山門編-失われた天地の章(9)-誓約(うけい)の鏡猟(かがみがり)(1)
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使 する人々とが暮らしていた。
旅芸人一座の輪熊座の少年、俳優 の御統 は、山門の都へ向かう道中で、 黒衣の美少女、豊と出会う。優れた言霊使いの豊は剣呑としていたが、 御統の素朴さが二人の距離を縮める。
山門の首邑、山門大宮に到着した輪熊座は、山門の御言持である大日の歓迎を受ける。大日と輪能座親方の輪態とに交誼があることを知った豊は、彼女の秘した宿願を果たすために、若く美しい自らを大日に献上するよう輪能へ提案 する。輪能と大日は花も恥じらう少女の悲壮な申し出に戸惑うが、輪態は豊を大日に託し、大日は彼女を受け入れ、嫡男であ る入彦に仕えさせる。
豊が輪態座を去ったことを知った御統は、友達を取り返すべく入彦の邸に向かう。そのとき、御統が肌身離さず持っていた白銅鏡から光が奔流し、巨人の姿となって暴走する。光の巨人はすぐに鏡に戻ったが、御統は土牢 (ひと や)に捕らえられる。
その頃の山門には鬱屈した雰囲気がわだかまっており、暗い空気を払拭し、神祝 ぎをするため、持傾頭 の登美彦が、登美族と春日族とによる馳射の馬合せを提案する。春日族の旗頭に指名された入彦は、その 重すぎる責任から逃げだそうとするが、御統の解放を条件に、豊からの助力を得ることになる。
公子 (きみのみこ)と崇められていた入彦は、 豊と御統を野辺の卑人 と見下していたが、二人との時間を共有するうちに、心を通わせてゆく。
馳射の馬合せが挙行される望月の夜、豊の呪いによる幻術により御統を自分の姿に仕立て、馬合わせから逃げるつもりだっ た入彦は心変わりし、父である大日の期待に応えようとする。当初の計画を変更し、御統も春日族の他の族人になりすまして馳射に出場する。
馬合せが始まり、重責に硬直した入彦を旗頭とする春日族は、吉備彦を旗頭とする登美族の猛攻にさらされる。御統の奮戦により我を取り戻した入彦は勝負を互角に持ち込み、吉備彦との相打ちのうえ、勝敗は両族からの代表者による矢馳馬に委ねられた。輪熊座の芸である戯馬 (たぶれうま) の技を駆使した御統が吉備彦との矢馳馬を制し、神祝ぎの馬合せ は春日族の勝利となる。
観衆は貴人も庶人も見事な一戦に酔いしれるが、馬合わせには何者かの悪意が潜んでおり、その悪意が化した鏃から入彦を守った石飛( いわたか)は重傷を負う。悪意の呪術者と密かな攻防を繰り広げた豊は首謀者を暴こうとするが、果たせなかった。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
いつもと同じように明けたその日の朝は、光のなかに初夏の暖かさを含んでいたが、山門大宮の朝廷は、そんな季節の移ろいを感じられないほどの熱気でごった返していた。
煮えたぎるような熱気に、時折、怒声が混じる。その怒声は、大方、大彦のものだ。
「かしこき方々よ、山門主の御前である。みぐるしき振る舞いは差し控えましょうぞ」
指導者の資質の一つに声があるといわれるが、大日は、優れた声をしていた。よく通る声だ。耳よりも、心に響く声である。そのため、大日が朝廷のみだれを窘めると、一旦その場は収まるが、議論を続けるうちに、大夫たちの紛糾はまた煮えたぎってくる。
朝廷を煮返しているのは、先に催された神祝ぎの馬合わせのことだ。天神地祇や山門の祖霊、森羅万象の精霊が照覧する馳射で、あるべからざる不正が働かれたというのが、その主題である。
不正が働かれたという点では、満場が一致していた。問題は不正の内容だ。
「馳射の春日組に、春日族選抜以外の騎手が不正参加していたのではないか」
大方の大夫が不正とみなす内容が、これである。それに対して、
「登美族が用いた矢の中に、実刃の矢が不正に混入していた」
というのが、春日族代表の大彦がみなす不正である。ちなみに、諸族は、主にその族長である氏上を大夫として山門の政に参与させているが、春日族では氏上の大日が御言持であるため、その兄である大彦が大夫を務めている。同様に、氏上が持傾頭である登美族も、大夫を務めるのは登美彦ではない。
