山門編-失われた天地の章(5)-七色公子
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。そこには天と地の八百万の神々と、呪いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
旅芸人一座の輪熊座と共に山門の都へ向かう道中、俳優の少年、御統は、黒衣をまとった美少女、豊と出会う。優れた言霊使いの豊は、当初、御統に敵意を向けるが、二人の距離は少しずつ縮まる。
山門の首邑、山門大宮に到着した輪熊座一行は、山門の御言持、大日の歓迎を受ける。
大日と輪熊座の親方に交誼があることを知った豊は、若く美しい自らを大日に献上するよう輪熊に提案する。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
庭の草花から光子が躍り上がるような陽気だ。
桜は八分咲きの花芽を八重にも十重にも盛り上げて、庭も邸も、薄桃色の紗にくるまれたような花の景観となっていた。
春たけなわのうららかな午後。桜の枝の玄鳥が、目を細めて春の日射しを浴びている。
小鳥でさえも春を静かに楽しんでいるこのときに、御統の、特に胃袋は、とても静かにすることなどできなかった。
なにしろ、見たことも、想像したこともないような美膳が並んでいる。
その食材が、なんであるのか見当もつかない御統のために説明すれば、品の良い高坏に盛られているのは、栗と米を蒸した強飯、牛肉の焼き物、鯛の焼き物、鮎の焼き物、鮑の焼き物、水茄子の漬け物、牛の乳を煮詰めて固めた蘇、桃、枇杷、胡桃などなどで、木椀には、鴨肉と冬瓜の羹、蛤の吸い物が白い湯気を上げている。そして、酒だ。それも輪熊座で飲むような一夜酒ではなく、幾度も醸した清酒だ。
宴は、まずはあらためて邸の主の大日が歓迎の辞を述べたのだが、居並ぶ人々は、とても平静に聞いてはいられなかった。なにしろ、御統の腹の虫がやかましい。歓迎される側の輪熊座の人々は好意的な微笑を浮かべているが、歓迎する側にいるはずの畏き辺りの貴人たちは、苦虫が集団で逃げ出しそうな渋面を並べている。
「それでは、珍味とてございませぬが、お召し上がりください」
と、大日が辞を締めたところで、人々はようやく我慢の時を終えることができた。御統はどの料理だろうと構わず手当たり次第に口に放り込むし、笑うのこをこらえていた座員は大笑いするし、憤懣やるかたない貴人たちは、騒がしくなった宴場のどさくさに、ここぞとばかりに罵詈雑言を吐き出した。
大日は、粗餐と言ったが、それは謙遜を当たり前の言葉に置きかえただけのことで、食材としても、調理方法としても十分に豪勢だ。相伴する貴人たちが眉をしかめるのは、輪熊一座の野卑た食事態度もさることながら、自分たちの膳に箸が添えられていないからだ。
箸は西の海の果ての大陸から近頃伝わってきた真風文化の食器だ。大真の箸は金属製が主だが、豊秋島には金属の原料が十分でないため、箸は木製だ。金属製だろうと木製だろうと、箸の用途にちがいはなく、つまりは皿から口へ食べ物をつなぐ。
ところで、『ハシ』とは、つなぐものである。皿の上の食べ物と口とをつなぐのが箸で、川の向こうとこちらをつなぐのが橋だ。そして何かの端は、必ずほかの何かの端につながっている。空間にも端があるということだ。
それはさておき、貴人たちにとって、食事に箸を使わなければ、彼らの社会的地位に傷がつく。とはいえ、一昔前までは、誰もが当たり前に手づかみで食べていたのだから、贅沢や便利さに慣れることの早さは、いつの時代だろうと変わらない人間の性というものだ。
おそらくは箸を知らない輪熊座員がいつもと同じように食事を楽しめるように、との邸の主の趣向は、片方では受け容れられ、片方では拒否されるという雰囲気の傾斜をもたらしていた。もちろん、そんな微妙な空気に気づくような繊細な座員ではなく、彼らはそれぞれに食事を楽しんでいることが大日には十分に伝わっていた。
