山門編-失われた天地の章(4)-山門の御言持(みこともち)
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。そこには天と地の八百万の神々と、呪いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
俳優の少年、御統は、旅芸人一座の輪熊座と共に、山門の都へ向かっている。
御統はある夜、夜色の黒衣をまとった妖しい美しさの少女、豊と出会う。優れた言霊使いの豊は御統の白銅鏡を奪おうとするが、御統は彼 女と友達になろうとする。
最初は戸惑い、拒否した豊と御統の距離が少しずつ縮んでいくなか、輪熊座は山門の首邑、山門大宮に到着する。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。御統の白銅鏡を奪おうとしている。
鵤丘に建設された山門大宮は、山門主が住まう宮処を中心に造られている。いわゆる条坊制の都市設計には達していないものの、都城といって差し支えない程度の規模と防御力を備えている。
条とは東西の路で、坊は南北の路だ。条坊を碁盤の目のように組み合わせる都市設計思想が条坊制といわれ、西の海の果ての大陸では流行だが、豊秋島ではその設計思想は一部の知識層の頭脳に留まっている。
山門大宮は小高い鵤丘を利用して建設されており、五重の濠と、その濠に架かる土橋で、いくつかの郭に区画されている。
雲居に届こうかという高層の高殿が建ち並ぶ中心部から、五重の濠が建物群を大きく六つに隔てているのだが、居直ったかのような明白さで、貴賎貧富の階級が描き出されている。つまり、中心に近づくほど、建物は豪奢壮麗となり、遠ざかるほど、建物は粗末になっていく。五番目の濠を囲う木柵の外に乱雑に建ち並ぶのは、竪穴の舎だ。
そのさらに外側には、農地が広がる。農地といっても原始的なもので、芋や豆の畑の他は、自然に生えるに任せた野稲がある程度だ。
豊秋島の食糧確保手段は狩猟、採取、漁撈が中心だが、都市的形態が進んだ山門では、農業という最先端技術が普及しつつある。
不思議なのは、その狩猟、採取、漁撈の労働力であるはずの人々が粗末な竪穴に暮らし、その労働から遠いところに位置する者ほど、大宮の中心の壮麗な高殿に暮らすという理不尽の中に、山門の社会がすっぽり納まっているということだ。
壮麗さと質朴さの対比画を目の当たりにする人のなかには、世の中というものに失望する人もいるだろうが、さしあたり輪熊一座の一行は、ようやく屋根の下で眠れる安堵感が、大宮をこの世の楽園に見せていた。なかでも、御統の瞳には、富める者と貧しき者、持つ者と持たざる者の喜怒哀楽は映らず、城郭と呼ばれる構造物や、土塁、濠といった土木技術が光り輝いて映った。
芋や豆の畑を左右に押しのけるように幅を利かせる道を輪熊一座は進み、大宮と外界とを隔てる大きな門の前で、門守に呼び止められた。
大宮には五つの大きな門がある。山門主たる饒速日の居住空間である宮処に通じる一番目の門は長鳴門といい、永楽長寿をもたらすと信じられている長鳴鶏の彫刻が施されている。
他に伴緒門、爻わり門、物部門、千引き門があり、輪熊一座の前でふんぞり返っている門は千引き門だ。
二つの大岩の間が通路になった厳めしい大門で、大岩の上に櫓(櫓)が据えられている。大岩を起点に大宮をぐるりと囲む木柵が、長大な手を左右に広げるように続いている。
あの世とこの世との境には、千人がかりでなければ動かせない大岩が道を塞いでいるという。山門大宮の玄関門である千引き門の名はそこから由来している。大宮の内界と外界との境目ということだ。
門守の持つ銅矛の刃が、日の光に輝いている。一人や二人連れ程度の出入りならば、門守はその人体を目で確認するだけで素通りさせているが、さすがに数十人の団体はそうはいかない。しかも、軒並み薄汚れた集団だ。
「汝らは何者だ。いかなる用向きでやってまいったのだ。みたところ、俳優の一座らしいが、よもや食を請いにまいったのではあるまいな」
門守が威圧的な態度で、言葉の壁を造ったのにはわけがあった。
