する気でいるのか。
すぐにそんな風に思ってしまう自分に呆れながら、私はふと、路地に目を向けた。
「あら?」
「ん? どうしたの。リリ……って、うわあ」
私の視線を追ったアルが、びっくりしたというような声を上げる。
それを無視し、私は路地の片隅に発見したものをじっと見つめた。
「……猫?」
大通りから外れる路地の隅。そこに一匹の猫がいた。大きさは、子猫か成猫か微妙なところだ。元は白い猫なのだろうが、薄汚れて灰色になっている。
そしてその猫は、びっくりするくらい不細工だった。
「……にゃあ」
私の視線に気づいた猫が、小さく鳴いた。
その声が、「どうせ、お前も不細工だと思っているのだろう?」と聞こえた気がし、私は目を瞬かせた。
「……」
「リリ?」
アルが声を掛けてきたが、私はその声も無視し、そろそろと猫に近づいていった。なんとなくだけれど、呼ばれたような気がしたからだ。
「……」
野良猫なら逃げてしまうかもしれない。
そんな風にも思ったが、猫は私を睨み付けながらも、じっとその場に蹲っていた。
「あ……怪我?」
近づいたからこそ気づけたが、猫は身体のあちこちに怪我を負っていた。身体もやせ細っていて、碌にものを食べていないのは明らかだ。
「お前、餌を食べていないの? 怪我をして動けない? もしかして、人間に虐められたの?」
思わず駆け寄ると、猫は驚いたように後ろに下がった。逃げるまではいかないが、それでもこちらを警戒しているのは確かなようだ。
「リリ、汚いよ。野生の猫だ。どんな病気を持っているか分からない。不用意に触らない方が良い」
「分かってますけど、あの子、怪我してます。それに痩せているし、あんまり餌も食べてないんだと思う。多分、まだ子猫なのに……」
「子猫? 僕には成猫に見えるけど」
「顔がまだ幼いから多分。このままだと多分、近いうちに死んでしまいます」
餌も碌に食べていない。怪我もしている状態では、体力だってあっという間に尽きてしまう。
保護しなければ。
そんな気持ちで怖がらさないように、そっと手を差し出してみたが、猫は更に後ろに下がってしまった。
「……逃げないで」
「リリ、もしかして、あの猫を助ける気?」
アルが小声で尋ねてくる。私は猫と視線を合わせないように気をつけながら頷いた。
「死にそうな生き物を見過ごすほど、私、薄情ではないつもりです」
それに、家族すら知らないことだが、私は動物が好きなのだ。家族、特にユーゴ兄様が動物嫌いなので一度も言ったことはないが、特に好きなのは猫。猫好きな私が、この、今にも死にそうな猫を放っておけるはずがない。
「おいで……おいで……」
必死で呼びかけると、また、アルが聞いてくる。
「……何もそんな不細工な猫を拾わなくてもいいんじゃない?」
「それならなおさら助けなくちゃ。私以外、助けようとする人がいないってことですから」
不細工だからという理由で見捨てられてしまうのなら、今、私が助けないと、この子は確実に死んでしまう。それはどうしても嫌だった。
だけど同時に不思議にも思う。
少し前の私なら、いくら動物が好きでも『不細工』という理由だけできっとこの子を見捨てたはずだ。美しくないものは自分に相応しくないと、視界にすら入れなかったかもしれない。
こんなところでも、少しずつ、少しずつ、でも確実に私は変わっているのだ。
「私が助けます。その後、捨てたりなんてしません」
「本気、なんだね?」
「はい」
アルの言葉に頷くと、彼は溜息を吐き、「分かったよ」と言った。
「僕も猫を捕まえるのに協力しよう。でも、君は本当に良い子だよね。こんな君を『悪役令嬢』なんて言うんだから、僕は弟が分からないよ」
それを聞き、笑みを浮かべる。
良い子、なんて言われるのはむず痒い。
「あなたに出会った頃の私ならきっと無視をしていたなと今、ちょうど思っていたところです。私のことを良い子だと言って下さるのなら、それはきっとアルのおかげ。あなたがいてくれて、間違っている私のことを正してくれているから、今、私はこうなれているんです。あなたがいなければ、きっと私は変われなかった。『悪役令嬢』から一歩も脱却できないままだったと思うのです」
少しずつ、私は前に進んでいる。きっと『悪役令嬢』から遠ざかっている。
だけど、それはまだ『少し』遠ざかっただけで、何らかの切っ掛けがあればすぐに戻ってしまう程度のものだろう。
たとえば今、アルに手を放されてしまったら、きっと私は気づかないうちに『悪役令嬢』に戻ってしまう。そんな気がする。
「アルがいなければ私はきっと駄目なんです。だから、私が『悪役令嬢』でなくなったとちゃんと言えるようになるまで、側にいて下さいね」
「……そんなの関係なく、いるに決まっているよ」
「……ありがとうございます。それで、本気で猫が逃げてしまいそうなんですけど、何か案はありますか?」
猫との攻防はいまだ続いている。私が近づこうとすればその分猫は後ろに下がる。尻尾は警戒するように膨らんでいるし、視線もキツい。このままでは数分もしないうちに逃げてしまうだろう。
いくら怪我をしているとはいえ、全力で逃げる猫を人間が追いかけても捕まえられるとは思えない。
「なんとか……なんとか方法は……」
「それなら、歌を歌ってみればどう?」
「へ?」
アルの突然の提案に、私は虚を突かれたように固まった。アルは猫を視界に捕らえながらも私に言う。
「歌ってみればいいんだよ。……君の歌は、妙に心が安らぐというか、安心する。今は警戒している猫も警戒心を解くかもしれない」
「そんな、上手くいくかどうか」
「何もしないまま逃げられてしまうよりマシだろう?」
「そ、それはそうですけど」
「君の歌には魔力が込められている。歌自体に魔力が含まれているのなら、人間だけでなく猫にだって効くはずだ。理論上はね」
「理論上って……」
「理論が完璧なら、やってみる価値はあると思うけど」
「……」
黙り込み、考える。
確かにアルのいうことは理に適っている。試してみてもいいかもしれない。だけど、こんな外で、それも猫に向けて歌うなんて思っていなかったのだ。
自分の、決して上手くない歌をこんな場所で披露しなければならないことに、私は躊躇していた。
そんな私にアルが言う。
「猫を助けたいんだろう? 悩んでる暇はないと思うけど」
「! そうです、よね。やってみます」
確かにその通りだ。悩んでいるうちにいつ猫が逃げてしまうとも限らない。
それだけは避けたかった私は、さっと気持ちを切り替え、以前アルの前で歌った曲を小声で歌い始めた。
「……」
短い、一分程度の歌だ。
歌い終わり、猫を見つめる。何か変化はあるだろうか。それだと嬉しいのだけれど。
「あ」
ずっと膨らんでいた尻尾がすとんと落ちた。怒っていたように見える目も、ずいぶんと落ち着いている。
「……にゃあ」
猫は一声鳴くと、私の方へと近寄ってきた。さっきまでがうそのように大人しい。
「わ……」
足下までやってきた猫は、頭を足に擦りつけ始めた。慌ててその場にしゃがみ込み、頭を撫でる。猫が嬉しげに目をキュッと細めた。
「可愛い……!」
「……いや、不細工だと思うよ」
「アルは黙っていて下さい」
「……ごめん」
すっかり我が子も同然の気分になっていた私は、悪口を言われたことに腹を立て、ぎっとアルを睨んだ。