羹はさすがに手づかみというわけにはいかないので、匙は、膳に置かれていた。匙は箸に比べると多少は古い食器で、貴人たちの中には、匙で焼き物が食べられないかに挑戦し、悪戦苦闘している者もいた。美膳を前にしては、社会的地位よりも胃袋がそれを求めるという人体の構造には、誰もかわりがない。
「熱っ」
御統が羹に突っ込んだ手をあわてて引っこ抜き、口に含んだ。羹とは、つまりスープだ。鴨肉や蛤がしっかりと煮立てられた羹は当然熱く、そのためにこそ匙が置いてある。しかし匙すら知らない御統は、どうすれば鴨肉や蛤にありつけるのか、不思議そうな目で木椀を覗き込んだ。
「本当に何も知らないのね、あなたは」
となりの豊が、呆れた顔で御統に匙を握らせた。
「いい?こうするのよ」
豊は、匙をつかって羹の汁を飲んでみせたり、鴨肉をすくって食べてみせたりした。目を丸くして豊の動作を見ていたのは、実は御統だけではない。豊のおかげで、遅まきながら匙の文化が輪熊座の中に広まった。
さて、食事が終われば、酒だ。
大日は大きな酒器に酒を満たして、自ら輪熊座の輪の中に入って、座員一人一人に酒を注いで回った。その作業を分け持つはずの相伴の貴人たちは、輪熊座のような野人の集団など視界に写すのも汚らわしいとばかりに、特権的意識が共通する範囲の中で酒を回した。
貴人たちにとっての救いは、主の席に入彦が座っていることだった。十七歳になったばかりの御言持の嗣子は、品格と気位をおそろしく押し下げて輪熊座を接待する大日や大彦とは一線を画して、あきらかに畏き辺りの居るべき高さにきちんと座っていた。
入彦は、他の貴人たちのように露骨に侮蔑の色を顔に浮かばせてはいないが、心で、輪熊座を見下していた。そして彼だけは、宴が始まると同時に懐からおもむろに漆塗りの箸を取り出し、父や伯父とは別次元にいると言いたげな白々さの中で食事をしていた。その白々さの裾野に入ることで、貴人たちはこの宴場の居心地の悪さから蘇生した心地になった。
しかしだからといって、入彦をはじめ、この場に相伴している畏き辺りの中に、大日や大彦を嫌っている者がいるわけではない。彼らは皆、山門朝廷の人臣最高位に立つ御言持とその兄を尊敬し、二人のために日々職務に精励し、忠義を保っている。ただ、二人の、度を外した道楽にまで付き合うことには限界があるということだ。
宴会場に二つの渦ができている。互いに排斥し合うわけではないが、互いに混じり合うこともない。
その二つの渦を冷静に観察しているのは、豊の、強い光を秘した黒い瞳だ。
豊は酒は飲まずに、桃の実をかじっている。山門大宮の郊外の集落で暮らす人々なら、おそらく一生口に入れることのない高嶺の実だ。甘く瑞々しい果汁に濡れた唇をときどき拭きながら、豊は、今夜から自分の身を捧げることになるかもしれない人物を、じっと値踏みしている。
豊の瞳に捉えられているのは、大日だ。若々しく見えるが、三十代後半というところだろう。御言持という最高位にいながら、まるで違和感なく、輪熊座の乱痴気騒ぎに溶け込んでいる。
どうやら輪熊座の女頭領というべき鹿高にひとかたならない好意をもっているらしいことは、容易に見て取れる。彼に正妻がいるのかどうかはさておき、鹿高を選んだということは、見る目も備えているということだ。
殺されかけたが、鹿高の魅力は豊にもわかる。同じ目で見られたときに、大日の目に自分がどう映るかを考えると、豊にはあまり自信はない。鹿高の弾けるような美しい躍動感が、自分にはないことを豊は自覚している。もっとも、自分の容姿を卑下しているわけでは全くなく、美しさにも種類があると弁えているだけだ。でなければ、あのような提案を輪熊に示したりしない。問題は、大日の耽美の目が、豊に備わっている美しさを認めるかどうか、である。
温かい人柄だ。わずかの時間、視界に映る程度の距離にいただけにすぎないが、大日から放たれる温かさが肌に心地良い。明朗な清々(すがすが)しさも伝わってくる。身を捧げるという行為に明るい希望を見いだせない豊だが、この身を受け取る手が温かさに満ちていれば、少しは救われるだろうかと豊は思った。たとえそれが、豊の一族の怨敵の一人であったとしても。
