六十ニ頁目
「あ〜〜〜〜ん! 悪夢美味し〜〜〜い! 味見サイコー!」
Dは両手でほっぺを挟んで甘い嬌声を上げた。彼女にとって魂は食事、痛みや苦しみ、恐怖や絶望、嘆きの涙はスパイスだ。
そして、他人の記憶を覗き見るのは一番の娯楽でもある。人間に悪夢を見せるメリットは、魂を舐めて味見をし、食欲を満たすだけではない。それと同時に楽しませてもくれる!
「いっきょりょーとく、いっせきにちょー、お得お得〜!」
血まみれのふんわりドレスでぴょんぴょん跳ねるD。そんな彼女の足元では、人狼もバッチリ術にかかって苦しんでいた。
「あっ、しまった! ポチさん起きて〜。しっかりして〜〜」
「うう……。ぅ、ぐ……ハッ!」
「良かった、起きた〜」
「ここは……? 我は……」
「おはよ、ポチさん。寝起きのとこゴメンね、すぐに連れてってもらってもい〜い?」
所々欠けのある明るいオレンジの屋根瓦の上に、辛うじて落ちずに倒れ伏していた人狼は、上半身を起こしてふるふるっと頭を振った。
「構わん。知り合いの所へ連れて行く、その傷、そしてその服……どうにかしなければならんだろう」
「ありがとう! ポチさん大好き!」
「よせ……」
Dが臆面もなく放った言葉に、人狼はふいっと横を向いた。藍色の耳がピクピクと動いている。もしも獣と同じように尻尾があれば、もしかしたら千切れんばかりに左右に揺れていたかもしれない。
「……衛士が到着したな。仲間を呼んでいる、長居は無用だ」
「あっ、待って! あのね、敵のひとりが持ってる魔法石を取り返さなくちゃなの!」
「なに……どいつだ? 魔法石はいくつ、どんな大きさでどんな色だ」
さっさと撤退するつもりだった人狼は思い切り顔をしかめた。目がくわっと開いている。
「いいよ〜、私が直接行って取ってくるから」
「ダメだ。傷に障る。それに、奴らがいつ動き出さないとも限らない。お前はここにいろ」
「あっ、ポチさん!」
言い争いをしているのも惜しいと思ったのか、人狼はサッと屋根から飛び降りると器用に倒れている人々の隙間に降り立った。そして、Dを見上げて言う。
「どいつだ?」
「あ〜。えっと、右の方の偉そうなヤツ〜」
「これか。……確かに、アイツの匂いがするな」
「それそれ〜! ポチさん、ありがとね! それがあればきっと麗筆を助けられるよ〜!」
ガイウスの懐から出てきたのは、まさしく麗筆がヴァイゼルに渡した魔法石だった。麗筆自身の魔力の結晶、生命の源と言い換えても良い。
人狼はスルスルと雨樋を伝って戻ってきた。
「もう良いか? 出発しよう」
「アイ、アイサー!」
「……?」
謎の言葉に首を傾げつつ、人狼はDを抱きかかえて屋根から屋根へと飛び跳ねて消えていった。
◇◆◇
警邏中の衛士たちが通報を受けて駆けつける直前、Dの術は完成していた。Dが「力ある言葉」を唱えたと同時、辺り一帯の生き物たちが一斉にバタバタと倒れ込んだ。
ガイウスたち、探索者たち、怪我をして逃げ遅れた老人、カウンターに隠れていた女、子ども、カゴに入れられた売り物の鶏まで。
ほんの数メートル先にいる彼らが、ついさっきまで押し合いへし合い乱闘していた彼らが、倒れ伏し一様に苦悶の表情を浮かべるのを見て衛士たちは足を止めた。
「総員警戒! 口を塞げ。カトル、レド、医療班を呼べ。残りは待機だ」
「はっ!」
隊長の指示に従い、二名が応援を要請しに向かう。
まず最初に考えたのが魔術による攻撃の可能性、そして薬物散布の可能性だった。辺りを見回し、まずは情況把握に努める。被害者がいるからと言ってやみくもに突っ込んでいって自分たちまで倒れるようなことはできない。
「あっ、隊長!」
「むっ、あれは!」
「お、狼男です……!」
どこかの屋根の上にでもいたのであろう、藍色の毛並みをした大きな体躯の狼獣人が音もなく被害の中心地に降り立っていた。
「ドーズ隊長……」
「待て、刺激するな。弩を……」
衛士たちの間に緊張が走る。獣人は人間よりも膂力に優れ、人間よりも俊敏であることが多い。狼型であるなら尚更だ。彼らの前に現れたのも二メートルを超す大柄な個体で、こんな所で暴れられたら倒れている王都の民に犠牲が出る。
獣人の出方を見ようと、ドーズは逸る部下を諫め、弩の用意をさせた。
「あっ……!」
だが、狼獣人は倒れている男たちのひとりに近づくと、懐を漁り、素早くまた屋根の上に戻ってしまった。戦わずに済んだことに安堵したのか、隊員の誰かがホッと息を吐き出すのが聞こえた。あるいは、それはドーズの願望だったかもしれない。
「た、隊長、屋根の上に女の子が!」
「何だと!」
見れば明るい色の屋根瓦に浮かび上がるような白いドレス。ふうわりと風を孕んで優美なシルエットを描き出すそれは血にまみれていた。
「あ、狼男が少女を肩に!」
「まさか、あいつが拐ってあんな場所に……!」
弩を構える衛士たち。
だが、隊長の目にはその少女がただのか弱い乙女には見えなかった。
輝く真珠のような髪、そしてその美しい顔に浮かぶ妖艶な笑み。それはつい先日、カクタスを見舞った大地震の際に目撃された“魔女”の姿に酷似していた。
「いかん、ローレンツ殿下に伝えねば……」
「隊長?」
「魔女だ、また、魔女が現れた! この騒ぎも、あの狼男も、みな魔女のせいに違いない!」
そうこうしている内に、少女を連れた狼獣人は軽やかに宙を跳ねて去っていく。
「追え! 追うんだ!」
「し、しかし……」
「いいから早くしろ! 見失うなよ!」
「はっ!」
もはや手遅れかもしれないと思いながら、衛士隊、王都第三警邏隊長ドーズは部下に発破をかけて狼獣人の後を追わせた。
民の救助、回復、武器を持って暴れていた男たちの逮捕、事情聴取……やる事は山盛りで人手は足りない。“魔女”についての報告もしなければならない。おそらく日が変わる前には帰れないだろう。
「やれやれ、今日は娘の誕生日だっていうのに」
四つになる娘の泣き顔を思い浮かべて、ドーズは溜め息を吐いた。