当事者である春日族と登美族の氏上が揃って立場上議論に介入できないため、朝廷は、昼になっても収束する気配を見せなかった。朝廷は、朝の廷に集うから朝廷なのである。
紛糾の構図は春日族対それ以外の諸族となっているが、声の馬鹿でかい大彦に対するため、登美族が懸命に他族の救援をあおいでいるというのが実情だ。春日族と登美族以外の大夫にとって、正直なところ、どうでもいい議論なのであった。
「すべては祖霊の御心のうちのことなれば」
と言いかけた大夫が、大彦の一喝で吹き飛んだから、それ以上だれもそう言い出せないのだった。
山門主の側に控える登美彦に、大日は目配せした。すべてが正反対といわれる二人だが、なぜかこういうときの意思は通った。
登美彦は玉簾の向こうに何やらささやくと、しばらくして大日を手招いた。玉簾の前で畏まった大日は、山門主の御言を承ると、元の席へ戻った。
「かしこき方々へ、山門主の御言を伝える」
大日の厳かさに、再び煮えだしていた朝廷の声が止んだ。
「先の馬合わせは神事である。いかなることが起ろうと、それは天神地祇の御稜威なる占形である。非永たる身が推しはかることさえ畏れ多い。しかしながら不可思議な占形の解が示されぬ以上、公卿、百寮の伴緒、所々の神戸、田部、部民が拠るところを得ぬのも黙しがたい。斯くうえは、辞禍戸崎において、誓約の鏡猟を執り行い、占形を審神るべし」
要するに、白黒付けたいなら、辞禍戸崎という法廷で鏡猟を挙行し、真偽を明らかにせよ、ということだ。
辞禍戸崎とは、言葉の禍い、つまりは嘘を詳らかにする場所ということで、山門大宮から南西方向の小高い丘に付けられた名である。この丘には誓盟の神が坐すと信じられ、後世には甘樫丘と名付けられる。
誓約は、占いの一種であるが、『こうであればこうである、こうでなければこうである』とあらかじめ宣言し、そのどちらが起るかでことの正邪を占うというものだ。宣言内容は明確でなければならない。たとえば、勝てば正しく、負ければ偽り、という具合だ。そのため誓約は勝負事と相性が良く、しばしば対立する両者の言い分を裁定する場合に執り行われる。
勝負事は馳射でも良いが、山門では伝統的に鏡猟が用いられる。鏡猟は、簡単にいえば、鏡により発動される呪力の大小を競うものだ。鏡には、神意がより強く反映されると信じられていた。
山門大宮には二つの大きな娯楽があるといわれるが、ひとつが神への奉納行事である馳射であり、もうひとつが霊威なるものの審判を仰ぐ鏡猟だ。どちらも民衆に開放される。山門主たるものが正しい神意を受けたことを民衆に知らしめるための演出だ。
ちなみに、誓約は後に手続きが簡略化され、熱湯に浸した手の火傷の有無で審判する盟神探湯へと形を変える。熱湯に手を浸せば火傷するのが当たり前だと考えるなら、盟神探湯への変化は、真理追究の儀礼化ともいえる。どちらに転ぶか分からない勝負事を用いていた時代の方が、真理究明という点ではより真剣であったといえる。
さて、山門主の御言を賜わった大夫たちはようやく鎮まった。誓約が行われるとなれば、どのような結果になるとしても、それが山門の天神地祇、祖霊、精霊の総意ということになる。非永たる身で、その結果に異を唱えることは許されない。
朝廷は昼廷となるまえに解散となった。
累積する課題を一つでも減らすために山門主の裁定を仰ぎたかった大日の吐く息が青い。山門全体を視界に捉える必要のある御言持としては、登美族の名誉や春日族の族長後継予定者の安危に関わる議題のみに拘うわけにはいかない。もっとも、馬合わせを奉納してのち、山門周辺で獣や果実が増えたという報告はないから、その原因が馬合わせの疑惑にあると指摘されるとすれば、やはりそれが山門の最重要事案であることになる。
ここは誓約の鏡猟で決着をつけるに越したことはない。それを山門主にささやいたのは登美彦であろうから、その判断は正しいと認めるものの、大日には、山門の混乱と停滞を望む登美彦の真意までは読み取ることができなかった。
(そういえば近頃、山門主のご尊顔を拝していない)
大日の心に降り積もる懸案がまた一層嵩を増した。宮処の奥にある山門主の私邸というべき内裏で、しばらく山門主の親しい目に掛かっていない。内裏に招かれることすら稀になった。玉簾の向こうからか、さもなければ持傾頭の登美彦を介した御言を承るのみだ。久しく山門主たる饒速日の肉声を聞いていない。