実はこのところ、山門盆地全体で狩猟の獲物となる獣の数が減っており、食糧を確保できず、集落を維持できなくなった人々がいる。彼らは最寄りの大きな邑へ食料を求めて流れていくのだが、そんな集団が、山門大宮にも現れるようになった。
すこし前に、そんな彼らを憐れんで門内に入れた門守が、上級役人に責められ首を刎ねられる事件があり、その首がまだ門守の番所の軒先に下げられたままなのだ。彼のようになりたくなければ、うっかり話を聞いて情をわかせてしまう前に、強く拒絶の態度を見せるしかない。
「ご心配なく。食料は売るほど持っております」
ちょっとした小嘘を言って前に出たのは、輪熊だ。巨きな体を器用に小さく見せて、愛想笑いを浮かべている。
「さようか。しかし、汝らのようなものがここを通るとは聞いておらん」
門守は、銅矛の切っ先を、まだ輪熊一座から逸らさない。その切っ先をかいくぐるようにさらに一歩進めた輪熊は、懐から取り出したものを門守に差し出した。
「まずはこれをご確認くだされ」
袖の下をくれるのかと喜びかけた門守は、そうではないと知って、露骨に落胆した。それは木片であった。太陽を二つに割ったような模様が描かれている。
「なんだ、これは」
怪しいものを見る目付きで木片を横目で睨んだ門守は、やがて思い当たり、顔を青くして番所に駆け込んだ。すぐに飛んで帰ってきた門守の手が、同じような木片を掴んでいる。二つの木片を合わせると、一つの太陽が描かれた。描き出された太陽の紋章は、淡い光を放ちはじめた。
これは割り符だ。山門大宮の有力者が、賓客に無条件で門を通ることを予め認めたものだ。太陽の紋章は呪飾である。つまりこの割り符は、大宮の有力者が公式に発行した割り符であることを示している。
要するに、この種の割り符を所持する者を、門守ごときが誰何することは決して許されない、ということだ。しかも、太陽の紋章。これは、山門の人臣の最高位である御言持を表している。
門守は目眩にふらついた。視界の端に映った番所の軒先の生首が、妙に親しげな笑みを浮かべているように見えた。
門守の震える手から割り符の一片を取り上げた輪熊は、
「あなた様の勤勉ぶり、感服いたしました。門守はやはりこうでなくてはなりませぬ。これからも大宮の安全をお守りくだされ」
と、門守の不安を拭ってやるようなことを言った。門守はたちまち神にでも遭遇したかのような顔をして、丁重に輪熊を門の向こうまで案内した。もちろん、輪熊一座の全員が門を通り終わるまで、門守は最敬礼で見送った。
「あの親方、いったい何者なの」
豊が御統に問いかけた。彼女は、御統の隣を歩いている。
豊の問いかけに、逆に問いかけたいような目を御統は返した。
川の辺で、血相をかえた豊に輪熊を呼びに走らされたあと、彼女は豹の檻を出ることを許された。輪熊の耳に囁いた豊の話の内容はわからない。輪熊は難しい顔をして、その顔のまま檻を開けた。そして何食わぬ顔で、豊は御統の隣を歩いている。
「親方は、親方だ」
ぶっきらぼうに御統は答えた。実際、そうとしか答えようがない。春日族の族長の兄と仲が良かろうと、門守に最敬礼で見送られようと、輪熊は、がさつで儲けにがめつく、暴力的で、いびきが騒音災害並にうるさいただの中年親父だ。
「あなたの知らない親方も、いるみたいね」
豊にその気はないのだが、彼女の済ました物言いは、このときの御統の癪に障った。
「だったら、豊はどうなんだ。豊こそいったい何者なんだよ」
「あら、わたしはわたしよ。そうでしょう」
豊の嫌味が濃くなった。御統は、勢いをつけて横を向いた。そのしぐさがおかしく、豊は小声で笑った。
輪熊一座は千引き門から物部門、爻わり門を通っていく。
山門大宮は、山門盆地ではずばぬけて大きな邑だ。御統の目が眩むほどの人でごった返している。
大宮には山門各地から旅人やら交易民やらがやってくるので、よそ者に対する警戒心は一般の邑に比べて低い。それでも豹やら虎やらの檻を牛車でごろごろ引き回す数十人の団体は、いやでも目についた。
しかし大方の邑人は、その団体が旅芸人一座だとわかると、興味の温度を下げた視線を外した。
