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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(6)-七色公子(2)

 <これまでのあらすじ>


  光と命が豊かな豊秋島とよあきしま。そこには天と地の八百万やおよろずの神々と、まじないと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。

  旅芸人一座の輪熊座と共に山門やまとの都へ向かう道中、俳優わざをきの少年、御統みすまるは、黒衣をまとった美少女、豊と出会う。優れた言霊使いの豊は、当初、御統みすまるに敵意を向けるが、二人の距離は少しずつ縮まる。

  山門の首邑、山門大宮に到着した輪熊座一行は、山門の御言持みこともち、大日の歓迎を受ける。

  大日と輪熊座の親方に交誼があることを知った豊は、若く美しい自らを大日に献上するよう輪熊に提案する。豊には秘した目的があった。

  ところが、事態は豊の予想とは異なる方へ進み、豊は大日の嫡男の入彦に仕えることになる。そのことを知った御統は、ようやく友達になった豊を取り戻そうと夜に駆け出す。

 ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫


 <人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。

 仰天して尻もちをついた御統みすまるのどんぐりまなこに、消えかけたにわびの炎が弱々しく映っている。


 入彦の殿舎は、蜂の巣をぶっ叩いたような騒ぎになっている。


 それもそのはず。静寂しじまの夜中、唐突の轟音をがなり立てて、殿舎の門が塀と玄関の一部を道連れにして、ぶっ飛んだのだ。


 御統も、門とは反対方向にぶっ飛び、四回転ほど地面を転がった。


 何がどうしてこうなったのか、皆目見当がつかない。しかし、次の展開はだいたいわかる。


 怒られるのだ。しかもかなりこっぴどく。


 門を破壊したのは自分ではない、と御統は主張したいが、だれも信じてくれないだろうし、自分自身も半信半疑だ。


 爆風に倒された燎が炎の破片を撒き散らしている。ふと夜空を見上げると、月の上部に雲が架かっていた。まるで、眉をしかめて、静寂を破った地上の出来事をたしなめているかのようだった。


 お月様に見られていたんじゃしょうがない。そういう理由で、御統は逃げだそうとはしなかった。そもそも、門番に名前は告げてあるのだから、たとえ豆盗みのねずみのような老練の素早さで輪熊一座に逃げ込んだとしても、蔓を引かれた芋のように引きずり出されることは明白だ。


 御統はこうべを振って、耳の奥の轟音の残響を追い出した。そうしてから、ここに至る経緯を思い出してみた。


 豊が自らの希望で、山門の御言持みこともちである大日のもとへ行ったことを、輪熊と鹿高との会話から知った。豊に輪熊座へ戻る気がないらしいことは話の雰囲気で分かった。だから、御統は走った。


 大日の邸は宏大だ。酔い潰れていた御統はどうやって客舎まで運ばれたのか知りようがないし、大日の私室が、邸の奥まったところにある粗末な板葺きの屋室であることも知りようがない。夜中のことだから、声を掛ける人影もない。もっとも、邸に仕える者が簡単に主の私室を教えるはずはないし、怪しき風体ふうてい曲者くせものと勘違いされ、取り押さえられる可能性もある。


 御統を導くのは、彼の鏡だ。御統の足が正しい方角をすすめば鏡は輝き、誤れば、光を沈める。


 不思議な鏡だが、今は、その不思議さを鏡に問いただしている暇はない。明日には消えてしまうかもしれない豊なのだ。もともと、夜の底から突然あらわれた少女だった。朝の光は夜をぬぐい去る。まもなくだろう黎明が、豊をどこへも連れ去らない、と誰がいえるだろうか。


 勝手気ままに生きているようにみえる御統は、実は孤独だった。輪熊や鹿高、靫翁は親身に接してくれるが、友人がいない。輪熊座の、御統と年格好の同じ子どもは、あまり御統には近寄らなかった。


 孤独という感覚を知ったのも、実は最近のことだった。それまでは、それが普通だった。だが、豊が現れてから、御統は彼女がいなくなってしまったときのことを考えた。そのときに、孤独を知った。


 白銅鏡ますみのかがみに導かれて、御統は大きな殿舎の前に立った。そこは大日の邸とは別邸といっていい規模を備えた建物で、生け垣ではなく堅固な塀で囲まれており、大きな門構えで来訪者を威圧していた。閉鎖的な雰囲気が漂っており、開放的な大日の邸とは、やはり別邸であった。


 門の両脇に燎がかれており、そのちょうど真ん中あたりに立って、御統は檜板の門扉を叩いた。


 ここが入彦の殿舎だと知らない御統が、五度目に門扉を叩いたところで、脇戸が荒々しく開かれた。貴人うまひとが暮らす邸の大きな門には、邸に仕える人間が出入りする脇戸があるのが普通だ。