ともかくも、鏡猟の準備にかからなければならない。先の馳射と同じく、春日族と登美族との対戦となるが、誓約により双方の正当性が賭けられることになるため、出場者は大日が自ら厳選しなければならない。
殿舎へ戻ると、大彦が待っていた。大日は、大彦に詫びた。
「朝廷では、兄者を矢面に立たせてしまった」
大彦は、弱矢が何本降ってこようと意にも介さないとばかりに豪快に笑った。
「しかたあるまい。わが弟は山門の御言持なのだからな。一氏族の代弁はできんよ」
大彦は、常に弟を後援する姿勢を崩さない。
「それにしても、馳射に続いて鏡猟とはな。血が沸く話だ。またしても、わが春日族が名を高めてしまうではないか」
春日族の正当性を信じて疑わない大彦である。と言うよりも、実際、先の馳射で、輪熊座の御統が騎手として紛れ込んだ絡繰は、入彦の告白を聞いて知っている大彦だ。しかし、そんな些細な手違いよりも、彼が愛して止まない入彦に実刃の矢が向けられたことに、大彦は大いに憤慨している。石飛が楯にならず、入彦に万一があった場合、大彦は得物の銅錘を引っ担いで、一人ででも登美族の邑を破壊しかねない。その想像が容易であるほど大彦の戦闘力は突出しており、彼が歩く災厄と呼ばれる所以である。ちなみに、銅錘とは、要するに銅の棍棒だ。
「兄者よ、実はその鏡猟のことで相談があるのだ」
「斎のことか」
馳射の出場者を騎手というように、鏡猟の出場者は斎という。元々は神職のことで、巫と同じように、本来は神の託宣を取り次ぐ者だ。通常、諸族は自前の巫を養っているが、必ずしも巫でなければならないということではない。神意を告げる霊体の依代となるに相応しい清らかな乙女であればそれでよく、呪能に優れていればよりよい。
「美茉姫を斎主としたい。構わぬか」
鏡猟における組頭を斎主という。
「美茉をか…」
大彦は口ごもった。美茉姫は巫ではないが、呪能に恵まれた資質であることは、父としてよくわかっている。しかし、先の馳射で入彦に向けて実刃の矢が放たれた事実を考えると、入彦の言い名付けである美茉姫にも何らかの悪意が向けられるおそれがある。その悪意を訴えても、姿の見えぬ御稜威なる存在の意思という曖昧さにすり替えられてしまう神秘感に、山門はまだ埋もれている。
「懸念はわかる。だが、美茉姫の側に強力な呪者を配置する」
「だれのことだ。また、部外者を呼び込もうというのではなかろうな。その疑惑を晴らすために誓約の馬合わせをやっていたのでは、永遠にこの問題は終わらんぞ」
大彦は苦笑した。その苦笑を、大日は微笑で受けた。
「考えがある。もちろん、わが春日族の呪者だ」
「いいだろう。お前の考えを信じて、これまで損をした覚えがないからな」
「助かる」
大日は、大彦の筋肉に盛り上がった肩を叩いた。
「ところで、石飛の容体を知りたいのだが」
大日としては、何よりも父として、石飛に感謝したい。
「うむ。しばらく弓は引けぬだろうが、薬師が申すには、身体の重要なところは損なわれていないそうだ。寝ていれば、いずれ治る」
「安心した。石飛に何かあれば、石火に顔向けできないところだった。わたしが見舞いにいっても大丈夫だろうか」
「しばらくやめておけ。石飛は真面目すぎる。お前が見舞いに来ては恐縮のあまりに、治るものも治らぬようになる。入彦が毎日見舞っているようだから、とりあえずはそれでよいだろう」
「入彦が、か…」
入彦は敵を作る性格ではないが、進んで友好を持とうともしない人間だった。いつも人の色に染められて、自分の色を持つことをしなかった。先の馬合わせ以来、入彦は明らかに変化していた。父としては嬉しい戸惑いである。そうであればこそ、先の馬合わせが正当なものであったことを、是が非でも誓約の鏡猟で示さなくてはならない。ところで、石火は石飛の父親で、春日の邑の宰領を一任されている人物だ。
大日は自分の房に入彦と豊を呼んだ。
父の前できちんと座った入彦は、その居ずまいに厚みを感じさせるようになった。一人の入彦としてそこに居る。大日は、息子の成長に目を細めた。