それにしてもここ最近の温かさはどうしたことだろう、と豊は思う。春たけなわというだけの理由ではない。心の内が温かいのだ。これまでの豊の十四年の人生で、触れたことのない温度の心地よさだ。
豊は瞳を動かした。そこに、だらしなく横になった御統が、満腹になった身体を柱にもたれ掛けている。居眠りしているようにも見えるが、ときどき口が開いて桃の実を催促してくるので、起きてはいるらしい。全身の感覚を総動員して、甘美なる桃の実を味わっているようすだ。
御統の口が開く度に、豊は桃の実を詰めてやっていたが、今度は胡桃の実を殻ごとねじ込んでみた。目を見開いて大慌てで跳ね起きる御統を横目で見て、豊はくすくす笑った。
弟をからかって笑う。そんな何気ない思い出が、かつては豊の心にも灯っていた。その愛おしい灯りをもみ消し、捨てさせたのが、怨敵に恨みを報いなければならない一族の宿願だ。
気を取り直した豊は、次はもう一つの渦の中心にいる入彦を見つめた。取り繕ったような済ました顔をしている。御言持の子息という貴公子らしい風容で、目元にも、口元にも涼しさを貼り付けている。酒を注ぎに来る貴人たちと笑いを交わしているが、そしてその笑貌は爽やかだが、心の底には拗ねがありそうだ、と豊の零れた星のような黒い瞳は看て取った。
好きになれそうもない。入彦への、それが豊の第一印象だ。入彦は、豊の想像する貴人らしすぎる貴人だ。社会の底辺で喘ぐように生きている人種とは、互いに理解し合えない存在だ。
ふと、入彦と目が合った。視線をすぐにずらした豊は、吐き出しそうな胸の悪さに顔をしかめた。ほんの一瞬見えた入彦の目には、侮蔑と、玩具を弄ぶような色が浮かんでいた。
豊は戦慄した。大日に身を捧げるのはよい。だが、大日が息子に若く美しい実を下げ渡したらどうなるだろうか。見下した目で見られたとして、侮辱しか吐き出さない口で罵られたとして、人を人とも思わない手で弄ばれたとして、豊という存在のすべてを嘲るような態度で嬲られたとして、それを一族の宿願のためと受入れられるだろうか。いや、受入れなければならないのだろうか。
豊は、先行しすぎる暗い思案を、現時点に引き戻した。考えるよりも実行せよ、感じるよりも忘我せよ。たたき込まれた教訓を、豊は胸の底からすくい上げた。
宴は閉じられた。まだ宵の口だが、旅路に疲れた輪熊座の一行は、美膳と美酒をたらふく胃袋に納めたこともあって、満足感に抱き上げられたような足取りで、用意されていた房に案内されていった。
御統は鹿高や豊の目を盗んで、いつの間にか酒を飲んでいたようで、眠り込んでいた。邸で働く若い仕女二人に運ばれていく御統を細めた瞳で見送った豊は、表情をきつくあらためて、千鳥足の輪熊の袖を強く掴んだ。
「あの御言持のところへ連れていって。約束でしょ」
輪熊の無精髭も掴もうかという豊の勢いだった。
「あ?お嬢ちゃんはだれだっけかな?みかけん顔だ」
と、酔っ払って惚けたふりでやり過ごそうとした輪熊だったが、豊の星光りの瞳があまりに真剣なので、とぼけるのをやめた。
「約束ってのはあれか?あれだな。よく考えてみたんだが、不自由な檻から出すかわりに、もっと不自由な目にあわせてくれというのは、条件として間違ってはおらんかな。うん、やっぱり間違っておる。ここはいちど話をもとに戻して、また檻に入って…」
「ふさげないで」
輪熊は、結局、無精髭を強く引っ掴まれた。
「不自由なんてことはどうでもいいの。わたしはあの御言持のところへいかなければならないの。一度は約束したことでしょ。それともなに?輪熊座の親方って人は、目のない観客に見せるような安っぽい幻術を弄することがご自慢なのかしら」
輪熊座の親方という言葉を引き合いに出されれば、輪熊も引っ込むわけにはいかない。輪熊は酒色の息を大きくついてから、酒気を追い出すように自分で両頬を叩いた。それから、退室していく輪熊座を笑顔で送り出している大日の肩を叩いて、
