九頁目
件の街道からほど遠い町の入り口付近にうずくまる影あり――人狼から逃れてきた麗筆であった。
「あああ……あの駄犬のせいで計画が台無しです……。あのひとたちからケテルの情報を手に入れようと思っていたのに」
『まぁまぁ、未来の旦那様をそんな風に言うもんじゃないですよ。……ぷぷっ!』
「せいぜい笑っていなさい、追いかけ回されるのは貴女も同じなんですからね」
『え~~? 気が利く魔本、Dちゃんとしては、そこはちゃあんと交代してあげますよ~。……いっそ本当に番になってみたらどうです? ちっちゃいワンちゃん、可愛いと思いますよ~』
麗筆の脳裏に、もふもふの小さい狼をたくさん抱えた自分の姿が浮かんだ。ふるふると首を振ってその映像を消す。
「笑い事じゃないですよ、まったく! …………あ、しまった。グリちゃんを出しっぱなしにしてきてしまいました」
『グリちゃんって?』
真顔で放心している麗筆にDが尋ねる。とはいえ、麗筆の指す『グリちゃん』とやらが何かは薄々勘付いていたのであるが。
「ぼくが服の袖から出した異次元の生き物です。まぁ、彼は元々腐肉喰らいですから、多少放っておいても大丈夫でしょう。そのうちまた出会ったら回収しておきますよ」
『干からびちゃったりしない?』
「……多分。水場を求めて移動するでしょうし、森の中にいればすぐさま死んだりはしないでしょう、きっと」
『いつからあんなの飼ってたの、麗筆』
「Dと出会うずっと前ですよ。彼は長生きですね」
黒い瞳の少女とピンクの革の魔本は顔を見合わせて笑った。思わぬところで元の体に戻った彼らだったが、もう一度入れ替わり今度こそ町に入ることにした。少女の瞳は深い青へと変わり、呪文書の装丁は白い革へ、そして中央の宝石はオニキスへと変わった。
「さぁ、気を取り直してレッツゴー!」
『はぁ……。ぼくはちょっと疲れました。用事があるとき起こしてください』
「あ、待って麗筆。ひとつ質問があるんだけど、探索者ってなに?」
『ああ……。まぁ、いわゆる“何でも屋”のようなものですよ。腕に覚えのある者たちが、持ち込まれる厄介事を解決していくのです。身分に関係なく実力だけでのし上がれる世界だということで、貧しい生まれの者が一攫千金を夢見て門戸を叩いたり、社会から追われて行き場のない者が身を寄せたり。およそ、やくざと変わらない、ならず者集団ですよ』
「ふぅん」
麗筆はそう言うが、先ほど助けた執事は探索者のことを好意的に捉えているようだった。長く旅するならば、いっそ自分もその探索者の身分を手にしておいた方がお金をもらうにもやりやすいのじゃないかとDは考えた。
「よしっ、私も探索者になる!」
『……どうしてそうなるんです?』
「だぁって~、楽しそうじゃない? 私の実力を世に知らしめる良い機会だし~」
『あんな弱い強盗相手に勝てないようでは全然ですよ。結局ぼくに頼ったでしょう』
「あ、あれは……人間相手は慣れてなかったんだもん。しかも大勢が相手だったし。麗筆みたいに追いかけ回された経験なんてありませんもん!」
『……ぼくだって好きで対人戦が上手くなったわけではないのですが』
唇を尖らすDに、同じく不満そうな麗筆。ふたりはしばらく口を利かないままで、町の通りを歩いて行った。もうすぐお昼時なのか、どこからともなく美味しそうな匂いが漂ってきている。
「良い匂い。なんだろう、これ」
『白身魚のソテーでしょうね。オリーヴオイルにニンニク、鷹の爪、ローズマリーなどを香りづけにしています。プチパンを焼き戻したり、無発酵のピタを焼いたり。豚の腸詰肉を焙ったり……』
「美味しそう! お腹減っちゃった」
『……一流の魔術師たるもの』
「ああ、はいはい。そういうお説教はいいから! それで、なにを頼んだらいいと思う?」
『オススメを頼むのが一番確実ですよ。外のテラスで食べてはいかがです?』
「はぁ~い!」
白いペンキが目にも鮮やかなカフェに入ったDは、麗筆の勧め通りにテラス席に座った。オススメを聞いて出てきたワンプレートランチは見た目もお洒落だった。水菜と紫キャベツとプチトマトのサラダ、鮮やかな茹で海老のタルタルソース添え。メインは牛肉の柔らかいミニステーキ。自由に取って食べて良いプチパンは控えめに。デザートはカラメルソースをかけたプディングと紅茶となっている。
「わ~、真っ赤でキレー!」
『……それを初めに食べようと思った者はよほどお腹が空いていたんでしょう。そして、食べ続けようと思った者は悪食ですね』
「麗筆、トマト嫌いなの~?」
『それは、観賞用の実なんです。食べ物じゃないんです』
チョコレート以外を初めて口にするDは、ひと口食べるごとに大げさに誉め称えながら、ゆっくり時間をかけて完食した。食後のアイスティーを飲んでいるとき、すぐそこの通りから男の粗野な声がした。
「おいこらぁ、ぶつかっただろうが、謝れよオラァ!」
「あ……あ、あ……」
「ったくどこ見てんだボケがぁ! チッ、靴にかかっちまった。オメーが避けねぇから! 邪魔くせぇとこ歩きやがって、だからこうなるんだよ! オラッ!」
「ひっ! うぁっ、ぐ……!」
見れば大柄なスキンヘッドの男が、痩せぎすのローブの男を蹴飛ばしている。辺りにはぶつかった拍子に落ちたのだろう、割れた薬瓶と薬液が散らばっている。道行く人々はあからさまに彼らを避けていく。Dは飲み干して氷しか入っていないグラスを手に、無言で立ち上がった。