豊は相変わらず夜を切り取って縫い付けたような黒衣を身につけて、床の美しすぎる黒染みのようにしている。大日の殿舎で働く者たちには入彦の側室として認識が広まったため、処遇は丁重で、衣服も華やかな絹物を用意されているが、豊はそういった周囲の変化にはやたらと馴染まない性格をしている。
「実はこういう次第にあいなった」
大日は、ここしばらくの朝廷の紛糾具合と、この朝の山門主の裁定の大筋を、二人に語って聞かせた。
「お詫びの申しようもございません」
入彦は床に額をつけて謝罪しようとした。それを、大日は手で制した。
「いや、それを咎めようというのではない。それはもう済んだ」
先日の馬合わせの祝賀の宴が終わったあと、入彦は父と二人だけの席で、正直に告白していたのだった。さすがに叱りつけたが、入彦も熟慮のうえのことであっただろうし、何やら悪意が仕込まれたような馬合わせであったので、結果としては、それでよかったという思いも大日にあった。
大日としては、すでに過去となった出来事の真偽を究明するつもりはない。やらねばならない山門の課題に、いち早く取組みたいだけだ。そのためには、山門主の命令による鏡猟を事故なく終わらせなければならないのだ。
「そういうわけで、豊、汝の力を借りたいのだ」
そこではじめて、豊は目線をあげて大日を見た。それまで豊は、床を相手に、本当に何も知らないのよ御統は、という類いの悪口を聞かせていた。御統がうっかり本名を吉備彦に明かしてしまった失敗を、まだ根に持っているのだ。そもそも、本人に失敗の認識がないことが腹立たしい。
「豊にも、この度の鏡猟に出場してもらいたい」
そう頼まれた豊は、ちらりと入彦の様子をうかがった。何気ない素振りだが、そこに、入彦と豊との和やかな間柄が見て取れる。これならうまくいくだろうと、大日はすでに安堵した。
「また、部外者を出場させた疑いがかけられませんでしょうか」
「あら、わたしはどこかのお馬鹿さんのようなへまはしませんけど」
「案ずるな、疑いはかけられぬし、へまもない。正真正銘、我が春日族の一人として、豊に出てもらう」
「というと」
四つの目が大日を見つめた。
「豊よ、そなたを正式に入彦の妻として迎え入れたい。むろん、妾という立場だが」
大日の言葉が、入彦と豊にはすぐに理解できなかった。妾とは側室のことで、のちの時代では、その身分が高ければ妃と書かれる。正妻は后だ。
「そうすれば豊よ、そなたは晴れて春日族の一員だ」
ようやく話がわかった入彦と豊は、同時に顔を見合わせた。首筋まで赤くなった豊は、入彦の目を見ると、あわてて目線をそらした。
「ですが、父上」
入彦は、さすがに最上位の貴人の子息であるため、多少の戸惑いを目元に表わしているものの、この手の話には慣れている。
「わかっている。美茉姫のことだろう。彼女の立場はかわらない。髪上が済めば、すぐに婚儀を行う。豊とのほうが先になってしまうが」
大日は多少、口ごもった。髪上は、女性の成人の儀のことだ。山門の貴人の女性の成人は十四歳だ。
一夫一妻が基本ではあるが、貴人がその血筋を絶やさないために、二人以上の妻を娶ることは珍しいことではない。しかし一般的に、最初の妻が正室と見なされるが、身分に違いがあれば順序が逆になることもないわけではない。婚儀に政が関わる入彦の立場であれば、なおさらのことだ。
「受けてもらえようか、豊」
大日が問いかける先で、豊は消え入りそうなほどまごついていた。
「すぐには答えられないか。それもそうだ。だが、長く待つことはできない。断りは数日以内に頼む。断りがなければ、そなたとの婚儀をすすめるぞ」
こういうことは強引に進めた方がいい、というのが大日の恋愛観だ。
入彦はというと、まんざらでない顔をしている。豊が髪を結い直し、黒衣を花衣に着替えれば、化粧などせずとも目が飛び出るような美人になることは容易に想像できる。伸びようとする鼻の下を必死でこらえているというのが、入彦の心境だろう。まったく余計なところが似るものだ、と大日はあきれた。あきれつつ、自分も脳裏に輪熊座女将の鹿高の姿を描いていた。
(本当の美人というのはな、鹿高殿のような女性をいうのだ。入彦よ、精進せよ)
と、大日はなぜか勝ち誇った顔をつくった。
「あの、まだ考えさせてはいただきたいのですが」
似つかわしくない虫の音のような声で、豊は言った。
「この身に天神地祇が降臨されたもうたような過分なる幸せとは存じますが」