「おい、邪魔の入らないところで話ができないか。ちょいと、面倒な話だ」
と、小声で言った。輪熊が悪いものを吐いてきたような顔をしているので、大日は驚いた。輪熊の後ろにいる豊は、反対に、宴の残飯をすべて口の中に放り込んだように両頬を膨らませていた。豊としては、とっておきの良い話と切り出して欲しかったのに、面倒な話と持ち出されて激しく心外だったのだ。
両目で両方の表情を見比べた大日は、すぐに房を用意させた。
その房は、明かり取りから昇ったばかりの月がよく見えた。大日の邸はやはり宏大で、広い敷地にいくつもの楼閣や大室が建ち並び、そのなかの一つ、他の建物からは切り離されたような趣の、生垣に囲まれた小さな屋室に案内された。
案内してくれたのは大日に仕える侍女の一人のようで、宵口の青暗さが立ちのぼった渡り廊下では柳々とした後ろ姿しか視界に入らなかったが、生垣の切れ目で一礼して立ち去る侍女の容姿を見て、そのあまりの艶立ちに、豊は驚いた。
礼をして立ち去るというただそれだけの挙措が心に鮮やかに描き残されるような清楚さで、伏せた目元は涼しく、口元は艶やかだった。柳のような細身だが豊かなところは十分に豊かで、青暗さの向こうに姿が消えても、その姿を心がいつまでも見るような色香を残していった。
侍女の姿から逃れるような足取りで舎に上がりこんだ豊は、何もない床の上に座り、自分の中の自信がしおれていく音を聞いていた。
容姿には密かな自信を持っていた豊だった。これまでにも、どこかですれ違った美しい女性と自分とを比較して、劣るところがあったとしてもそれは身体の未熟さであって、時とともに不足していたものが充足されていくと信じていた。そしてそれは今もそうなのだが、先ほどの侍女の美しさは、もはや別次元で、時がどうにかできるものではないと思われた。
大日が、先ほどの侍女のような、嫉妬するのも馬鹿馬鹿しいような高嶺の花に囲まれて日々を過ごしているのなら、どこにでも咲いている野辺の花のつぼみを捧げられても、輪熊の言うように、面倒な話なのかもしれない。
大日はなかなか現れない。輪熊もそうだ。二人は言葉を交わしながら、廊下の角に消えてしまった。入れ替わるように現れた侍女に、豊はここまで案内された。
待つうちに、房の明かり取りに月が昇ったのだ。
夜陰にすっかり沈んでいた房の内部が、黄金色の光に浮かんだ。
質素というよりも、貧相な房だ。調度品もほとんどない。一辺に寝具が畳まれており、あとは少しの棚と、黄金色の光が一番当たる辺りに、木製の小さな台があるだけだ。
奴の舎ではなさそうだった。野暮ったさはなく、むしろ上品な雰囲気がただよっている。なにより奴の舎が御言の大殿の奥に建てられるはずはない。
廊下を踏む音が近づいてきた。優しげな足音。豊はなぜか、いなくなった父の姿を想った。
木戸がきしんで、人が入ってきた。もちろん豊の父ではない。
大日だ。当然のことなのに、なぜか豊は軽くうろたえ、身じろぎした。
「待たせてしまったね」
大日は座り、黄金色が踊っている台に寄りかかった。
ここは大日の私室なのだ、と豊は得心した。山門朝廷の人臣の最高位にいる御言持の私室はもっと豪勢で、目も眩むばかりの宝玉に覆われていると想像していた。しかし現実のこの房で、眩しいものといえば月明かりしかない。そうであるのに、ここは世界で一番、大日にふさわしい房のように、豊には思われた。眩しいものはもう一つあった。大日の笑顔だ。
「輪熊殿から聞いたよ。私に身を捧げてくれるそうだね。とてもうれしいことだ」
と、大日は軽やかに笑った。
豊は、頬を膨らませて軽く恨んだ。馬鹿にされていると感じたからだ。あんな美しい侍女を侍らせているくせに、何がうれしいものかと。
豊の気色を不思議に思うこともなく、少し身を乗り出した大日は、
「あなたは、言葉をしっている。そうらしいね」
と、言った。