 脇戸から頭だけを出した男は、御統の野卑やひた風体を見ただけで、たちまち追い返すことに決めた。


「うるさいぞ、小僧。さっさと竪穴に帰って寝ろ」


 その小僧が、自分の主の父親が招いた客の一人であるとは、どうあっても想像できない男だった。男はそれっきり脇戸を閉めてしまった。


 素気すげない反応を十分に予想していた御統がひるまずに門を叩き続けると、門の向こうから、


「うるさい。次に門を叩けば、引っ捕らえてひとやにぶち込むぞ」


 という怒声がした。


 御統としては牢にぶちこまれるのは構わない。その間に、豊が手の届かないところへ行ってしまうことが嫌だ。


 門から入れないのなら、塀を乗り越えるしかない。そう考え始めた御統が、腰の鏡を手に取り、


「おれっちにも、豊のような言霊ことだまの術が使えたらな」


 そう呟いた途端、鏡が激しく震え、鏡面から強烈な光を奔出させた。


 その輝きは、一瞬、夜空を突き刺すような光の柱のように上昇したが、たちまち人型に整ったように御統には見えた。人型の光が大きなつちのようなものを振り上げた次の瞬間に、邸の門が轟音を立てて吹き飛んでいた。


 すべては激しい眩しさが映し出した幻想かもしれないが、門と塀が破壊され、無残な残骸となっているのは現実だ。


 そこまでの経緯を整理し終えた御統が次に考えたのは、


「あの門番の人は無事だったろうか」


 ということだった。幸いに彼は難を逃れたようで、巣を破損されて騒ぎ立てる働き蜂のような数人の男に、しきりと御統を指し示している。


 門番の無事を確認した御統は、さしあたり安堵したが、自分を取り囲む銅矛の刃を見て、ようやく困惑の色を顔に浮かべた。


「えっと、あまりいい夜じゃないみたいだけど、こんばんは。おれっちは御統。輪熊座で軽業かるわざとか、戯馬たぶれうまをやってる。一度見てもらえたら楽しんでもらえると思うよ。その、今夜は、皆さん災難だったね。でも、これは、…そう事故なんだと思うよ。ところで、常世とこよの国への行き方を、だれか知っている人はいないかな」


 縄で巻かれ、引き立てられる最中に御統はそんなことを話したが、結局、牢にたたき込まれた。


 こんな騒動が玄関先で起っているその少し前に、入彦の邸の奥まった一房ひとへやで、豊は入彦に対面していた。


 その房にも明かり取りから月の光がさんさんと降り注いでいた。


 大日の房と同じようにすっからかんとした房だ。質素というより、何もない。広いだけは広い。まるで、茫漠ぼうばくとした草原のようだ。ようやく部屋の隅にかめを見つけたときに、豊はなぜかほっとした。通常、甕は水などを溜めておくものだが、入彦はそこに身の回りの品を無造作に放り込んでいるようだ。


 入彦はずっと黙り込んだままだ。宴場で見せていた土偶どぐうのような体温を感じない顔色ではなかったが、ここではまるで幽霊のように、いるのかいないのかよく分からないような存在感だった。


「あの、何かお言葉をいただけませんか」


 足の痺れが、豊の声をいらだたせた。それでも入彦は無言だった。


 豊は馬鹿馬鹿しくなってきた。入彦の意識は山門朝廷最重職者の子であるという意識の高みに住みついており、地上をい回る豊のような人種は目に見えないのだろう。大日には申し訳ないが、友人になれそうもない。そう結論づけた豊は、房を出ようと腰を浮かした。


「…そなたを、みている」


 どこかからか染み出てきたような声だ。豊は辺りを見回した。それが入彦の声だと気づいたのは、房の四方を見回しおえてからだ。どうやら、入彦の目に、豊は映ってはいるらしい。ただ、だからといって、この房の無機質な雰囲気にいろどりが差したわけではない。


 月が雲に隠れたらしく、房が夜に沈んだ。暗闇のなかで、しかし入彦の瞳はよく見えた。


「それで、どう見えますか」


 豊としては、そう尋ねるしかない。とりあえず、この会話の切れ端をたどっていくしかない。


「…父上が、そなたをつれてこられた」


「はい」


「…父上は、そなたと仲良くせよとおっしゃられた」


「わたくしもそうお聴きいたしました」


 そこでまたしばらく、無言が二人の間を飛び交った。そして、唐突に入彦が身を乗り出した。


「仲良くするって何だ?どうすれば仲良くできる」


 驚くべきなのか、呆れるべきなのか。とりあえず豊は固まった。


「なぜ仲良くしなければならない?仲良くなってどうする?私はいずれ父を継ぎ、御言持みこともちにならなければならない。山門主様の御言葉を頂戴し、下々に伝えるだけだ。私の上にいるのは、天神地祇あまつかみくにつかみと山門主様だけで、他のものたちは皆、私の下にいる。だれと仲良くなれるというのか」


 入彦は、独り言を言っている。豊に問いかける気はない。入彦が立ち上がる気配を、闇の中で豊は感じ取った。


 入彦は明かり取りの下まで歩いた。雲に隠れていない星の灯りがあるようで、入彦の顔が、暗闇にほのかに浮かんだ。


「私は御言持の子。皆の言葉が私の中を通っていく。私は私であって私ではない。ほまれ高き春日族の族長の跡取りなのだ。家臣や族民の期待に添わなければならない。家臣や族民の目となり、耳となり、口とならなければならない。仲良くなることなど、誰も求めてはいない」


 入彦はつぶやき続けている。


 豊は大日の言葉を思い出した。御言持の子息として相応しい自分を懸命に探している。それが入彦なのだ。


 月明かりが再び房を夜に浮かび上がらせた。入彦の全身が黄金色に染まった。


 豊は思わず声を挙げそうになった。この房の意味がわかった。


 この何もなく、ただ広いだけの房は、入彦そのものなのだ。月光には黄金に染まり、晴天には青く染まり、夕陽には赤く染まるのだろう。入彦も、彼を取り巻く人々の色に染まっている。宴場で、入彦が体温のない顔をしていたのは、彼を渦の中心にした貴人たちに、輪熊座に対する温かみがなかったからだろう。