「それもわかっているつもりだ。そなたは、なにか目的があってこの大宮に来たのだろう。それを邪魔する気はない。鏡猟が滞りなく済めば、婚儀を解消してもいい。そのために婚礼は思い切り簡素にするつもりだ」
豊の重圧をやわらげたつもりの大日だ。入彦は不服そうな顔をした。
「さて、次は美茉姫だな」
「父上、美茉へは、私から話をしておきます」
「そうか。実は鏡猟の斎主も頼もうと思っている。父の許可は得た」
「心得ました」
ではそういうことで、と入彦は豊の手を引いて房を出た。父と子の、少し邪な共同作業に押し流された格好の豊は、女好きの男二人が想像できないほどの苦悩に、この夜から陥ることになる。
その苦悩で眠れない夜のいらだちを、豊は御統の丸い頬をつねり上げることで多少なりとも晴らした。
「何するんだよ、痛いじゃないか」
豊の指を払った御統は涙目で加害者を睨んだ。もう夕方だ。あかね色のまち並みが、頬の痛みで歪んだ。
「あなたが何も知らないせいで、とんだ目に遭わされているのよ」
豊は形のよい鼻の頭をつんとそらした。
御統は今日の輪熊座の出番を終えたところだった。御統の人気はますます高まっており、彼の演目になると最前列を確保するのは至難の技になるが、豊がどんなに後ろにいても、御統はすぐに彼女を見つけて、さりげなく手を振ったり、目配せしたりした。それが豊には嬉しかったが、外見はつまらない風をよそおっていた。
ここ最近の朝廷の紛糾具合や、先日の大日との会話の内容は、すでに御統は豊から聞いていた。が、とくに感想らしきものや反省の弁はなく、どこか遠くのお伽噺を聞いているような顔をしていたので、豊の白魚のような指先に悪意が籠もったというわけだ。しかも、
「豊と入彦のあんちゃんが夫婦になるなんて、いいことじゃないか」
などと、手を頭の後ろに組んで呑気に言うところが、豊にはますます腹立たしい。
「どういうことだかわかっていないのよ。本当に何も知らないのね、御統は」
豊は一人で湯気を吹いて怒っている。
「そんなことより、用ってのはなんだい」
素気なく話題を切り替えられた豊は、ようやく本題を思い出した。なにも憎げな御統の頬をつねるために、呼び出したわけではない。
「あなたの鏡を貸して欲しいの」
御統が肌身離さず持っている白銅鏡のことだ。鏡猟に出場するのだが、そもそも豊は鏡を持っていない。鏡猟の話は豊から聞かされていた御統だが、腰紐に提げた鏡を手にとって、困ったように小首をかしげた。
「だいじょうぶよ。もうそれを取り上げたりしないわ」
もともと、旅一座が幻術に使う呪器のなかで金目になりそうなものを盗みだそうと、輪熊座に忍び込んだ豊だ。その身に不釣り合いな白銅鏡を持った御統と出会った夜のことが、もうずいぶん昔の記憶になった。
「そういうことじゃないんだけど」
鏡を腰紐から外しながら、御統は口ごもった。
「こいつはね、ときどき悪さをするんだ」
鏡を豊の手に置いて、御統は鏡を叱るような顔をした。
「入彦の殿舎の門を壊しちゃうようなことかしら」
その話は、御統から聞いている豊だ。
入彦邸の土牢から輪熊座に帰された御統は、心配半分おもしろ半分の座員からあれこれ聞かれた際に、鏡から出現した光る巨人の話をした。本当の話をしたのに、笑われた。輪熊や鹿高は苦笑いした。靫翁からは、その話は人にするなと叱られた。きちんと話を受け止めてくれたのは豊だけだった。
その豊にしても、実は半信半疑だった。
呪術者にとって、天神地祇や精霊の不可思議な力を現世に発動させる媒体として、鏡は最高品だ。磨き上げられた鏡面は、どのようなものも写しとり、人にそれを見せることができる。それは幻術となり、呪術者の呪力が強ければ人の感覚にまで作用を及ぼすし、さらに強ければ、現実的な作用を現世に及ぼすことができる。しかし、御統が見たというような、大きな殿舎の強固な門を破壊するような巨人を現出させるとなると、それは相当な力の呪いが必要で、豊に呪術を叩き込んだ老女でさえ、その境地に至るかどうかというところだ。御統に、それほどの呪力が備わっているとは思えない。