豊が言ったように、大宮の人間は刺激に馴れており、旅芸人程度では好奇心をたぎらせない。何しろ大宮には、彼らの嗜虐性も、残虐性も、興奮欲求も、射幸心までも満たしてくれる娯楽が、二つある。
さて、爻わり門を抜けると、人が一段と増えた。人いきれで、輪熊座の座員の何人かは咳き込んだ。雑踏が巻き上げる土煙が日の光を遮ろうかとするほどで、せっかくの川での沐浴が意味を成さないほど、輪熊座は土埃に塗れた。
陰と陽が交差することを、爻わる、という。大真の人々は、陰と陽の交錯から様々な象を想像し、占術を大いに発展させた。爻わり門の名を付けた人間は、その占術を聞きかじったことがあるのだろう。千引き門内の郭には庶民が暮らし、物部門内の郭には兵舎が並ぶ。伴緒門内の郭では役人や貴族が屋敷の甍を競い、長鳴門の内側には山門主の宮処の壮麗な建物がそびえている。庶民や兵士と、役人や貴族とが交わる場所が、爻わり門内の郭なのだ。
ここには市が立ち並んでいる。
交易品を交換する場所を市といい、生活用品から貴族の嗜好品まで、あらゆる品物が並び、布やら生糸やら鹿肉やらがどんどんと、まさに空を飛ぶように交換されていく。御統は思わず腰に提げた銅鏡に手を添えた。
(この鏡と交換なら、どんな品物が手に入るだろう)
と、不埒な算段をする御統の頭の中を読み取ったのか、鏡は火のような熱さで御統の指を焼いて、懲らしめた。あわてて指を舐めた御統が鏡をみると、鏡はもう涼しい顔で御統の腰で揺れていた。
「なにしてるのよ」
豊が奇異を見る目を向けてきた。
「鏡が火の塊みたいに熱かったんだ」
「この陽気に銅の塊をぶら下げてれば、熱をもって熱くもなるでしょうよ。わたしが持ってあげてもよろしくてよ」
善意に見せかけた悪意を掌に乗せて、豊が手を差し出した。御統はあわてて鏡を衣の懐に押し込んでから、豊に向けて舌を出した。
軽い滑稽劇を抱えたまま輪熊一座は伴緒門の前で停止した。そこから先は貴人が宏大な邸を連ねる郭であるから、門の構えもいっそう壮麗で見栄えがよかった。両脇に物見櫓を従えている。門守の数も、林立する矛の数も多い。
門守の長らしき人物に、輪熊が例の割り符を渡そうとするよりもはやく、重々しい響きを立てて、門が開け放たれた。
貴人の郭から風が流れてきた。香りを含んだ風だ。庶民の郭と貴人の郭とでは、流れる風も品が異なるらしい。
開け放たれた門の隙間から、朱色に染められた高床の建物が見えた。澄ました高嶺の女が赤い衣をなびかせて佳い香りを立てている。輪熊一座の男の中には、この光景をそんな想像でうっとり眺める者もいたが、門からの風には別の匂いも混じっているのか、御統の隣にいる豊は、悪臭を嗅いだような顔をそむけた。
風に続いて門から出てきたのは、きらびやかな集団だった。御統からは遠目になったが、それでもその集団の全員が、練絹の衣と裳を身につけていることはわかった。
かなりの高位にある人の群であることは簡単に想像でき、山門主か、御言持ではないかと、御統は見当づけた。御言持とは、主の言葉を下々のもとまで持ってくる者のことで、西の海の果ての大陸風にいえば、宰相となる。
門守達が一斉に跪き、額づいた。あわてて、輪熊一座も門守達と同じように跪き、額づいた。
明らかに高位にあると分かる人間に対して、首、腰、膝関節が自然と柔らかくなるのは、人間社会に生きる人の哀しい性だ。人として成熟していない者は、無理矢理に頭を押さえつけられる。このときの御統と豊のように。
成熟してなさそうな人間が他にも二人いた。
風になびく草原の二つの巖のように立っているのは、輪熊と鹿高だ。
きらびやかな集団の外縁にいる者達が、二人を咎めるような目を向けた。彼らの蒙い視野を遮るように衣の袂を派手に広げた長身の人物が、春の日を乗せたような朗らかな笑顔で、輪熊と鹿高に近づいた。そしてあろうことがその人物は、輪熊と鹿高の前で膝をついたのだ。
「ようこそお越しくださいました。輪熊さま、鹿高さま」
さすがに額づいてはいないが、頭を深々と下げている。輪熊一座も、門守たちも、きらびやかな集団のその他の人々も、その光景に唖然とした。