 入彦には自分の色がない。場裏に応じて、人に応じて自分の色を変えて生きているのだ。人々が入彦をあがめれば崇めるほど、彼はそうされるべき誇り高き自分になろうとし、本当の自分から離れていく。


 入彦も、己に課された使命のために、孤独になっている。そして悲しいことに、その孤独に気づいていない。御統と出会う前の豊のように。


 自分の心が急速に入彦に近づいていることを豊は感じたが、その情想の変化に戸惑わなかった。


 豊は黒衣の内側に縫い付けてあるいくつかの衣嚢ポケットの一つに手をいれた。


 豊は一枚の葉を取り出した。小さく無数にちぎってから左手に乗せ、右手を重ねた。瞳を閉じ、両手の隙間に息を注ぐように、


「目覚めなさい。なんじら、光放てし虫たちよ」


 と、呪言まじないごとを囁いた。


 小さな光が豊の両手の隙間から生まれ出て、右へ左へ漂いながら、月を見上げる入彦の視線を横切った。心事にひたっていた入彦は、意識を現実に引き戻すと、漂いながら飛行する小さな光を目で追った。小さな光は、光の航跡をひきながら豊のもとへと流れていく。


 豊は幾筋もの小さな光の航跡に囲まれていた。雲が、今度は長く月を隠したようで、房の中は再び夜に沈んだから、光をまとった豊は浮かび上がった。光が航跡を生むたびに、夜に細波さざなみが立つようだった。


 意識を引き戻したつもりが、心事にひたりすぎて幻想に迷い込んだのか、と入彦は思った。


「それは、…蛍か」


 幻想と現実の境を見つけようとするかのようなか細い声の入彦へ、豊が腕を伸ばすと、指の先に止まっていた小さな光が心得たように飛んでいった。思わず、入彦は飛んできた小さな光を掌に受けた。


「…これは」


「それは、かしわの木の葉のかけらです」


「柏の葉は、かけらになると光り飛ぶのか」


「普段は静かにしています。葉っぱですからね。ですが、言霊と一緒に息吹を注いでやると、葉っぱも光り飛べることに気づくのです」


「そなたは呪術者か」


 豊はにっこりと笑った。


 正しくは言霊師ことだましだが、神祝かみほぐ者も、審神さにわる者も、言霊ことだまつむぐ者も、に属さず野にある者は、一括ひとくくりに呪術者と呼ばれるのが豊秋島とよあきしまの世間一般だ。


 それにしても、豊の笑顔の、何とまろやかなことか。


 昼間に伴緒門で視野に入ったときは歯牙にもかけなかった。ずいぶん真っ黒い女がいるもんだと意識の端っこに触れた程度だった。


 二度目の宴場では、こちらをじっと見る豊の視線に無礼を感じた。野人やひとごときが直視してよい人間ではないはずだと意識の半ばで憤慨した。


 大日に連れられ、三度目にこの房で対面したときには、黒衣に隠された豊の美しさ、特に星明かりのような瞳の美しさを知ったが、身分に差がありすぎて侍女にもできないと意識の中心で考えた。


 そして、豊の円やかな笑顔は、入彦の心に届いた。


「私にも木の葉に息吹を注ぐことができるのかな」


「そうですね。十年ほども修行なされば」


 入彦はいつの間にか、豊のすぐ側に座っていた。


 豊が、また言葉を紡ぎ出す。


 豊の黒衣の裾がゆっくりと起き上がり、鎌首をもたげた蛇のような格好で、光り飛ぶ木の葉を捕まえはじめた。


 からかっては逃げる光の葉。むきになって追いかけ回す黒衣の蛇。そのやりとりが滑稽で、入彦は笑った。


 光の葉が、入彦の周りも飛び始めた。肩や、頭や、背中に止まる。止まってはまた離れ、光の航跡で幾重にも入彦を取り巻いた。


「こいつら、私と遊びたいのか」


 入彦の声が弾む。


 黒衣の蛇が、すこし小首を傾げて入彦を見上げる。おそるおそる入彦が手を伸ばすと、その手に身体を擦りつけた。


 しばらくそうやって、入彦は豊に言霊を注がれた不思議な存在と戯れた。


「案外、簡単なものでしょう。仲良くなるというのは」


 豊は自分の言葉に驚いた。そんなことを自分が口にするとは思いもしなかった。ついこの間まで、豊も仲良くなるということを忘れていたというのに。


 入彦は、何かを感受したというような瞳を豊に向けた。


 入彦が、心の底に生まれた新たな感情を言葉に変換しようと口を開き掛けた途端、轟音が邸を激しく揺らした。何かが裂けて倒壊する音が続いた。


 豊と入彦は何とか身体を手で支えた。


 驚いて右往左往していた光の葉と黒衣の蛇は、廊下を激しく走ってくる音に顔を見合わせ、房に数人の男が走り込んでくると、たちまちただの黒衣の裾と葉っぱのかけらに戻った。彼らは人見知りが激しいのだ。数人の男は、入彦の身の回りを警護する舎人とねりであろう。