この場合の言葉というのは、日常に交わし合う言葉のことではなく、言霊ということだ。御統に見せた言霊の術が、輪熊に伝わり大日に達したのだろう、と豊は思った。
「…はい、少しは」
何の話になるのだろうかと、豊は用心した。豊がここにいるその真意を、探られているのかもしれない。
「はは、慎み深い人だ」
用心などまったく必要なさそうな朗らかさをみせた大日は、一度立ち上がり、少ない棚の一つから木片のようなものを取り上げ、またもとの場所に座った。
「これをごらん」
差し出された木片に視線を落とした豊の明眸が、大きく見開かれた。豊の眸はもともと星光りのようだが、惑星の輝きが恒星の輝きに変わった。
「やはり知っているんだね、文字を」
木片と思われたものは実は竹片で、削られて平たくなった面に、黒い文様がびっしりと書き込まれている。
その文様は、文字、と呼ばれる。人の身体の動作や心の動作、天地のふるまい、精霊の作用など、森羅万象のあらゆる現象を一つの文様で表現した画期的な発明である。
それは西の海の果ての大陸の、大真帝国よりももっと古い時代の王朝で、一人の王が生み出したといわれている。
文字の発明で、人は飛躍的に発展した。まず、歴史を持つことができた。先人の苦労、先人の経験が残されることになった。
言葉は、それがいかに大きな声であったとしても、やがて風に消える。言葉を聞き伝えても、十人を経ないうちのもとの言葉は失われるだろう。
だが文字は残る。岩に刻み込まれた文字は、百年の風雨にも耐えるのだ。百年を耐えてきた文字をかき集めれば、人は今を生きながらにして、百年を生きることになるのだ。そしてその百年は、次に来たる百年を予測することができる。
予測。それこそが、人が秘めたすばらしい力だ。予想を助長し、空想を目に映らせるものが、文字なのだ。
そして文字はどこまでも運ばれていく。現に、はるか西の海の果ての大陸で書かれた文字が、山門の御言持の小さな舎に住処を得ている。
もちろん、すべての人民に文字が浸透するのは、もっともっと後の時代のことだ。文字を生んだ王の末裔である大真帝国ですら、文字をしっているのは知識層だけで、いわんや海を隔てた辺地の山門では、文字を知る者同士が巡り会うことすら極めて稀なのだ。
であればこそ、その文字を豊が知っているという事実を、深く考えてみなければならない。そしてその稀が目の前にいることを、大日はうれしいと言うのである。
「知っているというわけではありません。ただ一度だけ、一文字、見たことがあるだけです」
「そうか。どんな文字だったか覚えているかい。ここに、指で書いてみてくれないか」
大日は、右の掌を差し出した。豊は一度、戸惑ってから目を閉じて、瞼の裏に、記憶にある一文字を描き出した。豊の指が、大日の掌をすべった。
「おお」
大日は、思わず声をもらした。豊の指が大日の掌に描いたのは、星、という文字だった。
「その文字をなんと読むか、知ってるかな」
豊は首を振った。豊は、自分が大日に対して子どものように素直な反応を示していることに、まったく気づいていない。
「ほし、と読むんだ」
「…ほし」
「そう、ほしだ。ごらん」
大日は明かり取りから見える月を指さした。
「あれも、星だ」
豊は小首を傾げて応えた。
「あれは、月です」
「確かにそうだ。でもね、人にそれぞれ名前があるように、星にも名前があるんだ。あの黄金色の丸いものは、星という存在で、名を月というんだよ」
大日は豊の手を取り、その掌に、月、という文字を書いた。
豊は思わず仰け反った。自分の掌に、月が舞い降りたような煌めきを見たからだ。当然それは錯覚だが、掌から、煌めきの残光が立ち上っているように、豊には思えた。
大日は、もう一度、竹片の文字を豊に見せ、
「どう見える」
と、尋ねた。
どうもこうも、大日には、墨色の文様の羅列にしか見えない。意味を知らなければ、板の木目や、葉の葉脈と変わりがない。
ところが、豊に見える文様は躍動している。鼓動している。竹片からこぼれ落ちそうになっている文字もある。