「おいおい、大山門の御言持ともあろうお方が、そんな格好をするもんじゃねぇ。みんな驚いてるじゃねぇか。あの若い兄ちゃんなんか、あごを外しそうだぜ」
そう言って、輪熊はその人物の脇を支えて立たせ、裳に付いた土を払った。
「私は、本当に礼を尽くすべき相手を知る者です」
そう言う彼の両肩に手を置いた輪熊は、彼をなだめるように、
「まぁ、そうは言ってもな、お前さんにそんな態度をとられるとな、おれも何かとやりにくいのよ。おれの一座をここで旗揚げさせてもらおうと思ってるんだが、お前さんがそんなんじゃ、やる方も見る方も緊張しちまって、お上品なお子様発表会みたいになっちまうじゃねぇか」
そう言って、大声で笑った。
「しかし、お熊さまは」
口を尖らせかけた彼の言葉を、輪熊のよりも大きな笑い声が邪魔をした。
「どうだ輪熊よ。我が弟の大日は、相変わらずの律儀者だろうが」
貴人の郭の門から、のっそりと山賊が現れた。
輪熊座の座員には思わず逃げだそうとする者もいたが、むろん山賊ではなく、大宮に入る手前の川で沐浴する輪熊一座に土埃をかぶせた一団の頭だ。御統の記憶では、たしか春日族の族長の兄貴だ。このお頭が弟と呼ぶ限り、この礼儀正しい御言持は、名を大日といい、春日族の族長でもあるということだ。弟の品格ある衣装とは真反対に、輪熊と同じような獣の皮衣を着込んでいる。
「律儀も、すぎると馬鹿になる。おまえがしっかりと教育せんか、大彦よ」
輪熊と大彦とは、互いに厳つい肩を叩きあった。一目では、まるっきる山賊同士の悪談判だ。
「馬鹿とはひどうございます、輪熊さま」
そうはっきり指摘されてしまえば、大日は苦笑いするしかない。
「それがいかんと言うのだ、大日殿。輪熊さまやら、鹿高さまやら。やめとくれよ、ほんとに」
たまらず口を挟んだというのが、鹿高だ。そう悪態をつきながらも、馬鹿丁寧な大日を、鹿高は嫌いではない。
「おお、鹿高殿」
輪熊と大日を押しのけて、大彦は鹿高の前に立った。
「あいかわらず、佳い女だな。わしに会いにきてくれて、うれしく思うぞ」
「べつに、大彦殿に会いにきたわけではない」
鹿高はするりと、二、三歩後ずさった。大彦の太い両腕が、鹿高の残影を抱きしめた。
「つれなさもあいかわらずか。そそらせるのう」
負け惜しみに馬鹿笑いする大彦の足を、踏みつけた男がいる。大日だ。
「鹿高さまが兄上に会いにきたりはせぬと思いますよ」
「あ~ん、お前に会いにきたとも思えんがな」
兄と弟は、色恋沙汰の薄紅色をけばけばしく赤めた視線を激しくぶつけあった。
「ぶん殴られてぇのか」
と、大彦。
「ほう、その鈍い拳が私に当たったことがありましたか」
と、大日。
「おい、わたしはだれに会いにきたわけでもないぞ」
という鹿高の主張は、兄弟にまったく無視されている。
「お前はあっちのむさ苦しい山男の相手が似合ってるぞ」
これは、大彦。
「いえいえ、品のない者のお相手は、品のない兄上にお任せいたしまする」
これは、大日。
「おい、聞こえてるぞ」
という輪熊の苦情は、兄弟にまったく無視されている。
取り巻きの、きらびやかな集団も、輪熊一座も、門守たちも、突然始まった兄弟喧嘩を呆然と見守るしかなかった。特にきらびやかな集団は、悪夢でも見ているような顔をしている。
誰も兄弟喧嘩に割って入ろうとする者はいなかったが、兄弟の口喧嘩が、やれ『鹿高さまは私との雅な会話をお楽しみになられるのです』やら、やれ『鹿高殿はわしと寝床を共にすることを望んでいるのだ』やらの言い合いに発展すると、誰の目にも明らかに、鹿高の怒りが爆発寸前となっていた。
そこへ無粋の権化のような輪熊が、鹿高の腰に手を回しながら、
「まぁ、好きなだけ言い争うがいい、負け犬どもよ。鹿高はな、おれの女なのだ」
などと言ったものだから、恐ろしいことがおこった。鹿高の踵が、これでもかというほど、三人の男の脳天を叩きのめした。
「大日殿、二度とわたしをそう呼ぶな。大彦殿、わたしにそんな望みは欠片もない。輪熊、次言ったら殺す」
辺りが、しんと静まりかえった。春の日射しも物陰に隠れたように、冷気がただよった。
「…以後、気をつけたいと思います…」