高価なものになると、鏡自体に呪力が埋め込まれているが、効力はそれほどでもない。森羅万象の不可思議な力を映し取ることができる程度だ。御統の話が真実であるなら、天神地祇の力ではなく、天神地祇自体が鏡に封印されていると考えるしかない。しかしそれほどの力を持つ鏡は宝鏡といってよく、山門主規模の人主でさえ、所持できるかどうかという代物だ。旅一座の若い俳優が所持していて良いものではない。
「心配しないで。ちゃんと言うことを聞かせるわ」
豊は、とりあえずそう言って御統を安心させた。
「親方から、じつは頼まれていることがあるんだ」
「輪熊の親方から?何かしら」
御統がすぼめた口を鳴らすと、宵の青暗さに沈んだ舎影から飛び出してきたものがある。それは待ちきれなかったとばかりに豊に飛びつくと、その足元を忙しく駆け回った。
「如虎じゃない」
豊が首を抱いてやると、如虎は懸命に新しい主人の頬を舐めた。
「如虎を、わたしに」
「用心棒にしてやってくれってさ」
御統は眉を上げた。如虎は黒豹だが、番犬でももう少しましなのがいる、と御統は言いたいのだ。
「とても感謝していた、と親方に伝えて」
豊がそう言うと、御統はうなづいたが、もう輪熊座を見に来ることがないような豊の言い方を寂しく感じた。妾とはいえ、入彦の妻となったのなら、おいそれと会いに行けない。
「そんな顔をしないの。あなたはいつでもわたしに会いに来ていいのよ。それは絶対条件にするつもり。それに、わたしも、なにか嫌なことがあったらあなたのほっぺたをつねりにいくから」
豊が指で頬をつねる真似をすると、御統は迷惑そうな顔で後じさってから、笑った。
「あんちゃんに、また弓を教えて欲しいと伝えてくれるかい」
「いいわ。きっと、明日にでもすぐに来いと言ってくるわよ」
笑いあって二人は別れた。御統が振り返ると、一人と一匹はおぼろな影を連れて、宵闇の中に消えていった。見送った御統の身体を、何か涼しいものが吹き抜けたが、夜がいずれ朝になるように、豊かとはこれからも温かい時間を共有することができる、と御統は予感した。
輪熊座に戻ると、今日の舞台の片付けと明日の準備、夕食の準備などでごった返していた。あちらこちらで人にぶつかる御統は、いま苦虫を噛んだばかりとでもいうような顔の座員に、外れたところにある木の根元に座っておくよう、丁重に案内された。
示された根元におとなしく座っていた御統が夕焼け空の一番星二番星を数えていると、先ほどとは別の座員に肩を叩かれた。
「親方がお呼びだぜ」
その座員はまだ若く、輪熊座の舞台が毎日盛況なのは御統のお陰だ、と労った。笑ってそれに応えてから、御統は輪熊のところへ向かった。
ところで、輪熊座は既に宿舎を大日邸から移していた。大勢がいつまでも厄介をかけるわけにはいかないし、大日にとっては客人でも、鄙びた旅芸人一座がいつまでも御言持の邸に居座ることに、世間はいずれ奇異の目を向けるようになる。なにより、大日邸は貴人の居住区の中でも一等地にあるから、大宮を五層の郭に区切っている通門の手続きが、いちいち面倒だ。
輪熊座が舞台を許可されたのは、市が多く立つ第三郭の広場だ。そこには輪熊座の興行を見物するための貴人専門の台が築かれており、そういったかしこき辺りや、観客を相手にする市が集まって、周囲とは別世界になりつつある。
それほどの人気一座ではあるが、宿舎を構えるとなると庶民が舎を並べる第五の郭も許されず、いまだ区画整理されていない大宮郊外の里の荒れ地を指示されただけだ。
宿舎は当然、自力で建てなければならない。どこにでも勝手に建ててよし、との役人の有り難い指示だったので、すでに竪穴の舎を構えている先住者の邪魔にならないところに、竪穴を掘ったり、幕を張ったりして、宿舎を作った。快適とは言い難いが、旅から旅の野宿を重ねるよりはずっといい。不足のものがあれば、大宮で何でも購える。
その一画の、それほど周囲のものと様子のかわらない竪穴の舎が、輪熊と御統の宿舎だ。
草葺きの屋根が、御統の背丈より少し高い程度だ。それだけ深く、竪穴を掘っている。そのほうが温かく、風もしのげるからだ。
幕を開いて中に入ると、数段の階段がある。均した土がむき出しの一間に囲炉裏があり、そこの火を、輪熊と鹿高と靫翁が囲んでいた。
「おう、戻ったな」
御統に気づいた輪熊が、大きな手で宙を掻くようにして手招いた。御統は、囲炉裏のそばに座った。夕食の土器が並べられている。いつもより豪華なことに、御統は首をかしげた。