「注進いたします」


 数人の舎人はみなひざまづき、そのうちの頭立かしらだった男が上ずった声で報告した。


「怪しき風体の童子が門を破壊いたしました」


 舎人を束ねる大舎人は事実を報告したのだが、入彦の理解は混乱した。門は、当然、強固に造られている。それを童子が破壊するとはどういうことか。主の眉の上あたりに疑問符が浮かんだのを見てとった大舎人も、実は困惑している。


「詳細は不明ですが、門守かどもりが申しますには、その童子を追い払った後、童子が手にした鏡らしきものから光る巨人が現れ、門を破壊したとのことです」


 報告しながら大舎人は冷や汗をかいた。馬鹿げた報告への、主の叱責を恐れたのだ。事実、こういう荒唐無稽な口上に対する貴人の正しい反応としての怒声が機械的に入彦の喉元を駆け上がってきたが、入彦はそれを飲み下した。豊の不思議な言霊の術を見た後では、荒唐無稽にも一定の真実があるのではないかと思えてくる。


 鏡を持った童子と聞いて、豊にはすぐにわかった。


(…御統だ)


 なぜここにきたのかも想像がつく。


(追いかけてきたのだ、わたしを)


 豊の心の一隅ひとすみがじんわりと熱を持った。


「童子はすでに取り押さえておりますが、いかが処置いたしましょう」


 もちろん厳しい罰を与えるべきである。舎人たちの目がそう言っている。確かにそうすべきだ。


 童子が何者で、目的は知れないが、夜中に山門朝廷の御言持の邸内で、その令息の殿舎の門を破ったのだ。


 貴人としては、威厳に満ちた声で、厳重な処罰を命じるべきだろう。


 心の底に湧いた温かな感情に染まりつつあった入彦の表情が、たちまち色を失っていく。そうあるべきとする、地位と立場の冷えた足場を映しとるような表情に戻っていく。土偶のような土色の顔へ。


「お待ちください、入彦様。その童子には心当たりが…」


 豊は言葉を詰まらせた。豊を見下ろす入彦の目の温度の低さに、続けるべき言葉を失ったのだ。つい先ほど、豊の言霊が生み出した光虫とたわむれていた人物は、夜色に吸い込まれたようにいなくなっていた。


 入彦の彩衣あやごろもの裾に手を伸ばしかけた豊を見て、舎人たちが色めきだった。


 彼らには、豊が何者で、なぜこの房にいるのか知らされていない。星影のように輝く瞳に神秘性を感じないではないが、みすぼらしい黒衣を着ていることだし、邸で働く雑仕女ぞうしめ水仕女みずしめであろうと舎人たちは考えた。家僮風情が主の彩衣を手づかみするなど、無礼にもほどがあるということだ。


「控えよ、豊」


 さすがに豊の名は覚えていたが、入彦は、つい先ほどの和やかな時間などは忘れたとばかりに、叩きつけるような口調で豊の背を押さえつけた。


「狼藉者の処置は、打ち首と決まっている」


 極刑を、さらりと入彦は宣言した。豊は視線を跳ね上げた。入彦は、無慈悲な権力者の色に染まりきっていた。


 うけたまわり、走りだそうとする舎人たちを、続く入彦の言葉が引き留めた。


「まて。狼藉者ではあるが、父上が招いた旅一座の者であろう。いずれ打ち首とするが、まずは父上にお伺いをたてる。それまではひとやにいれておけ」


 入彦の指示を門守に伝えるため、二人の舎人が走った。


 豊は入彦に訴えるべき言葉を探したが、舎人たちの強い力で肩口を押さえられ、床板に引き据えられているうちに、入彦は振り返ることなく房を出ていった。


 さて、自分の首が近々落ちるかもしれないことなど知りもしない御統は、土牢の底にいた。両手を頭の後ろに組み、ごろりと横になって、格子の間から星空を見上げていた。


 土を掘った牢である。


 材木をはめ込んだ格子は、大人が跳躍しても届かない高さにあるが、堅牢に造られているらしいことは見て取れた。長雨でもふれば溺死すること請け合いだが、幸い夜空はよく晴れていて、星影や月明かりを時折かくす雲も雨を含んだ重さではない。


 あれは一体なんだったのだろう。


 無論、御統の鏡から現れた光の巨人のことだ。幻想や妄想と言い退けてしまうにはあまりにも鮮やかな光景だった。そもそも幻想や妄想では門塀は破壊されず、御統が土牢の底で星影を見上げることもない。


 ところで、その鏡は、御統の横に並んで、星空を見上げている。


 鏡は、一度取り上げられた。土牢に落とされる前だ。


 無残に破壊された門塀の前で数人の門守に押さえつけられた御統は、その後、一人の男の足下に引き据えられた。威張った男で、門守の長というよりはもっと高い身分の衛士だろう。


 その衛士の指図で、御統は土牢に落とされたわけだが、その作業中、衛士は取り上げた鏡をしげしげと眺めていた。価値のありそうなものなら、懐にでも入れようかと算段している顔だった。


 彫り物は、向かい合う二人の仙人と二匹の獣だ。


「鏡の価値は、鏡面よりも彫り物にある」


 と、鏡を呪いの媒体とする呪術者以外はそう考える。衛士もそう考えていたらしく、掌に乗せた小振りな鏡の彫り物は、目を驚かせるほどまでの精緻さではないと値踏みした。


 衛士は鏡に対する造詣も浅く、その素材から、貴重な白銅鏡であることも分からなかった。そう価値のあるものではない。衛士は総合的にそう判断したが、上司に渡すか、懐に入れるか、まだ決しかねていた。