三人が三様に、うめき声のようなか細い声で、ようやくそう言った。きらびやかな集団の中には、山門の人臣の最高位にある御言持が、野人の女に蹴り倒されるという恐ろしい光景に、泡を吹いて倒れる者もいた。
「まぁ、そんなこんなで、お互いに挨拶は済んだようだな」
凄惨な修羅場を軽い口調でまとめたのは、靫翁だ。その軽さに、周囲の者みんながようやく息をつけた。
「あの、もしもですが、あくまでもしもですよ、あなた様を靫翁様と呼んだ場合は…」
大日はおそるおそる尋ねてみた。彼は、彼の唯一の上位人である山門主にも、そんな尋ね方はしない。
「うん。射殺されるだろうな」
と、あっさりと言った。その軽さが、大日に、よけいに恐怖を感じさせた。
「ところで、いい年して、まだそんなごんたくれな格好をしとるのか、大彦よ」
という靫翁の目が辺りを探したが、大彦の姿はなかった。彼は路傍の木の陰に隠れて、懸命に擬態に努めていた。
「まぁいい。ところで輪熊よ。だいぶ人だかりもできてきた。興業に集まる人だかりはよいが、見世物になるのはごめんだ。そろそろ落ち着くべきところに落ち着こうではないか」
「そうだな、そうするか」
青く腫れた顔をさすりながら輪熊が大日を見ると、
「それでは我が拙宅にご案内いたします」
と、恭しく一礼し、きらびやかな集団の何人かに指示を与え始めた大日は、先ほどまでの自分の痴態をなかったことにしようとする魂胆が丸見えだった。
ようやく和やかな方向に動き始めた雰囲気に、周囲の者たちは安堵するやら、苦笑するやらだったが、ひとり感心しきりだったのが御統だ。腕を組んで、しきりにうなづいている。
「啄木鳥にでもなりたいの」
豊が冷ややかに言った。
「いや、さすがに親方だ。こんな即興で、こんなに可笑しい寸劇はできないぞ」
御統は輪熊への畏敬の念を深めたような顔をしている。他に気づくことはなかったのかと寸言を入れたくなった豊だが、
「つくったわけじゃないでしょうけど」
そう言いながらも、言われてみれば確かに面白かったと、豊も思った。
さて、輪熊一座はようやく伴緒門を通り抜けることを許された。
大日は門の傍らに立ち、門を通っていく輪熊座の座員達の会釈に、にこやかな笑顔で応えている。輪熊、鹿高、靫翁も、大日のそばにいた。路傍の木になりきっていた大彦も、いつのまにか素知らぬ顔で、大日の後ろに立っている。
門守たちとすれば、上役の許可さえあれば誰が門を通ろうとお構いなしだが、大日や大彦をとりまいたきらびやかな集団の中には、物乞いの集団のような輪熊一座が、この山門大宮の貴人と部民とを分かつ聖なる門を越えることに、嫌悪を露骨に顔に出す者もいた。中でも、大日の息子の入彦は、輪熊一座を一目見ただけで全身に走る虫唾とむず痒さとを首の上で絞りきったというような顔をしていた。
ちなみに、貴人とは貴族層の人間で、部民とは庶民のことだ。山門大宮に暮らす庶民は、いずれかの部に属するため、部民と呼ばれている。部は職業集団であったり、有力貴族の私有民であったりする。
さて階級の壁は神聖絶対だと信じる入彦は、彼なりの正義感に動かされ、小走りに父の横に並ぶと、咎めるような強さで父の袖を引いて、
「父上、なにゆえあのような汚らしい連中を京郭に入れたのですか。御言持とはいえ、これが主や持傾頭の耳に入ればお咎めとなりませぬか」
などと、分別くさいことを言った。
京郭とは伴緒門で区切られた貴人の居住区で、山門主の宮処のある居住区は長鳴門の向こうの内郭という。内郭の中に、山門主が神に祈りを捧げる斎庭のある奥郭があるが、その存在は入彦も耳で聞いたことがあるだけだ。
千引き門の外にも庶民の舎が乱雑に建ち並んでいるが、大宮に入ることを許されない彼らも山門の大切な民だと認識する大日は、かねてから宮外の区画整理にも手を付けており、里という単位で彼らを山門の国体に取り込もうとしている。
それを喜ぶ民もいれば、支配されることを望まない民もいる。手を付けた当初は、宮外に騒がしい声があったが、去るべき者は去り、いまは比較的好意的な態度で、大日の政策は受け容れられている。そういった父の細やかな政治配慮は、入彦の視界には映らない。
