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――お嬢様に拾われて五年が経った。
最初はなかなか覚えられなかった執事の仕事もようやく楽にこなせるようになり、他の使用人仲間に迷惑を掛けることもなくなった。
お屋敷での生活は、それまでを思えば、まるで天国だ。
衣食住に給金まで与えられる。最初に給料をもらった時は信じられなかった。
なんと素晴らしいところだろう。
お嬢様に拾ってもらえて本当に良かったと、心から思った。
――だけど、その気持ちはすぐにへし折られることになる。
「今日の気分はこれじゃないの! どうしてあなたは察せられないのよ。それでも私の専属執事?」
「……申し訳ありません」
「本当に、愚図なんだから! ああもう、良いから他のを持ってきてちょうだい。急いでね。待たせるんじゃないわよ」
「直ちに」
お嬢様の命令に、深く頭を下げ、踵を返す。どうやら今朝のお茶が気に入らなかったようだ。
私が好みのお茶を持ってこられなかったことにお嬢様は腹を立てていたが、その日の気分を察しろと言われてもさすがに難しいと思うのだが。
「はあ……」
一通り仕事を終え、与えられた個室に戻る。
酷く気持ちが消耗していた。
「きついな……」
先輩の使用人たちが言ったとおり、確かにお嬢様は手を挙げるようなことはしなかった。だが、いちいち言動がキツく、こちらの心を折るようなことを平気で言ってくるのだ。
それが一度や二度なら我慢もするのだが、彼女の場合はその頻度が高すぎた。
酷い時は一日に何度も。
彼女は私の心を無自覚に抉ってくる。
次は何を言われるのだろう。また、酷いことを言われるのだろうか。
いつしか、彼女の前に出る時は、そんな風に思うようになっていた。
命の恩人なのだ。誠心誠意、仕えようと思う気持ちに嘘はない。だけど、こんな生活が五年も続けば、気持ちも疲弊してしまう。
最初は仕方ないなと思える程度だったお嬢様の我が儘も、年を経るごとに酷くなり、今では命令だと分かっていても顔を顰めたくなるほどだった。
――誰か、お嬢様を諫めてくれる人がいればいいのに。
そんな期待は早々に打ち砕かれた。お嬢様の両親である公爵様と奥方様は、お嬢様の我が儘を仕方ないと言って受け入れ、甘やかしてしまうような人たちだ。お嬢様の上に二人いる兄たちは、それぞれ自分のことが忙しいのか、妹の行動など気にも留めていない。
お嬢様の言動や行動はどんどん酷くなる。
被害を被るのは、彼女の専属執事である私だ。
――ああ、もう耐えられない。
このままこの生活が続くと思うと、本当に心が折れてしまいそうだ。
――お嬢様を嫌いになりたくないのに。
今はまだ、ギリギリのところで踏みとどまっているけれども、更にこれが続けば危ないだろう。
自分でも分かっていた。
お嬢様は、私の女神なのだ。
皆に見捨てられ、死にかけだった私を見つけてくれ、助けてくれた、私にとってのたった一人の女神。それが、彼女。
女神を、憎みたくなんてないのに。
ギリギリの綱渡りのような生活。
頑張ってはきたけれど、踏みとどまってはいたけれど、もうそろそろ、駄目かもしれない。
そんな風に思い始めてきた。
そして今日。
何が起こったのか分からなかった。
お嬢様はいきなり私を呼び出したかと思うと、
「ルーク。今までごめんなさい。あなたにきつく当たって悪かったわね」
などと言い出したのだ。
「は?」
どうしたのだろう。お嬢様は、何か悪いものでも食べてしまったのだろうか。
不審に思い、お嬢様を見つめる。彼女はそんな私を無視して更に言った。
「今まで、あなたを傷つけ続けたこと、とても反省しているわ。今後はしないと誓う。だけどね、あなたにも責はあると思うのよ。あなたが私に対してあまりにも萎縮した態度を取るから、それで私は苛々してつい……あ」
あ、という言葉に、お嬢様の本心が見えた気がした。
どうやらお嬢様は誰かに、私に謝れとでも言われたらしい。それを実行したというところだろうが……結局、悪いと思っていないところがお嬢様だと思った。
なんというか……らしい。
しかし、誰がお嬢様を諫めたのだろう。
お嬢様はプライドが山よりも高い人だ。相当な人物に言われでもしない限り、自らの行動を改めたりはしないと思うのだけれど。
不思議に思いつつも、私は言った。
「……どうしたんですか、お嬢様。突然謝りだすなんて。何か、変なものでも食べましたか?」
「違うわよ! どうしてそういう反応になるの! 普通、そこは感動して『いいえ、リズ様は何も悪く無い。悪いのは僕。それなのに、主人に気を遣わせてしまうなんて従者失格ですね』とか言うところでしょう!」
なるほど、そう言われると期待していたのか。それは悪いことをした。……したのか?
