十頁目
『D?』
Dは麗筆の問いかけには答えず、つかつかと青いエナメルの靴を鳴らして大男に近づくと、グラスの中身を浅ましい優越感に歪む大男の顔にぶち撒けた。
「うおっ、つべてっ!? んだァ? なにしやがる!!」
「ごっめぇ~ん、かかっちゃった? でも、避けないオジサンが悪いんだよぉ! そういうことでしょ?」
「なっ……んだと~このアマぁ!!」
「きゃ~、助けて衛士さ~ん!!」
「あっ、クソ! 覚えてろ!!」
「ハーーゲ!」
振り上げた拳を下ろし急いで逃げていく大男。その背中に追い討ちで悪口を浴びせかけ、Dはきゃらきゃらと笑った。レンガ道にへたりこんでいる男はただ口をパクパクさせているだけだ。
せむしで痩せぎすの中年男だった。ローブはいつ洗濯したのか知れない薄汚れた灰色で、近づくとすえた臭いがする。おまけに脂っぽい黒髪はだらしなく伸ばされ、まるで海草がへばりついたように視界を遮って、これで下を向いていたら確かに周りなど見えないだろう。
Dはそんな男の様子に嫌な顔ひとつせず、笑顔で片手を差し伸べた。
「大丈夫?」
「あ、ああ……」
「どういたしまして。あ、怪我してるじゃない」
「……ぅえ?」
散らばった硝子の破片で切ったのか、男の指には血の珠がぷっくりと膨れ上がっていた。
「治してあげるね」
「え……」
Dは男の指をぱくっとくわえると、血を舐め取って笑った。
「ふふ、止血しといたから」
「あ! あ、あ……!」
「私のことはDちゃんって呼んで。じゃあ、またね!」
ひらりとスカートを翻して、Dは男の手から抜けていった。取り残された男はといえば、気の利いた言葉ひとつかけられず立ち尽くすだけだった。
◇ ◆ ◇
ランチを食べていた店にグラスを返却し、探索者の登録をするための場所を探すことにしたDと麗筆。背負い鞄にベルトで固定されて揺られながら、麗筆はDに話しかけた。
『……偽善ですか?』
「それを言うなら慈善じゃなぁい? でも、まぁ確かに偽善だよね。いいじゃありませんか、私がイイコトしたって。シちゃダメなんて決まり、ないでしょう?」
『それはそうですけどね。どうしてあそこまで彼に良くしてあげたのかと思って』
「ん~。強いて言うなら、良い匂いがしたから? 血の味もまぁまぁだったかな~」
『……ふむ』
Dの答えに麗筆は押し黙った。彼の記憶にある限り、Dは出会ってからずっと食事をしていない。あくまでも彼女は人間の魂を啜るアーティファクトであり、しかも見つけた「ただし書き」の内容から察するに相当な悪食らしかった。
『まぁ、いいでしょう。でも、これ以上のトラブルはごめんですからね。さぁ、別の町へ行きますよ』
「え、そうなの? あのオジサンに追いかけられちゃうから?」
『それもありますけど、貴女が本当に探索者になるつもりなら、“庭”がある町へ行かなくては』
「庭?」
『ええ。探索者の溜まり場を“庭”と呼ぶのです。そこで彼らは依頼を受けたり、戦利品を売ったり装備を整えたり。探索者に必要な施設を固めてある一帯を指して“庭”という言い方をするのですよ』
「へぇ~!」
麗筆とDは地図を求めて書店を探したが、この小さな町にはそんなものはなかった。親切な住人に聞いたところ、ここから歩いて二日の場所にオルキダという大きな町があり、そこに“庭”が、そして麗筆の求めてやまない書店があるということだった。
もちろんこの二人が歩いて行くはずもなく。人狼から逃げるときにも使った【浮遊】の術を応用して空路でオルキダを目指した。夕方、日が暮れる前には辿り着ける計算だ。
「どこまで見渡しても畑か森しかないね~。海はどこ~?」
『もっと高度を上げれば見えるかもしれませんよ。でも今は、オルキダへ急ぎましょう』
「は~い」
『彼らは大体どこでも、似たような場所に建物を構えるのですよね。ほら、看板が見えてきたでしょう。片手剣と金貨の絵が入った、あれが探索者の“庭”ですよ』
「おお~!」
『鐘楼へ降ります、あまり目立ちたくありませんからね』
空に浮かんでいる時点で「目立ちたくない」はないだろうが、幸い騒ぎにはならなかった。Dはオルキダで一番高い建物へと降り立ち、ぽんぽんと屋根を蹴って道へ出た。そこから“庭”へはすぐだ。
「よっし、行こう!」
それはレンガ造りの規格に沿った近代的な建物が並ぶ界隈にあって、そこだけ総石造りの堅牢な古い様式を保っていた。正面玄関に垂直に立てられた金属棒に掛かる丸板には、確かに片手剣の金貨が描かれている。
両開きの分厚い木製扉は開放されており、中には簡単な鎧で武装した男や女の集団があった。落ち着いた通りから一歩入ればそこはまるで別世界だ。一階部分は飲食のできるスペースが主なようで、皆思い思いテーブルやカウンターに腰かけて談笑している。
余計な詮索はナシが暗黙のルール。とはいえ、成人しているのかいないのか微妙なラインの少女がひとりでいるとなれば、注目を集めるのは当然だった。Dはそんな好奇の視線をものともせずに中を進んでいく。
「おい、お嬢ちゃん。依頼かい? 受付は二階だぜ」
「ありがとう、オジサン!」
赤ら顔の髭面に向かって笑顔を振り撒き、Dは一番奥にある階段へと向かった。階段を上ろうとしてDはふと立ち止まる。そして目だけで観察する。
合板の手すりは使い込まれてピカピカに光っており、天井付近には「総合受付」というプレートが取り付けられている。その武骨ながらも威厳のある佇まいは、Dが想像していた通りのものだった。小さく拳を握って気合を入れて、Dはその一歩を踏み出した。