ちなみに、入彦の言葉にある持傾頭とは、山門主のいわば秘書官だ。山門主が死に、棺に安置されるとき、その頭を持つことになるのがその名の由来だ。政治的な実権は本来持たない職だが、山門主の私生活に張り付いている職務の性格上、ときとして御言持を凌ぎ、影の最高権力者となる場合がある。
ついでながらこのときの持傾頭は名を登美彦といい、御言持の大日を春の日光とすれば、彼は秋の霜となるほどに、性格は真反対である。
「おう、さきほど危うく顎を外しかけていた兄ちゃんだな。入彦だったよな。よく口が回るようでよかった」
と言った輪熊に悪意はなかったが、癇に障った入彦は、鼻で風を起こしそうな勢いで横を向いた。
「入彦よ。父の客は、子の賓客とは思えぬか。余計な口を動かす前に、客人の先頭に立って我が邸を案内してまいれ」
大日に叱られた入彦は顔を青くした。温かい日だまりのような笑顔を浮かべている父が、怒らせれば、実は荒神や鬼よりも恐ろしいことを入彦は知っている。
「そう言ってやるな。入彦にしてみれば、文句の一つも言いたくなるってもんだ」
と言って入彦を庇ったのは大彦だ。彼は、血が繋がっているとは思えない華奢な入彦の肩を抱くようにして、
「まぁ、確かに人を外見で見下すのはよくないことだ。だがな、本当に腹の立つやつがおればわしに言うといい。わしがこっそりぶん殴ってやる」
どこにいてもこっそりできそうにない図体を入彦に寄り添わせながら、大彦は、入彦と連れだって輪熊座の後についていった。
「大彦の馬鹿伯父っぷりもあいかわらずか」
輪熊は呆れた。大彦は、男児に恵まれていないせいか、甥の入彦を溺愛している。
「いいのか、そのうちどんでもない馬鹿殿っぷりの山賊ができあがるぞ」
輪熊が半ば本気で忠告すると、大日はそれも悪くないという素振りで苦笑した。
「それは困りますが、兄には、あれで大変助けられているのです。御言持の子は辛い。私に、どんなことでも笑い飛ばせる兄のような器量があればよいのですが」
「むずかしいものだな。しかし、お前さんにはそんな器量はないほうがいい。お前さんに器量まで備われば、山門主は近々かわっちまうだろう」
「輪熊さま、今そのようなお話は」
大日は、人には気取られない程度の苦みを口調に添えて、輪熊をたしなめた。
「おっと、そうだった。だがお前さんも忘れてるぜ。わしは輪熊だ。ただの、しがない旅芸人の元締のな」
輪熊は小気味よく笑った。
一緒に笑った目をすいと滑らせた大日は、視線を、輪熊座の最後尾にいる男児に留めた。
「…あの男童が、そうですか」
と、大日は含みのあることを言った。
「まぁ、そうだ」
輪熊は重量のある息を落とした。
「お前さんがわざわざ使いをよこしたのは余程のことがあってのことだろうが、わしには正直、わからんよ。御統がお前さんの助けになるのかどうか」
「…御統、そうですか、御統というのですか、あの男童は」
大日は、何か得心したような顔で御統の後ろ姿を見つめた。
「大丈夫です。五百箇の遺した子です。必ずや、この山門の救いとなるでしょう」
大日の、御統を見つめる目の光の強さが増した。五百箇は、御統の父の名だ。御統が知らない父の名…。
「…そうか、ならいい」
輪熊は、胸の底の感傷を持てあましたような顔をした。
「ところで、となりの女童はだれです。なにやら異質な風をまとっていますが」
大日は、目で豊を示した。
「…うん、あれか」
輪熊は少し考え、言い淀んでから、
「お前さんに、少女嗜好の趣味はあったかな」
と、脈絡のないことを言った。大日は、全身で、
「は?」
という疑問を表現した。
「いや、忘れてくれ」
輪熊はごまかした。ごまかすしか仕様のない理由があるからだ。豊が、如虎と同居していた檻から出ることができた理由が、それだ。
輪熊が豊を檻から出してやるために提示した条件は、豊の言霊の呪術を、彼女が壊した鏡代わりに輪熊座の興業に使わせろ、というものだったが、豊は別の条件を出して、檻と、忌々しい破魔矢の手枷からの脱出を果たしたのだ。
気の優しい豹の如虎とは良い関係が築けそうだったが、この際、仕方がないと豊は割り切っていた。
さて、豊から出された条件は、輪熊を悩ませた。