「お気をつけくだされ。門塀を破壊した不思議な光は、その鏡から出てきたのですぞ」


 騒動の一部始終を間近で見ていた門守にそう言われて、驚いた衛士は狼狽ろうばいのあまり、鏡を土牢に落としてしまった。


 堅牢な木の格子でね、とがり声のような金属音を立てた鏡は、土牢に落ちて、くぐもった余響を震わせた。


 衛士は驚かせた門守を睨んで尻込みさせたあと、土の穴に落ちた鏡を、格子の隙間から覗き込んだ。


 格子を外し、穴の底まで取りに降りるのはわずらわしい。衛士は舌を鳴らしただけで、鏡の件は忘れることにした。


「いずれ沙汰があるまで牢に入れておけよ。逃がすとひどい目にあうぞ」


 腹いせに牢番を脅して、衛士は立ち去った。


 牢番の不平のつぶやきが聞こえた後は、土牢の底は静かになった。牢番にとって幸いなことに、この少年囚人は、あえて脱走を試みるほどの働き者ではない。


 それどころか、落ちてきた鏡を拾い上げようともしなかった。


 持ち主の元へ帰ってきたという見方もできる鏡を、御統はほったらかした。それが、主人をこういう目にあわせた鏡へのお仕置きだった。


 しかし、やはり気にはなった。


 横目で鏡を見てみる。


 変哲なさげな所在の鏡だ。だが、その鏡面から光の巨人が現れたのだ。


 ものぐさな御統が手入れするわけでもないのに、いつも澄んでいる鏡面に、星影が映っている。豊の黒い大きな瞳のようだ。


(あの子、どうしたかな…)


 そんなことを考えているうちに、御統は寝入ってしまった。土の穴ですやすや眠る御統の様子を格子の隙間から覗き込んで、牢番は呆れるやら、感心するやらの顔をした。


 次の朝、日光が大日邸の隅々から夜色を追い出すよりも早く、入彦の殿舎での騒動は邸中に広まった。門塀が破壊される轟音を直に聞いた者も多い。


 自室に入彦を呼んだ大日は、息子の意固地いこじさ加減を持てあましていた。腹が立たないわけではないが、叱声が逆効果になることはわきまえている大日だ。


「どうあっても、あの男童をわらべひとやから出す気にはならんのだな」


「なりません。あの童子に害意があろうとなかろうと、山門の御言持の邸で狼藉ろうぜきを働いたことに間違いはないのです。しかも門塀を破壊した殿舎は、御言持の世継ぎである私の殿舎でございます。たとえ、あの童子が父上のお招きになられた旅芸人の一員であろうと、しかるべき処置をなさねば、当家の威厳と権威に関わります」


 暗記してきたような言葉をつむぐ息子の目の奥を、大日は覗き込んだ。権力と勢力を持った権門に寄りかかろうとする者らに染められた目の色をしている。


 いつも何者かが運んでくる色に染められる息子だ。なぜ父親の色には染まらぬのだろうと大日は思うが、そこは父として接する時間の乏しさのせいだろうと自責する大日である。


「それは、お前自身の考えか。お前が、そうするべきだと思うのか」


「私は、御言持の世継ぎとして、そう考えたのです」


「大日の息子としてのお前は、どう考えているんだ」


 その問いかけは、入彦に多少の困惑を与えた。


「…おっしゃる意味がよく分かりません。御言持の世継ぎと大日の息子とは、つまりおなじ意味ではありませんか」


「では、お前という人間はどう考える」


「私の考えなど必要でしょうか。私の私物に害を与えられたわけではありません」


「理屈を言わず、お前の考えを教えてほしいのだ」


「広く人々の声を聞いて考えるべし。常日頃、父上はそうおっしゃっておられます。私の考えは、つまり人々の考えなのです」


「そうか…」


 大日は黙り込んだ。


 御言持の位は世襲ではないが、春日族の族長の地位は世襲される。入彦は、生まれながらに公人だ。人々の声を聞くことは、まさに正しい。だが、入彦の耳へ入る声にはかたよりがあり、入彦の視界は狭いのだ。家臣や、邸に仕える人間、山門朝廷の官人だけが人々ではない。山門大都の隅々、野辺の四方にも人は広がっている。


 いつか入彦を外の世界へ放り出さねばならない時がくる。大日はそう予感した。それは遠い日のことではなさそうだ。


「わかった。あの男童の処置はお前に委ねる。だが、極刑に処すのであれば、先に知らせてもらいたい」


 言葉だけが教導の手段ではない。ときには、無言で信じることが子を育てることになる。


「ところで、豊はどうだ」


 大日は話題を転じた。


「まだ、どうということも。房を与えて、控えさせています」


「そうか。できるだけ時をつくって、豊と語り合ってみなさい」


 御言持の立場が子に伝える父の言葉を歪めているのなら、ここはあの言霊使いの少女に任せようと、大日は考えた。


 大日に、昨夜の騒動と入彦の処置について誰よりも早く伝えたのは、実は豊だった。

 