「如虎のやろうを渡してきたか」
「うん。よろこんでた。豊が、とても感謝しているって」
「そうか」
輪熊は得意げに鹿のもも肉にかぶりついた。
「如虎なんかもらっても、困るんじゃないかね」
団栗の麺麭をちぎって口に放り込んだ鹿高は、舞台以外では怯えてばかりの黒豹の情けない姿を、囲炉裏の上に空想した。
「やつにも、獣の雄としての意地ってもんがあるだろうよ」
人だろうと獣だろうと、男たるもの、守るべきものを守るときは、何を前にしても立ち塞がらなくてはならないというのが、輪熊の信念だ。
土器の盃に一夜酒を注いだ靫翁が、ちらりと輪熊を見た。輪熊は鹿肉を飲み込むと、ひとつ咳払いした。
「さてと、御統よ。お前に話しておかなければならないことがある」
「まぁ、お待ちよ。まずは食事だ。私が腕によりをかけたんだから、御統、ほら食いな。お前の好きな葡萄葛の果汁だってたくさんある。鹿肉もたんまりあるよ」
鹿髙が母の笑顔でうながすと、御統は団栗の麺麭を手に取った。甘い香りがする。蜂蜜が塗ってあった。
靫翁は黙って酒を飲んだ。
輪熊座の夕餉の時間はいつも騒がしい。この時間が一日で一番楽しいし、芸人一座だけあって、みな陽気だ。たき火のそばで、遅くまで踊り浮かれる。いつも一番騒がしいのは輪熊の竪穴だが、この夜は違った。どこかに見えない境界が張られているかのように、輪熊座の集落にあって、そこだけが静かだった。その静かさは、一晩中続いた。
その頃、というのは、輪熊座の面々が久しぶりに親方の鼾に悩まされずに眠れることのできた夜更けのことだが、入彦の殿舎で房を与えられた豊は、縁側に腰掛けて、眠れない夜を、雲間の月を見上げて過ごしていた。
野宿する輪熊座へ、夜のお客、つまりは盗人として忍び込んだ夜も、仄かな月明かりだった。鄙びた俳優の少年に出会うと、にわかに月が輝きだした。いつもまとっている黒衣もそうだが、夜に生きているような豊にとって、その少年は月だった。それも満月だ。
月は姿を変える。沈んでしまっても、また昇ってくる。昨夜の月と今夜の月が同じ月だとは、誰にもいえない。
新たに昇りつつある月は頼りない三日月だが、いずれ満月になってくれそうな予感はある。
しかし、月に出会うために山門大宮にやってきたわけではない。
豊には、人生をかけて成し遂げなくてはならない宿願がある。
成り行きの一時的なこととはいえ、山門で最も権力のある人物の息子の側室になれそうだ。玉の輿といってもこれ以上のものはない。宿願を忘れ、うまく立ち回れば、皆を救ってやれるかもしれない。豊と同じように、黒衣を身につけ、厳しい呪術の修行に明け暮れて、夜の底を這い回るような生活を強いられている皆を。食料を得るために売られてしまった弟も、探し出してやれるかもしれない。
だが、何年も蓄えられてきた一族の恨みの闇が、これからの明るい未来の光で消え去るものではないことも、豊にはよくわかっている。
深い闇は、その深みに相応する高みの光を飲み込まなければ消えはしない。そして闇と光が互いを打ち消し合った後に残るものは、無だ。
縁側の先に、一本の欅が立っている。今は枝葉のほとんどを夜の中に潜めているが、朝ともなれば日差しに光り輝く木だ。
昨夜、眠れない豊が同じように縁側に腰掛けていると、欅の樹陰が、一つの影を吐き出した。
「身に過ぎた甘言に幻惑を見てはおらぬだろうな」
影がささやいた。
「仇の憎き片割れに媚びへつらってはならぬ。忘れたわけではあるまい。我らに土を舐めさせ、泥をすすらせる者がだれであるかを。いや、汝の色香をもって、やつらを幻術にかけるというのであれば邪魔はすまい」
消え入りそうなその声は、実は風なのかもしれない。そうであったとしても、耳障りな風である。
「出ておゆき。お前ごときに念を押されずとも、我が一族の宿願を忘れはしない」
豊は、言葉で耳障りな風を振り払おうとした。
「宿願よりも怨恨。忘るるな。我が一族の恨みと苦しみを」
風と影はかき消えた。
今夜の欅は風を吹かないし、影も吐き出さない。だが、耳障りな風声が耳の奥に残っている。
豊は庭に降り、腹立ち紛れに石をひとつ、蹴飛ばした。とばっちりを受けた小石は、欅の幹に跳ねて、転がった。
縁側に控えていた寝ぼけ眼の如虎の背を一撫ですると、
「おいで。いっしょに眠りましょ」