豊はまだ少女だが、纏っている夜色の暗さを除去すれば、目の覚めるような美少女だ。そして幼いとはいえ、その身体には女性特有の膨らみと丸みができてきている。世の中には、それがいいという男も稀にいる。それを十分自覚しての、豊の条件だった。
自分を山門の御言持に献上せよ、と豊は言った。
この場合の献上という言葉には、重い意味がある。人の身は玉ではないのだ。自らの未来と、尊厳と、幸せを放棄しようという意思がなければ口にできない提案だ。
確かに豊のような美玉を山門の最有力者に献上すれば、輪熊の、山門での立場は安泰で、輪熊座の興業も大成功となるだろう。もちろん、その最有力者の大日と輪熊とは、そのような手段を全く必要としない良好さにあるが、そのことを知らない豊が、なぜそんな提案をしてきたのか。
輪熊は、そこに豊の暗く寂しい過去と未来とを見た。見ただけでなく、その原因を突きつめ、できればその酷虐さから救い出してやりたい。やりたいではない。輪熊は、がさつで、無遠慮で、儲けにがめつく、無粋の権化のような山賊男だが、幼子が、暗い崖の底に潜む不幸から手招かれている場面に遭遇した場合、絶対に不幸の邪魔をしてやることに決めている。
その邪魔をするに際しての事前確認として、大日がそういう稀に分類される男なのかどうかを尋ねたのだ。だから問い返されても、ごまかすしかない。
むしろ豊の提案通り、大日に献上してみてはどうだろうか、という声が輪熊の中になくはない。
大日は、滑稽な面が多少はあるが、人を、生命を遍く照らし出す日の光だ。そういう意味で、いまの山門主は、最高の御言持を選んだことに間違いはない。なぜか鹿高に惚れているらしいところが欠点といえば言えるが、大日のもとにいれば、どんな暗闇も刷毛で払うように消え去るのではないか。
「何をお考えです、輪熊さま…、いや輪熊殿」
輪熊の自問自答が聞こえない大日が、沈黙の時間を終わらせるにはそう尋ねるしかない。
「おい、なにを話し込んでいるのだ。われわれだけ、馳走してもらえぬのではあるまいな、大日殿」
と、鹿高が、輪熊と大日の会話に割り込んだ。そろそろ、腹が減ってきている。
「とんでもございません。鹿高さま…、いや鹿高殿。あなたのためにこそ、最高の食事を用意しております」
飛び跳ねるようにしてそう言った大日は、もう輪熊のことなど眼中にないような、御統も輪熊も実は鹿高を招くためのだしに過ぎないとでもいうような浮かれようで、恭しく鹿高の手を取った。
大日に手を引かれて付き添われた鹿高は、まんざらでもなさげな顔で、輪熊をちらりと見た。やれやれと輪熊は息をついたが、その息は、先ほどついた息よりも、ずいぶん軽くなっていた。
ここで、この物語の舞台と一つとなる山門という政治的共同体について整理しておきたい。
国、という西の海の果ての大陸で生まれた概念は、御統の時代の豊秋島には、一般人の共通認識としては届いていない。一部の知識層が、天と地と四方を合わせて六合とするという発想を持っていたにすぎない。
クニ、とは元々、土地の境界線を示した杭を語源とする説がある。この二つの考えが知者の頭脳の中で調合されて六合となり、渡来してきた文字という文化の中から『国』という一文字を見つけ出し、『クニ』の読みを充てたのは、御統よりも後の時代のことになる。
西の海の果ての大陸では、ある時期、国が何百とあり、それはいわゆる都市国家であったが、やがて『領域』『領土』という考え方が誕生し、互いに攻伐併呑した結果、この物語の時点では、真という名の巨大帝国が西の海の果ての大陸をほぼ支配している。
ところで、社稷という思想も西の海の果ての大陸で生まれ、これは豊秋島にも浸透し始めている。もっとも豊秋津島では、社稷と読まれる。
社は土地の神のことで、稷とは五穀の神だ。土地の神と五穀の神を祭ることによって、人々は獣や穀物といった日々の糧を得る。
社稷の祭は人々にとって最重要事項であり、特に農業という最先端技術が普及しはじめた地域では、その集団のなかで、もっとも優れた者が祭を主宰することになるのは自然のなりゆきだった。