 大日の邸は広大だ。殿舎、客舎、高楼、高台が建ち並ぶ。ここに長年勤める者でも、すべての配置を熟知している者は少ない。


 また、大日はその地位に相応しく、また彼自身の嗜好とは関わりなく、正妻の他に多くの側室がいる。病や怪我で人が呆気なく死んでしまう時代に、彼の血脈を絶やさないためだ。そのため、その夜をどこの房で過ごすのかは、限られた側近中の側近しか知らない。しかし、この日の光が山の尾根の夜色を払いのけたばかりの朝まだきに、側室の房をでた大日は、回り廊下に、端整な居ずまいの豊を見た。


「なぜわたしがこの房にいると知ったのかな」


「邸内の言霊の囁きをたどってまいりました」


 早朝に相応しい豊の澄明な声だった。


「ほう。人の言葉は、人の耳に達してのち、消え去るものではないのか」


「多くはそうです。ですが、強い魂魄を持った人の言霊は、たとえば天井の裏や廊下の隅で永く残響を留めるものなのです」


「それはうかつに戯れ言(ざれごと)も言えぬな」


 そう笑ったあと、大日は豊から昨夜のことを聞かされたのだ。


 大日は、入彦を自室からさがらせた。もっと語り合いたかったが、朝廷に出廷しなければならない。御言持の職務が、こういうとき恨めしくなる。


 大日が身支度を整え、側近と舎人とねり数人を供に朝廷へ向かったあと、客舎の一つでも小さな騒動があった。


 輪熊と鹿高が、御統が捕らえられたことを知ったのだ。輪熊座一同も同時に知ったのだが、どこでも騒動を起こす奴だと笑いがあったのは最初だけで、土牢に落とされたらしいことが分かると、さすがに御統の身を案じる声が多くなった。


 鹿高は激怒した。御統は門と塀を破壊したらしいが、鹿高は邸中の建物を軒並み蹴散らしそうな怒り様だ。それを輪熊がなだめているというのが客舎での騒動の構図だ。


「なんであんたはそんなに落ちついてんだい。御統のことが心配じゃないのかい」


「落ちつくもなにもないだろう。ここは大日の邸だ。大日に任せるしかない」


「ずいぶん分別ふんべつが付くようになったじゃないか。分別と薄情は紙一重だよ」


「とにかく騒ぎをでかくすんじゃねぇ」


 輪熊は、今にも飛び出しそうな鹿高を、目で押さえつけた。いつもは鹿高の尻に敷かれている輪熊だが、こういうときの輪熊の目は段違いの圧力がある。この輪熊の目に抗うときは、輪熊と決別しなければならないときだと分かっている鹿高は、口中に不満をくわえ込んだようなふくれた頬で、荒々しく床に座った。


「おれ様は大日に頼まれて御統をここへ連れてきた。そしてちょうど上手い具合に御統は大日の懐に入った。あとは見ているしかねぇ」


「あたしゃそんな分別はつけられないね。大日殿は信用しているが、あの土人形みたいな顔した息子はいけ好かない。御統の身に何かあったら、ただじゃおかないよ」


「どうするってんだ」


 輪熊がじろりと鹿高を見据えた。


「おめぇ、おれが輪熊一座全員をわざわざ山門大宮まで連れてきたそのわけを、しらねぇわけじゃあるめぇ。おめぇが守るのは、御統だけなのか」


 そう言われると、鹿高も何も言い返せない。


 輪熊座は優秀な旅芸人の一座だ。大都での興業は初めてだが、多くの邑で拍手喝采を浴びてきた。座員も、輪熊座の一員であることに誇りを持っている。


 だが、旅から旅の暮らしはきびしい。年をとり、長旅が辛くなってきた座員もいる。孤児となって輪熊座に拾われた幼い子どもには、俳優わざをぎ以外の可能性を閉ざしてしまっている。


 年を取った座員の中には、大きなむらで仕事を見つけ、安住したいと考える者もいるだろう。また、病気や事故などで我が子を失った邑人には、輪熊座ではきはき働く童子を見て、引き取りたいと願う人もいるだろう。輪熊が、座員全員をひきつれて山門大宮までの大旅行を敢行かんこうしたのは、つまりそういうことだ。そんなときに、大宮の最有力者の子息と悪い行きがかりを作ってしまってはいけない。


 輪熊と鹿高のやりとりを見守る目があることに、鹿高は気づいた。その目の中には、幼い瞳もある。


「今度ばかりはあんたが正しいようだね」


 鹿高は降参した。


「明日からの興業の許可は得てある。わしらはその準備にとりかかろう」


 輪熊は天井の一点を見つめた。目の奥がどっしりとわっている。鹿高は、彼らを見守る目の方へ向いながら、とにかく、御統の無事を祈った。輪熊を本気で怒らせてはならないことは、大日も知っているはずだ。 


 その大日は、供を従えて、大宮の長鳴門を通り、山門主の宮城に入った。城というとおり、山門主の宮処みやこは土を突き固めた壁で囲まれている。大日は、宮府みやのつかさの白木の建物に上がった。供は、大日が朝勤から戻ってくるまで、主の脱いだ履き物を見守りつつ、ここで待つのだ。


 白木の床板をすらすらと進むと、白砂しらさご斎庭ゆにわが現れる。斎庭とはみ清めた場所のことだ。その向こうには、高床の宮居みやい白木しらき千木ちぎを青空にかざしている。宮居から斎庭には太い柱で支えた引橋ひきはしが垂れている。引橋とは、地上の住人が神域に至るための登攀路アプローチのことだ。引橋を登りきったところの一室に美しい玉を散らした御簾みすが降りており、その奥に、隠身かみである山門主が鎮座する。


