六十七頁目
手早く身支度を整えたバンたちは、暗くなるばかりの道を急いだ。木々の間を抜け、獣道を辿って山へ分け入った頃にはすでに陽は落ち切り夜の帳が下りていた。
「今日は月が明るくて助かったにゃあ」
小声で囁くティナ。その足取りは猫のように軽い。
デコボコな山道も、お日様の下にいるときとまるで変わらないかのようにスタスタ歩いていく。バンたちはティナについていくのがやっとだ。
「ティ、ティナさん、もうちょっとゆっくり……あっ!」
「大丈夫か、アイ。足、挫いてないか?」
「は、はい。ありがとうございます、バンさん」
躓いて転びかけたアイを咄嗟に受け止めるバン。いつでも気遣いを忘れない紳士的な青年だ。ただし、ちょっぴり面白くなさそうな表情でそれを見つめるティナの視線には気づかない。
「こっちにゃ。もうすぐ、ユーリがレイヒさんをぶん投げた場所に着くにゃ」
「ようやくか〜! ありがとな、ティナ」
「にゃはは〜」
バンに礼を言われ、ティナははにかむ。そして、照れ臭さを隠すように崖の縁までステップし、そこから見える景色に目を凝らした。
「木がいっぱい。川があるにゃ。……エーメ、【鷹の目】! ちょうだい!」
「……白き龍の加護を願う。より遠く、より深く、見通せる目を……【鷹の目】!」
ティナの言葉に、エーメはすぐさま詠唱を始めた。それは療術士が得意とする術ではなく、身体能力を大幅に押し上げる白術だ。アイが驚きの声を上げる。
「ええっ? エーメさん、【鷹の目】使えたんですか?」
「……ティナのためによく使ってたから、これは覚えた。あとはバンのための【活性化持続】とか。ワタシは白と黒、両方の素質はあるけど、癒やしの術を覚えるので精いっぱい。だから、これくらいしか隠し玉はないよ」
「充分ですよ……」
エーメの言うとおり、療術士には白術と黒術、両方の素質がある。と言うより、患者に大きな負担をかけずに治療するためには両方の術が必要であり、療術士を名乗るからにはどちらの術も修めておかなければ最低限の資格すら取れないのだ。
エーメは療術士の資格を持っている。それはつまり、多くの魔術の知識と使い方を現場での実践レベルで修得しているという証であった。つまり、他に何かするような余裕などないほどの詰め込み教育が為された中で、エーメはこの若さで資格を授かり、しかも他の分野の魔術にまで手を出す余裕があったということになる。
ただ優秀であるというだけでは補いきれないその努力に、アイは頭が下がる思いだった。もちろん自分も、同年代の黒術士に比べて何ら劣るところはないと自負していたし、一流であるための研鑽も欠かさなかったが、エーメのそれはまた別次元の努力なのだ。
(仲間のために頑張れるって、すごいことですね。わたしも、みんなのためなら……)
アイがそうやって気持ちを新たにしている間にも、ティナによる状況分析は進んでいた。
「やっぱりにゃ。煙が上がってる。直接火は見えにゃいけど、誰かが野営してるにゃ。……結構遠いにゃ。あれはかにゃり人数多いにゃよ。……あ、もう一箇所いるにゃ。にゃんで分かれてるんにゃろ〜にゃ〜」
「大きな団体が二ついるってことかな。ユーリ殿下が下山せずにそのまま野営しているとして、もうひとつの方は誰なんだ?」
ティナの報告にバンが首を傾げる。
「それはわかんにゃいけど、どっちも五十人くらいはいるんじゃにゃいかにゃ」
「見つからないようにしないとな……」
「にゃ。今から野営するんにゃけど、ちょっぴり気ににゃることがあるにゃ」
「何?」
「今の空気、あのときにそっくりにゃ」
「あのときって?」
きょとんとした顔で問い返すバンに、ティナは重々しく口を開いた。
「ほら、あれにゃ。女王蜘蛛」
「ああ、あの変異種。バンが呼んだ」
「えっ……」
「いやいやいや!?」
エーメの相槌、アイのドン引き。
バンは懸命に手を振って否定した。
「俺じゃない! 断じて俺が呼んだんじゃないって!」
「でもにゃあ。あのタイミング……」
「……二度あることは三度ある」
「二度目はまだないよっ!?」
「でも、また同じことが起きそうじゃない?」
「起きないよ、多分! そもそも女王蜘蛛が出てくるって根拠は?」
エーメの呟きにバンが食い下がる。根拠を示せと言われたティナは、顎に手を当てて真剣な表情になった。
「まぁ、女王蜘蛛かどうかは別として、言ってること自体は大真面目にゃ。感じにゃいかにゃ、この空気」
「えっと……」
ティナの言葉に、バンは辺りを見回した。
「もしかして、魔物が、いない?」
「それにゃ」
「ここに来るまで魔物に出会わなかっただけじゃなく、そもそも見かけもしなかった。それって変。魔物は夜に動き出すものなのに」
「確かに、そうです!」
アイがエーメの言葉に深く頷く。
「あれからあちしたちも勉強したにゃ。夜でさえ魔物がいないのは、そこがもっと強い魔物の縄張りの中だからにゃ。小さい魔物は食われたか追い出されたかでいにゃくにゃっちゃってる。動物たちもにゃ」
「だから、女王蜘蛛の変異種の話は誇張でも何でもない。ほぼ同等の存在がこの山の中にはいると思って……」
淡々としたエーメの口調が、逆に恐怖を煽る。アイとバンは生唾を飲み込んだ。今から野営だというのに……。静まり返った山中が不気味に震えたような気がした。
「き、気をつけて行動しよう。な?」
「そ、そうですね!」
何となく身を寄せ合うふたりだった。