優れた者というのは、いわゆる農事季節の調整、どこを耕し、どこに種を播き、どんな作物を育て、いつ刈り入れするか、という判断を的確に行える者のことだ。大地に作物を育てるという農業の思想が届いていない豊秋島の辺地では、狩猟、漁撈、採取が主な食料入手手段だが、そうであっても、優れた者が主導者になって社稷を祭るという考え方に違いはあまりない。
さて、いくら優れた人物であろうと、ある集団の未来を左右する祭りを一人では執り行えない。有力者と相談し、あるいは指示を下して、この最重要事業を執り行わなくてはならない。
いつ相談し、指示を下すのか。それは、朝だ。なぜなら、土地の神、五穀の神を目覚めさせる日の光が、朝に射すからだ。
どこで相談し、指示をくだすのか。それは地だ。具体的には地を盛り上げて壇とする。そうすることによって、土地の神、五穀の神の力を結集させるのだ。
壇のことを庭ともいい、廷ともいう。かくして人々は、朝廷において、祭りごとを執り行うようになった。
よって、山門における政治的共同体は、山門朝廷と呼ぶことができる。
山門朝廷はいくつかの集団によって構成され、運営されている。
中核となるのが斑鳩族だ。彼らはその昔、天磐船という堅牢で速い舟を用いて、山門盆地に流れる川を支配した。川を支配することと、水運及び物流を支配することとは同じ意味だ。だから斑鳩族は、山門の諸族のなかで政治的に優位な立場を占めることができた。
斑鳩族の長を饒速日という。これは個人名ではない。斑鳩族の長が代々と受け継いでいく長たる資格を表す名前だ。
ある族が他族を吸収し、規模が大きくなった族の長は主となる。山門盆地の諸族を傘下に収めた饒速日は、山門主となった。
斑鳩族以外の有力な集団として、登美族がある。この族は騎馬を操り、戦闘力に高く、饒速日を陸上戦力で支える第二位の族だ。次に、登美族から分かれたといわれる春日族がある。他にも、葛城族や、平群族)、巨勢族、和珥族などがそれぞれの支配領域に盤踞している。
各族はそれぞれの得意分野で部を構え、部に属する民を自分たちの邑や山門大宮に住まわせている。
族長の邸は自分たちの邑の一等地に建てているほか、山門大宮の伴緒門の内側、つまり貴人の居住区に壮麗さを競うようにして大殿を構えている。大宮内の住居には、正妻と嗣子を住まわせることが決まりとなっており、いわば体のいい人質だ。
さて、山門朝廷の政治機構はまだまだ未成熟で、真帝国のような複雑巨大な組織を作りようがない。
主なものとしては、御言持があり、真帝国風にいえば宰相となる。主の言葉を、人民のもとへ運んでくる者という意味だ。運ぶ道すがらに、主の言葉をどう扱おうと御言持の自由自在であるので、権力は絶大だった。
なぜなら、主は宮の一番奥深いところに住み、御簾の向こうに姿を隠して隠身となる。人民には見えない存在になるのだ。
隠身はやがて隠身上がりし、天地の神となる。隠身上がりは崩りともいわれ、要するに死ぬことだが、隠身は永遠の命を授けられる、と一般には信じられている。そのため、主の墳墓には、日常生活用品が共に埋められるのだ。ついでながら、永遠の命を持たない者は、非永、つまり人である。
もう一つの重要な職位を持傾頭といい、主のいわば秘書官であることは既に触れた。死んだ主を棺に安置するとき、その頭を持つことになるのがその名の由来だ。
時として御言持を凌ぐ権力を持つことがあるが、御言持が晴れやかな表の栄光職であるのに対し、持傾頭は密やかな裏方職だ。
御言持は、山門諸族の第二位である登美族から選ばれることが慣例となっていたが、現今の山門主が登美族の枝族にすぎない春日族の大日を抜擢したことが、一見、平和繁栄に見える山門朝廷の、底根にある決して小さくない穴となって存在している。
人目につかないところで密かに穴を広げ、深く掘り続けている持傾頭の登美彦は、実は伴緒門の騒動を、奥深い宮殿の高楼の一房から、霜が降りそうな冷ややかな目で見つめていた。
彼は近々、我が世の春を謳歌している大日の、大切なものを損なってやろうと企図している最中だった。
御統と輪熊一座を山門大宮に呼び寄せたのは、山門の御言持、大日だった。豊は身を犠牲にしてでも、大日に近づこうとする。彼女には秘密の目的があった。