 斎庭の右手には歴代の山門主の霊魂をまつ御霊屋みたまやがあり、左手には山門の宝を納めた神庫みくらがある。


 深閑かつ幽間とした空間である。降り落ちる朝日の音が聞こえてきそうな静けさだ。


 斎庭には、すでに山門の大夫まえつきみが立ち並んでいる。大夫とは、君の前に立つ者ということで、要するに山門の政権運営に携わる大臣と思えばいい。葛城かつらぎ平群へぐりなど、山門朝廷に参画する諸族の長たちである。


 宮居に対して二列縦隊で居並ぶ大夫の間を大日が通っていく。白い玉砂利の音だけがおごそかに進んでいく。


 大日が先頭に立つのと同時に、どこから現れたのか、一人の男が、ゆったりとしたしぐさで御簾の前に着座した。


 その男は、名を登美彦とみひこといい、山門主の秘書官と言うべき持傾頭きさりもちである。


 登美彦は、その名が示すとおり登美族とみぞくの族長である。大日が治める春日族かすがぞくは登美族の支族しぞくであるのだが、血脈的に近接にあるはずの二つの族は、しかしその族長の関係において、あまり良好ではない。両者が共にみ嫌い合っているわけではなく、誰に対しても友好的な大日に対して、登美彦が一方的に敵意を抱いているという構図だ。


 もちろん、互いに山門朝廷の高位重職にある二人が不仲を露骨に公表しているわけではないが、大夫をはじめ、官人官女から領民に至るまでの衆目は一致している。


 登美彦の大日への一方的な敵意の理由についても、大方の者は、大方の予測をつけている。つまり、支族の長にすぎない大日が顕職にあり、本族の長である登美彦が秘書官に甘んじているといういびつな権力体制が要因であるということだ。


 もっとも、多くの者が、明朗闊達な大日の御言持在位を支持している。領民の目からは隠身となっている山門主の政治思想は、大日を御言持に抜擢することで示されており、多くの者が、そこに安心を見いだしているということだ。


 一方、持傾頭には陰の印象が濃厚だ。持傾頭という職務が、上古には、葬儀の際に遺体の頭を支え持つ職務であったことに由来する印象だ。その後に、臨終を迎えた族長の遺言を聞き取る職務となり、現今では、秘書官という職務に転じている。


 いずれにしろ、心の扉を閉め切ったような、冷ややかで陰気な登美彦は、衆目的には、持傾頭という職務に付随する印象にうってつけの人物であった。


 その登美彦が着座してすぐに、美玉を散らした御簾の奥に、重々しい気配が鎮座した。大日をはじめ、大夫たちは、一斉に、白砂に頭を打ち付けんばかりの角度で、深々と一礼した。


 大日だけが上半身をほぼ平行に戻し、山門主への報告事項を奏上した。つまり、申し上げたのだ。


 報告事項は大きなものから細々(こまごま)したものまで多岐に渡るが、大筋は山門の食糧事情と邑々(むらむら)からの上納品に関することだった。


 山門の食料、そして経済は、主として狩猟、漁労、採取によって支えられている。獣を取り、魚を釣り、木の実を摘んで生活の糧としているのだ。山門主をはじめ、山門大都の貴人うまひとの生活も、それによって支えられている。


 ところが近頃、獣や魚の取れ高が極端に減少し、木の実の成長が悪い。それでも邑毎に定められた上納の数は同じなのであるから、領民の暮らしが圧迫され、貧窮が広がっている。生活ができず邑を捨てる民が続出しており、流浪して大宮に食を求める者の数も増える一方だ。大宮から見えない山門の裾野では、山門自体を捨てる民もいる、と大日の耳には聞こえてくる。


 上納品の数を減らすべし。奏上の主題はそれだ。


 もちろん、そのような対処療法的な報告だけでは御言持の職務は勤まらず、根本的な解決策の提案が必要だ。


 大日は、解決策に農業の導入を主張した。


 農業はこの時代、画期的で革新的な食料生産手段である。天地の恵みに頼っていた方式を、自ら産み出す方式に変えようというのだ。


 西の海の果ての大陸、つまり大真帝国では、農業はすでに常套手段となっている。だが、この豊秋島とよあきしまでは、農業を積極的に取り入れている勢力はまだ少ない。天神地祇あまつかみくにつかみの宿る自然に人為を加えて、人の都合の果実を産み出そうというのは、この時代の豊秋島の人々にはあまりにおそれ多く、空恐ろしい蛮行であった。


 しかし、このままの不猟に手をこまねいていては、山門自体が滅びるかもしれない。大日の建言には、多くの者がまだ目にできない山門の末路を直視する悲壮さが含まれている。


 なにも今日、弓矢と釣り針と摘み籠を捨て、すきくわを持てというわけではない。天神地祇を祀り、良否を占い、少しずつ苗を植え、種をこうというのだ。


 山門の人々の生活を守らなければならない大日としては、できることから進めていかなければならない。山門大宮の郊外に、明日立つかもしれない飢えた少年の姿が、大日の目には見えるのだ。