意味はまったくわからない。わからないのに、意識の視野に何かが映る。誰かの影。座っているのか。この文字を書いた人物の映像なのか。
豊は慌てて頭を振って、意識の視野に描き出されつつあった光景を追い出した。どこか、空恐ろしかった。
「輪熊殿がおっしゃられたとおり、あなたは優れた言霊師のようだ。あなたに何が見えたのか私にはわからないが、おそらく、あなたはこの文字を書いた人の魂を見たのだと思う」
そう言って、大日は竹片を棚に戻し、また元の位置に戻った。
「…何と書いてあったのですか」
収まらない動悸を持てあましつつ、豊は尋ねた。
「うん」
とだけ言って言葉を止めた大日は、結局、内容を語らなかった。
「さて、輪熊殿は、あなたをわたしにくれると言った。人の身を物のようにいう口調は輪熊殿には似つかわしくないと不思議に思っていたが、意味がわかった。わたしは、あなたを有り難く受け取ろうと思う。あなたも、それでいいのかな」
念を押されて、豊は頷こうとした。御統が脳裏に浮かんだが、慌てて追いはらった。もう二度と会うことはない少年ではないか。しかし御統は、豊の心から容易に出て行こうとしない。
豊の心の整理作用を、大日は見守っていた。
輪熊の話では、豊は夜の底からいきなり現れたのだという。確かに夜を切り取って貼り付けたような黒衣装だ。おそらくは、集落を持たない呪術者集団の一人だろう。はぐれたのか、自らの意思で一人になったのかはわからない。あるいは、どこかで仲間が、夜の底を蠢いているのか。
呪術者には、星を崇める者が多いと聞く。星が人の運命を決めるという考えもあるらしい。豊が星という文字を見たことがあるというのは、そういうことなのだろう。
何を目的とし、何を呪う集団なのか。山門に害意を持つ集団でないとは言えない。
豊には、隠しようのない気品がある。品は貧富貴賤や善悪とは無関係だ。とても、夜の底を蠢く妖の一員とは思えない。
優れた言霊師。今はそれでいい。大日がそう心に整理を付けた頃、豊はようやく頷いた。
「豊といったね。では、これからそなたを、入彦というわたしの息子に預けることにする」
そう言う大日の言葉の意味を、優れた言霊師らしくなく、豊はすぐに理解できなかった。大日の言葉が、宴の一つの渦の中心にあった顔にようやく繋がると、豊は身体中から血の気を失った蒼白さに染められた。
それを、豊はおそれていた。土を焼いて作った人形のように体温を感じさせないあの顔とあの目で、自分の全身を辱めるように見下されたら。まして、その焼き物のような手で全身を玩弄されたなら。
しかしそれでも豊は耐えなければならない。一族の宿願に届く道が、目の前に開けているのだから。
豊は奥歯を噛みしめた。抑えようとしても、全身が震えた。
豊の内心の戦慄が、大日にはよく見えた。同時に、湧き上がりそうになった苦笑いを鎮めた。豊の心の震えをませた妄想と笑うのは簡単だが、少女をその妄想に駆り立てるいわくを考えなければならない。
「もう少し、大人を信用して欲しいものだな」
豊は、おぞましい想像を見つめて虚ろになった瞳を大日に向けた。
「そなたは美しい。まだ未熟だが、それなのに十分に美しいから、それがかえって怖いくらいだ。だが、わたしが輪熊殿の申し出を有り難く受けたのは、そなたの美貌を欲したからではない。まして、息子に預けるのは、その美貌で息子を楽しませてやってほしいからではないのだよ」
豊は、聞いてはいるが、心に届いていないという顔をしている。
「息子の友だちになってほしいということなんだ」
要するにそういうことなのだ。それでようやく豊の目が覚めた。
「…友だち」
最近よく耳にする言葉だなと、豊は記憶の中の似た光景に触れた。
「うん」
大日は頷いてからしばらく沈黙した。父親としての感情や思いを整理したのだ。