内心首を傾げつつ、私は言った。
「……そう言えばいいんですか? それなら最初からそう言って下されば……」
「だから違うって言ってるでしょう!?」
どうやら違うらしい。
「私は! 今までの自分の態度を反省したの! だってほら、あなたいつだって私に対して萎縮して。昨日だってそうじゃない! あなた、私が殴るとでも思っているの? あんなの態度を見せられたら、色々考えるし、反省するしかないでしょう!」
「え? 反省? あなたが? しかも、今更ですか? って……あ……」
しまった。本音が出てしまった。瞬時にお嬢様からツッコミが入る。
「あ、じゃないわよ!」
「も、申し訳ありません。お嬢様。おしかりはお受けしますので……」
慌てて頭を下げた。さすがに忠誠を捧げた主人に向かって言って良い言葉ではないと思ったのだ。
最近は気をつけて、余計なことは言わないようにしていたというのに、失敗した。
さて、今日は何を言われるのだろうと内心びくついていると、お嬢様が溜息を吐きながら言った。
「こんな……くだらないことで叱ったりしないわよ。……さっきも言ったでしょう? 今後は態度を改めるって。これからは私に遠慮せず、ものを言ってくれて構わないわ。それで処罰を与えたりはしない」
「え……本気だったんですか? 性質の悪い冗談じゃなくて?」
「違うわよ!」
ムスッとしつつもお嬢様は言った。
「私は心を入れ替えたの。心を入れ替えた私は、あなたをむやみやたらと怒鳴ったりしないわ。理不尽な真似はしない」
……本当、だろうか。信じても、構わないのだろうか。
じっとお嬢様を見つめる。もし嘘だった場合、私はきっとこれが切っ掛けで、お嬢様を憎むようになるだろう。それくらいには大きなことだと、そう思った。
だから私は慎重に尋ねた。
「……本当に?」
「ええ」
「私の思ったことを素直に言っても構わないとおっしゃるので?」
「そうよ」
お嬢様の嘘を見破るのは、この五年でかなり上手くなった自信がある。その私の目から見ても、お嬢様が嘘を吐いているようには見えなかった。
だけど素直に信じるには、私は疲れすぎていた。だから、つい、言ってしまった。
「あなた、誰です? お嬢様の皮を被ったニセモノですか?」
いつものお嬢様なら、間違いなく罰を与えたはずの言葉だった。
だが、お嬢様は本当に何もしなかった。それでようやく、もしかしてと思えてくる。
どうやらお嬢様は、本気で心を入れ替えようとしているらしい。いつまで続くものかと疑わしく思ったが、それが婚約者となった第一王子のおかげだと知り、納得もした。
確かに『王子』という地位にある人の言うことなら、お嬢様は素直に聞き入れることができるだろう。
有り難い。本当に有り難かった。
先ほど、お茶を淹れに行った際に見た、王子の姿を思い出す。
アラン王子。お嬢様の結婚相手として申し分の無い人物だと、公爵様は言っていた。
確かにお嬢様が好みそうな容姿の持ち主だった。そして、人格も素晴らしい方のようだ。
たった一日で、お嬢様をここまで変えたのだ。それは今まで誰にもなしえなかったこと。
是非、王子にはこのままお嬢様を娶ってもらいたいものだと心から思う。
彼と共にいるのなら、きっとお嬢様は良い方向へ進んでいけるだろうから。
「良かった……」
小さく呟く。
ギリギリで、本当にギリギリのところで、私の中にいた女神は守られた。
女神は女神のまま、私の中に今もなお、存在している。
私を助けてくれた人。
私が忠誠を、敬愛を捧げるべき主人。
彼女を、嫌いにならなくて済んで本当に良かった。
彼女が、私の女神のままで、本当に良かった。
彼女がそうして変わっていってくれるのならば、私も黙って着いていくことができる。この先もずっと。
私の命、ある限り。
それが、あの日お嬢様に助けられた私が、彼女に返せるたった一つのものだと思うから。
あの日の誓いをもう一度。
今度は決して揺らがない。