 御簾の奥の山門主からの声は降りてこない。だが、それでいい。大日の建言を聞いた山門主は、おって山門の神々に吉凶を問い、神託を得る。山門主の身体に下ろされた神託は、山門主によって言葉に整えられ、大日に告げられる。山門主に召し出されるその日を、大日としては待つしかない。


 他に、大日は、山門を守護するように群峰を連ねる青垣山あおがきやまの外の世界のことを報告した。


 現今、山門は他勢力と争いを起こしてはない。突出した規模を誇る山門に対抗し得る勢力がないというのが現状だ。


 しかし、御言持の視力が近視であってはならない。遠方ではあるが、豊秋島の西方を支配する筑紫の諸勢力や、上古より高い文明を持つ出雲、吉備は山門朝廷を凌駕する力を持っている。


 そして東方では、青垣山を隔てたすぐ隣の尾治おわり地方には、久那くなと呼ばれる一族が力を伸ばしつつある。


 周辺の諸勢力がどれほどの力を付けようとも、その干渉を跳ね返す力を、山門は保持し続けなければならない。そのために、不猟による体力消耗を招いてはならず、早期に農業に取組まねばならない。


 以上が、この朝勤で大日が奏上した大意だ。


 御簾の奥の重々しい気配が立ち去ると、解散である。大夫たちは、腰を揉みほぐしながら帰っていく。


 大日は、しばらくたたずんでいた。自分の言葉が山門主に届いたという手応えがない。しかし、自分の立つ白砂の場から、宮居に届く登攀路を駆け上がって山門主の裾を掴むことはできない。


 山門主から祭殿に引見される日を待つしかない。


 時を待つ身の虚しさを吐息に変えて足下に落とした大日が退廷しようと振り向いたとき、登美彦が立っていた。冷気の壁に立ち塞がれたような錯覚が見えた。


「我が山門もなかなかに多難でございますな」


 登美彦は大日よりも年下だが、年寄り臭い話し方をする。族長としての立場は本族の長である登美彦のほうが上だが、朝廷の席次と年齢の長幼はわきまえている登美彦だ。ただし、登美彦ほど慇懃無礼いんぎんぶれいという四字熟語と仲の良い人間はいないだろう。


「互いに微力を尽くそう」


「その微力でございますが、この少々沈滞した大宮の空気を払うため、私は、馳射はやあての馬合わせを神前でり行いたいと存じますが、お許しいただけましょうや」 


 思いの外の建設的な申し出に、大日は目を丸くした。神前馬合わせを挙行する費用も、山門の公費に負担をかけず、登美族と春日族とで折半してはどうか、と登美彦は言う。


「おお、それはよい。みな喜ぶだろう」


 大日は素直に喜んだ。普段ぎくしゃくすることもあるが、やはり山門のことを考えているのだと、登美彦を見直す思いだった。


 馳射は、貴人から郊外者はずれのひとまでが熱狂する山門の娯楽競技だ。馬に乗り弓をたずさえた二つの組が、定められた競技場で対峙し、馬を馳せ合い、鏃を交わして戦うのである。いわば、模擬戦だ。馳射の対戦を、馬合わせという。


 元々、馬に慣れない山門の諸族から馬への恐怖を取り除くために催された祭事まつりごとであった。山門の中核である斑鳩族いかるがぞくが山門の諸族をべるには登美族の軍事力は不可欠で、乗馬文化を根付かせるために天神地祇への奉納行事として始められたものだった。


 馳射は、その興奮をかき立てる娯楽性から、たちまち山門大宮をはじめ諸族の民衆を魅了した。当初は登美族と春日族の二組による祭事であったが、いつしか各族が有能な族員に騎射の腕を磨かせ、自前の組を持つようになった。斑鳩族も山門主の声がかりで馳射組はやあてぐみを結成し、専用の馬場ばばを整備したうえで、各族対抗による定期戦が組まれるようにまでなった。


 いまや馳射は、山門大宮の二大娯楽と呼ばれるまでになっている。馳射の選手に選ばれることは諸族の若者の憧れであり、時代寵児スターダムへのきざはしであった。


「神前試合ではありますが、登美族と春日族とは、馬術と射術には一家言いっかげん持つ両族でございます。民衆は手加減なしの真剣試合を期待するでしょう。もちろん、主様にも御上覧賜る所存でございます。互いに精鋭の選手を出場させることにし、組頭くみのかしらは両族の長子に務めさせることといたしましょう」


 両族の長子とは、つまり族長の後継者ということだ。


 馳射は模擬戦の娯楽競技で、放つ鏃に刃止めはしているとはいえ、射られどころが悪ければ大怪我に繋がるし、落馬すれば命もうっかり落としかねない。


 命を賭けた祭事であってこそ、天神地祇を楽しませる道理はわかる。勇壮な若い族長が騎射の腕を馳せ違えさせれば、山門の民も奮い立つだろう。


 しかし、万が一があれば、世子を失った族は大打撃をこうむることになる。


 一考すべきではないか。そう言おうとした大日の目に、登美彦の姿はすでに冷気だけを残した遠い影であった。

 御統の白銅鏡から出現した巨大な人型の光が狼藉を働き、土牢に放り込まれることになった御統。そのことが、御統と豊、そして入彦を引き寄せるきっかけになる。

 その頃、山門の朝庭では、大日が登美彦から馳射の馬合わせの挙行を持ち掛けられる。

 

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