「御言持の子どもは気苦労が多い。あいつは、御言持の子息として相応しい自分を懸命に探している。わたしが望むのは、ふさわしい入彦ではなく、入彦としての入彦だ。わたしはうまくあいつを教導してやることができない。あいつにとっては、父親の姿も重いのだろうな。わたしには、できた子どもの顔しか見せてくれないよ。あいつが、本当の自分を大声でぶつけられる相手を、わたしは探していたんだ」
「貴き方々の中に、年相応のご子弟はおられないのでしょうか」
「そりゃいるさ。だが、だめだ。みな、上下の意識の中に住んでいるやつらばかりだからね。本音をぶつけてくれる相手が必要なんだ。ときには殴ることすら辞さないような」
「わたしは人を殴りそうな顔をしていますか」
はじめて、小さな笑みを豊は見せた。それを何倍もの笑顔で大日は受けた。
「そなたはそんなことはしないだろう。だが、優れた言霊師は、言葉の中に強さや重さをひそませる。そなたの言葉は、入彦の貴門の意識を突き破るだろう。だから、父親として頼みたい。入彦の友だちになってくれないか」
大日は頭を下げた。邸に仕える者が見れば仰天するだろう。御言持は、山門主と神へしか頭を下げないものなのだから。
きれいな形をしている。豊は、頭を下げる大日の姿をみてそう思った。違和感もなければ、卑屈さもない。人として、人への礼儀を尽くしている。
礼儀にはもともと身分も、門地も、出自も、貧富も関係ない。人と人とがより良い関係を築こうとするときの容なのだ。その礼儀が美しい人は信用してもいい。知識や経験でなく、心が豊にそう囁いた。
豊は居ずまいを正した。この房で大日を待つうちに気持ちに弛みが生じていたし、余計な想像などをして、大日に比べて自分の座り姿が礼儀に適っていないことに気づいたのだ。ただ居ずまいを正しながら、殴ったりもするけどね、と心の中で小さく舌を出してもいた。そのとき、御統の顔も同時に浮かんだ。
「引き受けてくれるだろうか」
「はい。入彦様がお気に召してくださればよいのですが」
「お気に召すだろう。あいつはとり澄ました顔をしているが、なかなかの女好きとみた。わたしの子どもだから間違いはない」
胸を反らした大日の自慢がおかしくて、豊は、今度は大きな笑みを見せた。
「そなたが女人であるということも、実は都合がよいのだ。入彦は自分の気持ちをうまく言葉にすることができなくてな。つい御言持の子息としての言葉を探してしまう。だから、年頃の女人とうまく話すことができないんだ。社交辞令の台詞は流暢に話せてもね。せっかく良い言い名付けもいるというのに」
「言い名付けがいらっしゃるのですか」
意外だ、と豊は思った。あの土を焼いた人形のような入彦の言い名付けは、やはり土偶のような顔をしているのだろうか、とかなり失礼な想像もまじえた。ちなみに、言い名付けとは、許婚のことだ。
余計なことを言ったと大日は反省したが、ここは隠さずに最後まで言うことにした。もともとめでたい話なのだから。
「そなたをここへ案内した女人がいただろう。美茉姫という名でね、彼女が入彦の言い名付けなんだ」
そう教えられた豊は驚いた。美茉姫の父親が、大日の兄の大彦と聞かされて、さらに驚いた。あの山賊の頭目のような血から、なぜあの艶やかな女人が生まれ出てくるのか、世の中の摩訶不思議を見せつけられた思いがした。ともかく、豊ですら羨ましくなるような言い名付けがいる以上、入彦が豊に食指を伸ばしてくることはないだろう。少し前の自分の狼狽えが急に恥ずかしくなった豊は、深く頭を下げた。
「それでは、入彦様がもう嫌だとおっしゃるまで、お側にお仕えしたいと存じます」
入彦の側にいるということは、一族の宿願達成への道程へいつでも踏み出せるということだ。入彦が嫌だと言うようなら、言霊の術で黙らせてしまうか、それこそ殴ってやればいいと、入彦にとって不幸な企みを豊は描きはじめていた。
ところで、慣れない酒を飲んで酔い潰れていた御統は、大日の邸の一房で目を覚ました。胸の底から喉を押し上げてくる不快感がある。
仄暗い房を這い回り、雑魚寝している座員を踏みつけるという犠牲者を何人も出しつつ、ようやく外に出た御統は、外廊下の柱に寄りかかって、庭へ向かって不快感を吐き出した。
