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「今、聞いていたんだけど、お前、孤児院なんて行っているの」
「え? ええ」
なんだ、そのことかと思いながら頷くと、兄は益々不機嫌そうな顔をした。
「お前は公爵家の令嬢だろう? 何故、お前みたいに美しい貴族の令嬢が、汚い、親のいない、教育も行き届いていないような孤児たちがいる場所へ行かなくてはならないんだい? 僕にはさっぱり理解できないんだけど」
「お兄様」
綺麗なものだけが好きな兄だ。孤児院に良いイメージを持っていないだろうことは容易に想像が付くが、それでもさすがに言い過ぎだと思った。
「お兄様。今のお言葉、撤回して下さい。皆に失礼です」
「お前の言葉とも思えないね。孤児院は所詮、孤児院。撤回はしない」
「お兄様!」
声を荒げると、兄は冷たい目で私を見ながら言った。
「いいかい? リリ。お前はベルトラン公爵家の一人娘だ。美しく賢い。僕たちは選ばれた人間で、孤児や、そこらの貴族たちと同列にされるような存在ではないんだ。お前も、分かっているはずだろう?」
「……」
言い聞かせるような言葉に、私は唇を噛みしめた。
兄の言うことは分かる。
ついこの間まで、私も同じように思っていたし、その時の私ならきっと賛同していたはずだ。
だけど、私は孤児院にいる子供たちを知ってしまった。そして兄が認めないであろう伯爵家の娘であるクロエと友達になってしまった。
それを、後悔していない。
それどころか、あの日、孤児院に行きたいと言った自分を褒めてやりたいと思っているくらいだ。
だから、兄の言葉には頷けなかった。
「……子供たちは皆、良い子です。素直に私のことを慕ってくれます。そりゃあ、綺麗とは言い難いです。お風呂だって毎日入れるわけではないし、服だっていつも誰かのお下がりです。だけど、それが何だと言うのですか」
「リリ……」
兄が驚いたように私を見つめる。
だけど、実は、誰よりも一番、私が驚いていた。
――ああ、いつの間にか私は、そういう風に思うようになっていたのか。
少しずつ、変わってきただろうとは思っていた。だけど、目に見えないものは変化が分かりにくい。変わったつもりではいるけれど、実はそうでもなということもよくある。
私も、上っ面だけで深い場所までは変わっていないのだろうなと思っていた。
だけど。
今、私が言った言葉は、絶対に以前の私なら言わなかった言葉だ。そして、紛れもなく、今の自分の本心だと言い切れた。
子供たちを悪く言われたくない。
美しい者以外は価値がないなんて思えない。高位の人間にしか価値を見いだせないなんて、クロエと友達になれて良かったと思っている私が、言えるわけがないのだ。
「リリ、お前、何を言っているんだ……」
「何をって、本心を伝えているだけです。私は、兄様の言うことは全く理解できません」
「理解できないはずはないだろう? 僕とお前は、この屋敷の中の誰よりもわかり合えていたじゃないか。なあ、分かるだろう? 僕はお前を心配しているだけだ。美しいお前に孤児院など似合わない。ドレスだって汚れるだろう。みすぼらしい者たちにたかられるだろう。そんなお前は見たくないんだ」
「見解の相違です。私はそんな風には思いませんし、今の兄様の言葉は不愉快です」
「僕の方が不愉快だよ! 可愛くて綺麗なお前が、孤児院に行くなんて……気持ち悪い。もう、絶対に行かないでくれ。僕をこれ以上心配させないでくれよ」
顔を歪める兄。だけど私は、自分の心が冷えていくのを感じていた。
今の兄の言葉は、違う、と思ったのだ。
「心配? 兄様。それは違います。兄様は私の心配なんてしていない。ただ、自分の嫌なことを私にされるのが嫌なだけ。それだけです」
「リリ……」
「兄様の好みに、私を付き合わせないで下さい。兄様の意見には賛同できません」
そんなことを言われるとは思わなかったという顔で、兄が私を見てくる。
「違う……僕は、本当に、お前を……」
「それならどうして、私の話を聞いてくれないのですか。私は彼らを良い子だと言いました。だけど兄様は聞いてもくれなかった」
「当たり前だろう! だってあれらは汚い! 汚いものに生きている価値なんてないんだ。そんな汚いものに僕の可愛い妹が関わっているなんて、許せるはず、ないじゃないか!」
吐き捨てるような言葉を聞き、私はしんと心が冷えているのを感じていた。
ここまで言ってもまだ、兄は私の大事にしようとしているものを否定するのか。
「わかりました」
「リリ!」
言葉を句切ると、兄がホッとしたような顔をする。そんな兄に私は冷たく言った。
「兄様には私の気持ちが分かっていただけないということが、良く、分かりました。これ以上は、時間の無駄。私は、部屋に戻ります。……申し訳ありませんが、しばらく私に話しかけないで下さい。冷静に対応できませんから」
「リリ!」
「行くわよ、ルーク」
兄の声を無視し、私はルークを連れて、ライブラリーを後にした。
さすがに兄もついてはこないようだ。
しばらく廊下を歩いていると、ルークがおそるおそる話しかけてきた。
「その……お嬢様。良かったのですか?」
「良くはないわよ。でも、許せなかったんだもの。仕方ないじゃない」
『悪役令嬢』は身内に嫌われている。それを回避するために、私はヴィクター兄様との関係を改善しようとしたはずだ。
そのはずなのに、何故か自分から、嫌われてもいなかったもう一人の身内に喧嘩を売っている。
良くない。あまりどころか、全く良くない展開だ。
「これって多分、自分から、『悪役令嬢』に近づいてるってことよね。でも良いわ。後悔していないから」
とはいえ、私も少し冷静になる必要があるだろうけど。
溜息を吐いていると、ルークが「いいえ」と言った。
「いいえ、お嬢様。きっと、『悪役令嬢』からは遠ざかっていらっしゃいます」
「そう? 間違いなくさっきので、お兄様には嫌われたと思うわ。それでも?」
「はい。それでも、です」
確信を持ったように頷くルーク。彼は小さく笑みを浮かべながら言った。
「お嬢様の怒りは間違ったものではございません。孤児院の子供たちのために怒るお嬢様は、とても綺麗だと思いました。それでユーゴ様に嫌われたとして、何が問題だと言うのでしょう。お嬢様は、何も間違ったことはしていらっしゃいません。それは私が保証致します」
「……あなたに手放しで褒められると、気持ち悪いわね」
なんとなく苦笑してしまう。
彼に褒められると、調子が出ない。だけど、悪い気持ちではなかった。
「……ありがとう、ルーク」
「いいえ。私は、自分が思ったことを述べただけですから」
「そう」
それ以上は言わず、無言で部屋へと戻る。
沈黙は短くなかったが、私は心地よい空気を感じていた。




