四頁目
「ふぁ~~、動けな~い……」
玄関でお尻をぺったんこして情けない声を上げるD。よく考えれば、十日間も眠りっぱなしだった体だ、胃の中身もすっからかんである。
「体が重く感じたのは、麗筆に乗り移ったからじゃなくって、お腹が空いてたからだったんだ~」
『一流の魔術師は食事しなくても大丈夫なようにできてるんです。大気中からエネルギーを取り込んで体内を循環させてください。そうすれば……』
「あっ、そうだ、戸棚にチョコレートあったんだった!」
『……チョコ、レート? いけません、それはぼくの……待ちなさい、D!』
どこにそんな力を残していたのか、Dは麗筆を床に放り投げて戸棚へ走った。その中には百年は余裕で保存できるよう、魔術で密閉された四角い缶がいくつもあり、それらはすべてチョコレートが入っているのだ。
「えっへへ~、どんな味がするのかなぁ~」
さっそく缶を開けたDは、仕切りにそってギッシリ並べられたチョコレートをひと粒手に取った。つやつやのダークなチョコレートはお店のものか刻印がしてある。Dは思った。これは、お高いヤツだ。
「あ~~ん!」
『だめですよぉ!』
「ふぁ~、なんか香りがすごい広がる! あ、こっちはナッツが入ってる。こっちはドライフルーツ!」
『やめて、やめてくださいっ! そんな一気に……だめですって! あぁ、あぁぁ! ぼくの大切な宝物がぁ~!?』
麗筆が慣れぬ本を引きずってようやくDの下へ辿り着いたとき、チョコレートは食べ散らかされた後だった。滅多に聞かれぬ麗筆の嘆きに、嬉々としてチョコレートを貪っていたDも少しだけ罪悪感を覚えた。もぐもぐごっくんとチョコレートを飲み込んで、心なしか哀愁を漂わせる本の背に声をかける。
「ご、ごめんね麗筆ぅ、チョコならまた買ってあげるからぁ」
『ううっ……貴重なものだったのに。あれほどの作品はもう世に出るかわからなかったのに……』
「そこまで? ん~、でも、一流のチョコレート屋さんは~」
『ショコラティエです』
「……ショコラティエは~、レシピとかちゃんと残してると思うよ? 技術は進化するし~。あ、そうだ、新大陸なら原料のカカオもお砂糖もたくさん採れるし、安くて美味しいチョコがい~っぱいあると思うな~」
『…………』
Dは若干面倒くさいと思いつつも麗筆のご機嫌取りをした。それに、今までは知識としてしか知らなかった、甘くてほろ苦いチョコレートをもっともっと食べたいという欲求もあった。
「ね、ね? ショーケースに並んだチョコレート、端から端までぜ~んぶ、並べて食べ比べしたらすっごく素敵じゃない? きっと見てるだけでも幸せだよ~。それに、麗筆と違って私なら、たくさん買っても変な顔されないよ。だって女の子だもの!」
『……ショコラ』
「へ?」
『チョコレート、ではなく、ショコラです。ぼくはいちいち店員の顔色なんて気にしませんが、変な顔をされたことなんて一度もないですよ』
「へ~? ほんとかな~? きひひひっ」
『……。D、貴女しゃべり方まで幼くなっていますよ。憎たらしさだけは変わりませんけど』
「ちょっとぉ! 失礼しちゃう!」
ニヤニヤしながら宙に浮く呪文書を覗き込んでいたDだったが、思わぬ反撃を受けて頬を膨らませた。しゃべり方に関してはD自身、ちょっとはしゃぎ過ぎなのは分かっていたから尚更だった。
『まぁ、いいでしょう。貴女の言う通り、新大陸のオーヴォへ行きましょうか。運が良ければ知り合いもまだ生きているはずですし』
「ふぅん。会えたらいいね~」
『ええ。では、オーヴォへのゲートを開きます。目指すはケテル王国、創造王マティアスのお膝下ですね』
「やった~。ゲートオープン!」
麗筆が詠唱を始めると、玄関の丸みを帯びた木製のドアが淡い光を放ち始めた。空間をねじ曲げ繋げるこの魔術は、今では麗筆ぐらいしか使えない。魔術というものは誰にでも使える便利な技ではない、相応のセンスと修行を必要とするものなのだ。
『さぁ、どうぞ。今度こそ貴女の旅が始まりますよ』
「じゃあ、一緒にね。行こう、麗筆!」
白髪の少女は大きな本を胸に一歩を踏み出した。
◇ ◆ ◇
意気揚々と家を出たDは、獣道を辿って最初の町を目指すことにした。高い空は青く澄み、鳥のさえずりとそよぐ風、一面の緑がまばゆく、絶好のピクニック日和だ。
「ふふふ、た~のし~! 走っちゃお~と!」
『やめておきなさい、体力の無駄ですよ』
「へっへ~んだ、麗筆の引きこもり! もやしっ子~!」
『…………好きになさい!』
「きゃっほ~!」
髪を踊らせ駆けていくD。しかし、一分も経たない内に立ち止まった。
『どうしました、D』
「……疲れた。足が痛ぁ~い、もう歩けな~い」
『…………』
緑の海を割るように一本だけ伸びた道の真ん中で、Dはしゃがみこんでしまった。麗筆は「だから言わんこっちゃない」と言ってやりたい気持ちを必死で抑え込んで、ぼんやりしている少女を励ました。
『こんな所にいても仕方がないですよ、D。もう少しで町ですから、自分の足で歩きなさい』
「…………」
『D、貴女ね……』
「やっぱり。悲鳴が聞こえる」