しばらく嘔吐いて、一息ついた御統は、あたりがやけに目映いことに気がついた。見上げると、庭木の梢から見える月は確かに張り切っているが、目映いほどではない。
それは、鏡の輝きだった。御統の白銅鏡が目映いのだった。
御統はすっくと立った。この鏡が輝くときは、御統に何かを知らせているときだ。
御統は左右を見渡したが、向かうべき所はすぐにわかった。
中庭といくつかの生け垣を隔てたところに燎が焚かれており、その炎が揺らめきを投げかける建物から、何やら黒い塊が飛び出してきた。
夜の遠目にも、それが輪熊であることは明白だった。そして輪熊がこんなふうに飛び出るときは、大抵、鹿高に蹴り飛ばされたときだ。
御統は中庭に降り立ち、走り、生け垣を越えた。燎に照らされた建物の陰に近づいた。
客舎というより殿舎と言ったほうがいい。それはこの邸の主が輪熊と鹿高に向ける尊敬を形に表したものといえるが、今の御統には関係のないことだった。
鹿高の声が聞こえる。
「それであんたは、あの娘を捧げちまったというのかい。一度懐に入れちまったものは、貧乏神でも守りとおす。それがあんたのやり方じゃなかったかい」
いつもながら鹿高の啖呵は切れがいい。
輪熊は燎の灯りが届かないところまで蹴り飛ばされたようだが、むくりと胡座をかいたらしいことは気配でわかった。
「足癖の悪い女だって守ってやるとも。だがな、懐にいれたままより、でかい倉に納めちまったほうがいい場合だってあらぁな」
「大日殿がでかい倉なのかい」
「そうだ。考えてもみろ。大日があの娘を苦しめるようなことをすると思うか」
鹿高は興奮を少し醒ました。確かに大日は信用できる。果実をくすね取ろうとする猿も鼠も、大日という倉には忍び込むことができないだろう。だが、狼や虎ならばどうか。
「あの娘はすぐに噂になるよ。あれだけの美少女だからね。山門の御言持に仕えるのなら、野原の夜の底だけで生きてきたこれまでのようにはいかないよ。大日殿は信用できるよ、まちがいなくね。でも、山門主が倉の中を覗かないとも限らない。山門主があの娘を所望したときに、わたしたちのようにあの娘を連れてこの邑から逃げ出すことが、大日殿にできると思うかい」
鹿高の心配は的を射ている。どんなに大日が人格者でも、彼が最終的に護らなければならないのは、一人の少女ではない。
「わかってらぁな、おれだって。だがな、あの娘の目を見てみたか。自分の意思で道を選んでいく人間の目だ、あれは。おれがどうしようと、おまえがどうしようと、大日や山門主がどうだろうと、あの娘はするべきことをするのさ。あの豊って娘はな」
輪熊の吐息に、鹿高の吐息が重なった。あの年端のいかない娘に、何が厳しい道を選ばせるのだろう。二人の吐息は、無言の問いかけだった。
輪熊は、自分の胸を力なく叩いて、
「それにな、この懐ってやつも、ぼちぼち定員超過なのよ」
と言った。
鹿高はもう一つ息をついた。輪熊の苦労も分かる。一座を守っていくには、人の目に見えない苦労が多い。御統のこともある。鹿高は機嫌をあらため、ここは輪熊を認めることにした。
「わるかったよ。飲みなおそう」
鹿高がそう言うと、輪熊は土をはたいて立ち上がり、蹴り出された同じところから客舎に戻った。
しばらくして、
「ところで、足癖の悪い女ってのはだれのことだい」
という怒声とともに、もう一度同じ場所から輪熊は蹴り出された。
「…まったく、足癖わりぃといやぁ、おめぇしかいねぇだろうが」
やれやれと身体を起こし、生け垣に突っ込んで葉だらけになった頭をはたきながら、輪熊はふと、客舎の陰をみた。そこに、人の気配が残っている。
「…聞かれちまったか」
輪熊が空を見上げると、月が鮮やかに輝いていた。
「…走れ、御統」
酌を強いる鹿高の怒声が、輪熊の感傷を蹴り飛ばした。どうやら、悪酔いしているようだ。
秘めた企図を抱く豊は大日に近づくため若く美しい自身を差し出そうとする。ところが、事態は豊の予想とは異なる方へ進んでいく。