房に戻った豊は、如虎を伴って寝具にもぐり込んだ。如虎はすぐに寝息を立てたが、豊は、やはり眠れなかった。
豊に蹴飛ばされた小石に、やがて朝日が当たった。
この朝、豊は美茉姫と会うことになっていた。入彦の正室と側室、鏡猟での斎主と斎の関係になる両者の顔合わせだ。
この時代、朝が活発だ。夜の明けきらない朝まだきから、人々は動き出す。夜の灯りに乏しいという理由もあるが、太陽に光に至上の霊力を感じるこの世界の人々は、光こそが加護だと信じていた。だから重要の儀式は早朝に行うし、その最たる例が朝廷だ。山門の大事は、朝に決まる。
掃き清められた一室で、豊は美茉姫と対面した。入彦も同席している。
豊と美茉姫は、初対面ではない。豊が大日の殿舎を初めて訪れたとき、案内してくれたのが美茉姫だ。あのときの妖艶な美女が、まさか自分よりも年下であったことに豊は驚いた。夜目は女性を美しく見せるというが、本当のことなのだと納得した。もちろん、朝の美茉姫も美しいが、朝日を受ける頬には幼さがある。
整理しておくと、入彦十七歳、豊十四歳、美茉姫十三歳である。ちなみに御統は十二歳だ。
美茉姫は、優雅な所作でお辞儀した。立場上、先に頭を下げるべきだった豊は、慌ててお辞儀を返した。その豊のうろたえ具合を、美茉姫は好意的な笑顔で受け止めた
美茉姫は、入彦からすでに話は聞いていた。入彦と二人のときには多少の拗ねをみせた美茉姫だったが、豊の前では大人の振る舞いをみせた。
「頼りない人なので、わたくしたちで盛り立ててあげましょう」
美茉姫が屈託ない笑顔をみせたので、豊もようやく緊張を解いた笑顔になった。年下の女人二人から頼りない男に確定された入彦は、つまらなさそうな顔をした。
美茉姫と豊は、とりとめのない季節の話などを少し交わしてから、鏡猟の打ち合わせに入った。豊が優れた呪術者であると聞かされていた美茉姫は、鏡猟の話はそっちのけで、呪いや占いの話を聞きたがった。
美茉姫の父は、山門の御言持である大日の兄の大彦だ。この大宮で最高位の貴人の血筋であるにも関わらず、夷つ女にすぎない豊との間に、壁も境も階差も作らなかった。夜目には妖艶な美女にみえた美茉姫は、元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな普通の女童だった。
会話を楽しむ、ということをしたのは、豊は初めてだった。あっという間に、豊は美茉姫が大好きになった。
若い女性の会話に居づらくなった入彦は、いつのまにか退室していた。入彦の退室を確認した美茉姫は、他愛のない話題を振りまいていた口を止めて、あの宵の時のような大人びた表情を取り戻した。
「豊さん、こちらへ」
手招いた美茉姫は、
「来る鏡猟で、わたくしは命を狙われるでしょう」
と、恐ろしい話をあっけらかんと明かした。
「それほどなりふり構わず相手は攻めてくるということです。豊さんは、わたくしをお護りくださいますか」
「もちろんです。しかし、なぜそれほどなりふり構わずに」
「登美族さんは、どうしても入彦さんか、大日様を失脚させたいのでしょう。誓約はお互いの正義を賭すものです。先の馬合わせで春日族に不正があったとなれば、旗頭を勤めていた入彦さんは、よくて大宮からの追放。大日様も何らかのお咎めを受けることになりましょう」
「よくて、と言いますと」
「悪ければ、豊さん、これですよ」
美茉姫は手を首筋に当てると、すっと横に払ってみせた。首が飛ぶ、というわけだ。豊は目を見張った。
「そうならないために、来る鏡猟は、必ず我らに勝利をもたらさねばなりません」
鏡猟までは旬である。西の海の果ての大陸の人々は、大真帝国が成立するずっと前から太陽に十個の名前をつけており、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸というのがそうなのだが、これらが一巡りすることを旬という。その考え方が、山門にも浸透しつつある。
それはさておき、この日、美茉姫と豊は日が暮れるまで話し合い、大日が厳選する鏡猟の出場巫女の原案を作成した。そしてその翌日から、必勝を期すための訓練が開始された。
入彦の妾となった豊。彼女には重い宿願成就が課されていた。その重みを胸に秘め、豊は春日族と登美族とが正義を賭す鏡猟へ挑む。