君がいるせいで、物語が始まってしまう。(1)
「そういえば兆華って、なんの病気だったんだっけ」
「なんだっけかな。でも心臓だろ?」
「全然そんな感じなかったのにな」
体育の授業が始まったばかりだった。
気だるく準備体操をしながらクラスメイトが朱里のことを話していた。
毎年のように冬は長距離走をしている。
小学生の頃から冬の体育は長距離走だ。
この高校でもそれは変わらないらしい。
朱里のことを話す彼らは去年のことを思い出したのだろう。
僕たちと同学年の兆華朱里が、授業中に倒れて突然に死亡したのは去年の冬のことだった。
だけど彼女は、彼らの言うような心臓の病気で死んだわけじゃない。
僕は先生の合図より一秒早く体操を切り上げた。
朱里のことを話していたクラスメイトに後ろから忍び寄って、
「朱里はなんの病気でもなかったよ」
と言ってやる。
「え? そうなん?」
驚いた顔をクラスメイトはする。
「病気じゃなくても人は死ぬんだ」
と僕が言うと、話が少しも伝わっていないような顔を彼らはした。
つまり僕も君たちも、授業中に突然死んでしまうことがあるってことだよ。
ということを僕は言いたかった。
僕たちの体は、人生を平穏に全うできるほど丈夫に出来てはいない。
そう丁寧に説明しようと思ったのだけれど、
「それじゃあまずはウォーミングアップだ。軽く二周」
と先生が声を張り上げた。
僕たちは一周四百メートルのトラックの上を走り出す。
みんな軽く走っているのに、その中でも僕の走りは遅い。
前を走る彼らは誰もジャージを着ていなかった。
休み時間の時には着ていた人もいたのだが、授業開始のチャイムが鳴るなり脱いだらしい。
規則というほどではなかったけれど、授業中はなるべくジャージを着ないようにと言われていた。
そして僕以外のみんながそれを守っていた。
僕はジャージを着ていても寒かった。
冬の空気、風は目に見えない茨だった。
僕はそれを吸い込まされていた。
走っているうちに段々と息が乱れていく。
走れば息が乱れる。
それは自然なことだけど、けれども僕は心臓の動きが怖くなる。
運動中に心肺停止に陥る人は少なくない。
朱里が特別なわけではなくて、健康な学生にも突然死は起こりうる。
僕の前を走っている彼らはそのことを知らない。
僕だって、朱里を失ってから理解した。
朱里と僕は付き合っていた。
あんまり不良っぽくない不良とパシリっぽくないパシリという関係だった僕たちは去年の夏休みの前に恋人同士になって、その年の冬に朱里は死んだ。
朱里は気が強くて不良で、きっとふてぶてしく長生きするんだろうって僕たちは思っていた。
そんな朱里が簡単に死んでしまって、僕は僕たちの生命が信じられなくなってしまった。
命が大切で尊いのなら、もっと頑丈に輝き続けてくれなきゃおかしいだろ。
そう叫びたくなる。
叫びたくなるほどに僕は命の尊さを疑っている。
すぐになくなりそうな、信頼ならないものだった。
グラウンドを一周したところで僕は走るのをやめる。
悲しげな顔を見せる体育教師のところまで歩いていって、
「すみません。もう無理です」
と僕は言った。
「ああ。わかった。無理するな」
走れそうになったら、好きな時にまた入れ。
先生の言葉にうなずき、僕はグラウンドの脇に植えられている大きな桜の木の陰に向かった。
秋のうちに葉がすっかり落ち、その落ち葉も丁寧に掃かれて何も残っていない、冬の学校の桜の木だ。
「朱里、君が死んでしまってから僕は走るのが嫌いになってしまったよ」
木陰に入った僕はへたり込んで独り言を言った。
枝は血管のように複雑に広がっていて、朱里のいるであろう空の青と太陽光を細かく分断していた。
「なにアホなこと言ってんの。お前元々走るの苦手だったじゃん」
と朱里が言った。
朱里の声だった。
僕は一年振りに彼女の声を聞いた。
空からではなく、もっと近い所、僕のやや後方から聞こえてきた声だった。
僕の目は驚きで大きく開かれて、だけど声のした後ろをすぐには振り向けない。
硬直したような首をどうにか回すと、死んだはずの朱里が立っていた。
死ぬ前の彼女と変わらない姿をしていた。
校則違反なのに染めているアッシュブロンドの髪。
強気な性格を物語るようなつり目。
でも眼鏡を掛けているのは初めて見た。
白いフレームが白骨を連想させた。
「よう、久しぶり。先に言っとくけど、幽霊じゃないからな。生き返ったんだ
眼鏡を掛けた朱里は得意そうな顔をした。